大江戸大迷惑〜迷宮無頼剣〜

十三不塔

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第一章 大江戸騒乱変

藤見麟堂

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 藤見麟堂は歳の頃、六十余りだそうだが、ついと伸びた背筋と厚みのある体躯から、ずっと若く見えた。ずっと探していた麟堂が、ひょっこりと我が家に姿を現したことに俺はむらむらと苛立ちを覚えた。独りよがりな憤懣である。
 麟堂にしてみれば、俺たちが探していることなど知る由もない。勝手に翻弄されて、勝手に腹を立てていれば世話はない。
「ほう、不肖の弟子は元気であったか。礼を言うぞ」
 廻鳳のことは可愛いと見える、弟子の息災を伝えるとほっこりと相好を崩して、麟堂は視線を巡らせた。
「迷宮の子か」眼差しはやがて喜兵衛に止まった。
「知っているのですか」
 雪之丞が食いつくように訊ねた。
「機人は赤子を運んでくる。他にも多くの珍奇なものもな。焦土に妙な蕾のようなものが見えたろう。あれも機人が植えたものだ」
「なぜ?」
 次は俺が問うた。
 麟堂はにっと口角を上げ、太い笑みを浮かべた。廻鳳の師と聞いて学者肌の柔弱な男を想像していたが、その風格は重厚でありながらもどこか飄々として捉えどころがない。
「さてな。儂を物知りだと決めつけるのはやめておくがいい。物を知っていれば、それだけわからぬものも増える」
「しかし、あんたは江戸でその名を知らぬ者はないという学者であろう。そうでなければ困る。この赤子のことも、そして俺のことも知らねばならぬ」
「ふむ、廻鳳の頼みを聞き入れてくれたことには礼を言おう。その子の面倒も引き受けよう。ただ、知らぬものは教えられぬ。学問の教えを乞いたければ、まもなく開講する震央舎《しんおうしゃ》へ来なされ。銭は取るがね」
 藤見麟堂の私塾、それが震央舎であった。蘭学、和算、天文までも教える裾野の広い学問所であり、また迷宮のいろはを学ぶにもうってつけの場所であった。探降者の卵たちの多くがそこで学ぶという。
「俺は学問をしてぇわけじゃねえ」
「であれば、儂には何もできぬ」
「ただ、心当たりがねえか、知りたいんだ。迷宮の中で俺は難訓てぇ呼ばれた。俺はなぜこうである?」
「難訓。訓育施すこと難し。それは“教え難い”という意味であるな。お主にぴったりの形容ではないか」
「なんでぇ、ただの悪口だったのか」
「さて――己がなぜそうあるかなど誰が知ろう」
「煙に巻こうたってそうはいかねえ。親父に何ぞ口止めされているのか」
「なぁ、ぼちぼちお暇させてくれんか。近頃は腰が痛くての。それに腹が減った」
 気弱に述べると急に老人然と縮み込んだから、食えない男である。これでは俺がじいさんをいたぶっているようではないか。どっこい俺はそれを恥じない男である。
「ではの、さらば――」
「やいやいやい。待てこらぁ!」
 俺はゴロを巻いた。さながらチンピラであった。なんとか因縁を吹っ掛けてでも麟堂の口を割らせなくてはいけない。
「よせ、兄上、その方は父上の客人ぞ」
 と声を震わせた弟が止めに入るが、俺の〈無忌鎮永〉はとっくに抜かれて、冴え冴えとした光を放った。

 ほう、と麟堂が眼を眇めて、老いぼれた演技を振り捨てた。
「無忌斎の得物ではないか。なぜ?」
「拾ったのさ。こいつの前の持主をご存知なのか?」
「やたら儂に突っかかってきた剣術遣いよ。腐れ縁だな。剣仕としての腕はずば抜けておったが、ある日、迷宮の深層で屍を晒しておった。義理はなかったが、ふと気まぐれで、その刀は地上に近い場所まで引き上げてやったのよ」
「だったら」と俺は瞳を爛々と輝かせたろう。「その無忌斎って野郎の未練だってことであんたに喧嘩を売る理由は充分だろう。この刀がまだ斬りたがってるんだよ。あんたをな」
「奴の技量はついに儂には届かなかったよ。そしてお主の腕は無忌斎の足元にも及ばぬ。試合うまでもない」
 麟堂は豪快に笑った。声量たっぷりだったが、面差しは幼子のごとくあどけない。
「そうかい」
 無忌斎ってのも、侮られたままでは浮かばれまい。俺が一太刀でも浴びせて冥途の慰めにしてやろう。
「それでも」
 言うなり、俺は前のめりに駆けた。一瞬で距離を詰め、〈省略《せいりく》〉を利かせた斬撃を斜めに繰り出した。
 そいつは青面鬼を屠った時のような会心の一撃であった。
 なのに――。
「――な、なんだ」
 届かないのだ。剣風が、麟堂のもみあげの白い毛を揺らしたのみであった。麟堂は躱したのでもない。身じろぎひとつしていない。それなのに俺の刀は見当はずれの虚空をよぎったのみである。たたらを踏みそうになるのを堪えて、振り返り様に横凪ぎに一閃、さりとて今度は間合いが近すぎる。懐に潜り込んだ麟堂の手が、そっと〈無忌鎮永〉の柄に触れたとみるや天地は逆転した。柔の技であろうか、俺はしたたかに大地に頭を打ちつけた。
「かはっ! ジ、ジジイ」
「ほれ、ついでの余興じゃ。そっちの。射ってみい」
 おもむろに麟堂は雪之丞を煽った。誘われるように雪之丞は喜兵衛を弟へ預けると、矢をつがえ、弦を引き絞った。しかし、ゆらゆらと弓手が揺れて定まらぬ。
「だ、駄目だ。動けない」
「無理か。ならば少し弛めるか。これならどうじゃ?」
 特別な何かをしたようには見えぬ。が、ようやく雪之丞は矢は放つことができた。しかし、それもまた明後日の方角へ疾っていった。
「目くらましの手妻か」
「もう少し楽しめると思うたが、ここまでか。お主らの腕は、そうだな、迷宮地下十五層あたりがせいぜいといったところか」

 地べたに這う俺の胸のあたりを麟堂がちょんと爪先で踏んだだけで、身動きはおろか、呼吸すらできなくなる。鉄釘で四肢を縫い留められたかのようであった。
「〈省略〉の初歩には達しておるようだが、まだよちよち歩きよ。〈省略〉にはもっと奥がある。間合いと拍子を意のままにすることができねば、地下三十階層の空気を吸っただけでおっ死ぬぞい。せめて〈連切《れんせつ》〉と〈折畳《せつじょう》〉を。いや、まだ早いか」
 悠長なひとり語りの間にも俺は窒息しそうである。
「久兵衛どのも精進めされよ。おおっと、その子は預かっておこうか。機人街はの、増上寺をぐるりとめぐるように拡がっておる。この子に会いたければいつでも来い。儂の塾もそこだ」
「‥‥く」
「罪人の刺青か」
 そう言う麟堂の口調には皮肉が混じる。
「お主は己が罪のない人間を殺めてきたと思っている。獣の性を持って生まれたとな。しかし、お主が手にかけてきた者たちは果たして人間だったか?」
「どういうことだ?」
 俺の口から空咳のような声が漏れた。麟堂の問いは、伏した地面がずぶずぶとした沼に変わっていくような錯覚を生じさせた。

「ひとつだけ教えてやろう。お主が最後に殺めようとして果たせなかった遊女がいたろう」
「ああ、月の兎つきのとといったか」
 俺はその女をつけ回したあげくに辰巳の手に捕らえられたのであった。月の兎は俺の疫病神である。相手にとってもそうであったろうが。
「驚くな。江戸を焼いたのはあの女さ」
 殴られたような衝撃であった。嘘だ。付け火をしたのは大円寺の真秀とかいう坊主のはずである。迷宮から出てこの方、行き会った者誰もがそう言った。
「ああ、はじめの付け火は坊主の仕業だ。だがな、ひとたび鎮火した火は馬喰町より再び燃え上がったのだ。そちらの下手人こそがお主がつけ狙った遊女よ」
「待て」
 俺はようやく力任せに麟堂の足をどかして、立ち上がると、靄を振り払うように両手で空を掻いた。すると、ひとつの火事だと思われていたものが、その実、二つの連続する付け火だったのというわけか――そして犯人は俺の餌食になりかけた女であった。
「ど、どう考えたらいいのか。そりゃまるで」
「お主を好きにさせておけば‥‥あの女を殺させておけば、江戸はこんなにもひどい有り様にはなっておらぬ。そういうことだ」
「そうか。だから辰巳は」
 あんなにとりとめのない態度だったのか。俺を憎むようでもあると同時に己を苛んでもいた。やつは忠実にお役をこなすことで江戸を丸焦げにしたのである。皮肉というのも生易しい。生涯、自責の念からは逃れられぬであろう。
「あの女は?」
「お主と同じさ、獄に繋がれておる。迷宮送りでは済まぬであろうな。火炙りは免れぬ」
「確かに江戸をこんなふうにしちまう奴は人間じゃねえな。たったふたりの手に何人の命が散った? 数えきれねえほどだろう。俺がちまちまと人をバラして喰らったところで十本の指に満たぬ。それがたった数日で‥‥」
「いや、そういう事ではない。言葉そのままの意味だ」
「なんだと」
「おお、よちよち」
 むずがり出した喜兵衛をあやしながら麟堂はくるりと背を向けて、往来へと歩き出した。麟堂の歩法は、かの足萎えの禹王の如くおぼつかないが、これも幻惑の手妻なのであろう、どうしても視界の内ではっきりとした像を結ばない。
「待てよ、こら。まだ話は終わってねえぞ。でっ!」
 俺はその曖昧な背中を追いかけた途端にすっ転んでしまう。
「どいつもこいつも思わせぶりしやがって」
「無暗に吠えるでない。逃げはしない、思わせぶりも好まぬ。何、そこらを散歩してくるだけだ、物騒なものばかり見せられて、この子が怯えているではないか」
「逃げるなよ」
「真実はひとり占めできる質のものではない。儂が言えることなら、なんでも聞かせてやらんでもない。しかしな、罪を許され、晴れて自由の身になったのだ。陽炎を追うよりも為すべきことを探した方がよくはないかね」
「余計なお世話だ」
 俺の粗暴な気勢などどこ吹く風、麟堂は初孫を得た老人のように喜兵衛を愛でながら、うきうきと町内の角を曲がっていった。居残された俺たちの胸には、一陣の薫風が吹き去ったが如き侘しさが残った。
 ――そして、案に相違せず、いくら待てども、麟堂は戻ってはこなかった。
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