秘色のエンドロール

十三不塔

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第三章 虹と失認

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 ⒙


 前頭葉と頭頂葉と脳幹。
 佐倉結丹の1400グラムの脳。その灰白色のタンパク質の大部分は正常な機能を失いつつあった。前頭葉の障害は、言語機能の不全と意欲の低下を引き起こす。神経回路の報酬系が鈍麻していく。活性を失うドーパミンと意志。佐倉は無気力の深い洞窟の中にいるような気分だった。頭頂葉は空間把握と身体座標の関連に深く関与している。よって彼女は世界における自分の立ち位置を取り逃がし、断崖にかろうじて引っ掛かっている糸くずのような心細さを感じている。
 この世界という傾斜からいまにも滑り落ちてしまいそうだ。触感や温感をもたらしてくれる部位である脳幹は彼女と漆間を繋ぐことをやめたのみならず、佐倉結丹を彼女自身からも引き離しつつあった。
 脳の三か所からもたらされた強力な作用で、佐倉は自分自身からズレ、はみ出していく。
 ――離人症。そう呼ばれる症状に近い、というかそれを非常に強力にした状態に結丹は放り込まれた。
 症状の推移はこうだ。
 まず、巨大なコンニャクを押し付けられたような架空の圧力感が生じる。思考がまとまらなくなり、口の中がカラカラに乾き、やがて皮膚の内と外との境界線が曖昧になる。コンニャクはズブズブと体内にめり込んでいく。
 外が内に押し入り、内が外へ押し出される。身体の部位で最後まで自分のものと感じられるのは、痛いほどに耳鳴りする耳朶だったが、それもやがて大気に溶けてしまう。 
〈相乗り(オムニバス)〉が解除され、彼女の中に漆間の存在は感じられなくなったが、彼女自身もその身体から排斥されていた。
 それを解放と呼ぶべきか、あるいは疎外と形容すべきか?
 四肢を動かすことはできる。が、まるで別室のロボットを操縦するような疎隔のもどかしさがある。臨死体験者が己の肉体を見下ろすのと似て、その体感は空恐ろしい。佐倉結丹はガス状の希薄な気体になりつつある。敵である少女の身体さえも自分の一部であるような錯覚。そればかりではない。この部屋そのものが佐倉の末端であり、切り離されることのない総体だった。散らばるガラスの破片の一粒一粒に神経が通っているような気がする。
 ――なんてこと、と不定形の少女は悶える。
 わたしは溶ける。消える。
 恐怖を突き抜けた先に恍惚の予感がある。しかし、それに触れてしまえばもう戻れなくなると直観が告げる。食い止めなければ。今は何かの途中だったはずだ。ただ、悲しいことにそれが思い出せなくなっている。
 ――待って、このままじゃ、このままじゃ、と意識を引き戻そうとするが、向こう側への誘惑は強烈で抗い難い。世界は静かに輝きを増していく。光り輝き、世界がその美しさを増すごとに未練は消えていく。そうだ、未練などない。この腐った世界に愛想なんて尽きてたはず。もう行ってしまえばいいのかも。わたしはひどく消耗し、すり減ってしまった。もう取り戻せないほどに欠けてしまったから。わたしを引き戻すとしたらそれは――
「投げなさい。佐倉結丹」
 ああ、この声だ。この声なんだ。
 鹿野銅音。そしてもうひとりの少女が精神の奥へ呼びかけてくる。あなたたちだけがこの世界とわたしとを繋ぐ最後の絆かもしれない。彼女たちが敵だったことなら覚えている。しかし今やそれも愛おしい恩讐の縁だった。
「水晶を取るんだ。これが最後の――」
 そう。水晶にはすべてが映り込んでいる。それは結丹が殺した象の瞳であり、彼女自身を見つめ返す慈愛の眼差しだった。アイ。それが自分の名前さえ忘れた少女の記憶に残る最後の固有名。
 愛。アイ。アイ。
 わかったよ。最後までそうするよ。
 結丹は、解きほぐせない因果の透明な結び目をその手に掴んだ。
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