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第一章 大江戸騒乱変
密談
しおりを挟む迷宮を征服する。
そうと決めたからにはすぐにでも飛び出していきたいところだが、相手が相手だけに事を急ぐことはできぬ。
勢いと気概だけで突破できる甘いものでないことは身を持って承知している。あすこには夥しい人智を超えた魔物と、悪辣な仕掛け、そして魔性を凌ぐ手練れたちが潜んでいるのだ。
とはいえ、俺には目先の仕事があった。月の兎をひとまずは蘇生させねばならぬ。魍魎街へ降りて蘇生の呪法を使える者を探すべきである。冬季とはいえ、屍の腐敗が進むのは避けられぬ。いっそ屍礫となってしまえば腐敗を案ずることもないのだが、それも地上ではどうしようもない。
「雪之丞よ、まずは魍魎街へ降りるか」
「駄目だよ、樋口さん。あんたは放逐刑で迷宮へ這入ったから忘れちまってるんだろうが、正面から這入るには公儀の許しがいる。職能を授けられてはじめて降りられるのだ」
「‥‥だったな。すっかり抜けてたぜ。七面倒な」
幕府は迷宮を飯の種にしているのだ。
職能と手形を得てはじめて人は迷宮へ足を踏み入れることができるが、それには幾らかの銭を支払わねばならぬ。お上に不満など抱いたことはなかったが、こうしてみみっちく絞り取られると、むかむかしてくる。数年前に起こったご政道批判の波を思い出す。竹内式部、山県大弐、馬場文耕、安藤昌益らがお上《かみ》に反旗を翻し厳しく処断された。いまなら俺もやつらに肩入れしてやりたい気分である。
「おいらがひとりで潜るって手もあるが」
雪之丞は弓術仕という職能をすでに得ている。
「それもいいが、この女の面倒におまえの手を煩わせるのは気が進まねえ」
「裏の道もあるが」と周囲を伺いながら雪之丞は声をひそめた。
俺たちは庭の喧騒より離れて道場に上がり込んでいた。弟なら咎めるところであるが、父親はまるで頓着しない。正面には妙見大菩薩の名号がある。綺麗に拭き清められた道場を眺めれば弟の苦労も知れた。母は他界した。与太者の父と兄を横目に、あいつはひとりで道場を守ってきたのであろう。労苦を慮ってやるべきであったかもしれぬ。
雪之丞は道場に据えてあった弓を取ると弦を弾いた。弓鳴りは破邪の響きである。そうして俺は気を取り直す。
「魍魎街の連中は手形なんざ持っちゃいない。勝手に住み着いてやがる」
蛇の道は蛇。
つまり迷宮へ手引きする裏の組織が存在するということだ。入口さえもひとつではないことはわかっている。そちらの道であれば煩瑣な手続きは要らぬが、公儀の恩恵を受けることもできぬだろう。何より一線を踏み越えた時には、寺田のような防人どもが敵に回ることとなろう。
「ふむ」
――表と裏。どちらの方途を採るべきであろうか。
「麟堂さんの塾なら、一番手っ取り早く職能と手形を貰えるよ。樋口さんの腕だったら剣術仕のその日に貰えるだろうさ。一応の試験があるが、あんなのは形だけのもんだしな」
「あるいは」と俺は思う。鼬小僧の伝手を使えば裏の道を案配してもらえるやもしれぬ。どちらを選ぶか。考え処ではある。
麟堂の震央舎に席を置くのか。あるいは群盗どもの一味になるか。
悩ましい選択であったが、俺の心はすぐに定まった。
「両方だ。俺たちはどんな手を使ってでも迷宮を平らげなきゃいけねえ」
ありとあらゆる知識が要る。すべてを盗み取って利用してやろう。たとえ盗人からでも、だ。後々ややこしいことになるかもしれぬが、その時はその時である。
「ふん、あんたらしいね。あくどい顔してるぜ」
「よし、なら手始めに盗人どもの巣に向かうか。この女のことも相談できるだろうよ」
そうして俺は暗夜に棲まう者どもと、再び、いや三度《みたび》交わることになるのだった。
× × ×
吟孤は不愉快を隠さなかった。
その理由のひとつは、俺がひとりではなかったことだ。的屋の女を通じて俺たちは鼬小僧の一味と落ち合うことにしたのだったが、雪之丞だけであるならまだしも、得体の知れない骸も引きつれてきたのだから猫目の呪禁仕の表情も曇ろうものである。
「しかも、そいつは江戸の滅茶苦茶にした女だってんだろう? 戯れも大概にしな。あたしらの一味があの大火でどれだけの損害を被ったか、知らないわけじゃないでしょうに」
刻は丑三つ時。場所は大川にかかる永代橋の下である。
大火以前は二文の通行料を取っていたが、混乱の最中、いまやそれもうやむやであった。
「ああ、そこを頼む。おまえらの力を借りたい」
「どうする頭領?」
吟孤は端正は顔を鼬小僧に向けた。傍らには薊野《あざみの》も控えていた。
「そうさな。弓術仕の方は、ひとりでも仲間を増やしたい窮状であるからして歓迎しねえでもねえが、遊女の方は面白くないねぇ。他の連中が納得しねえだろうし」
「そこをなんとかならねえか。俺はあんたらのために身の粉にして働くつもりだぜ」
どうだか、と吟孤は唇を尖らせた。
「まぁまぁ、お吟よ、そうむくれるなって。このお侍があたしらを都合よく利用しようってことはわかってるよ」
「だったら」
「それでも、だ。こちらにも旨味はある。それに過去のことをいつまでも引きずっても仕方あるまいよ。もし、この人がたとえ上辺だけでもあたしらに忠実に立ち振る舞うってんなら、うちの連中も説得してみようじゃねえか」
俺が鼬小僧に加勢しようと身を乗り出したところを雪之丞が割って入る。
「そうしてもらえればありがたいね。お互いに利を引き出す。そんな関係でいいじゃないか。信頼だの義理だのを掲げて裏で探り合うよりはよっぽどかすっきりすらぁ」
「うむ。薊野は、樋口さん、あんたを妙に気に入ってるみたいだしな」
俎上に挙げられても薊野はむっつりと押し黙ったままだ。西瓜の中身がどうなってるかは浅い付き合いでは見て取れぬようである。
「どうだい? 吟狐」
「わかったよ、二人が賛成ならね」
不承不承、吟孤は納得する。
「なら、決まりだ。さっそくだが、その女の骸を地上でしばらく保管するってのは引き受けよう。うちの術者が呪法で作った氷室がある。魚を貯めておく場所だったが、支障はあるまい。ただし、保つのは七日が限度ってところだよ。それまでに引き取りにこなきゃ朽ちるに任せるほかはない」
「ああ、充分だ」
「で、さっそくだが、こちらの仕事もこなしてもらおうか」
鼬小僧の薄い唇が、にたりと笑みを含んだ。
「任せておきな」
「話を聞く前から安請け合いしていいのかい。ま、どちらにしろあんたには断る術はないがね」
「もったいぶらずに早く言えよ」
俺はこの男を好きになれぬであろう。いずれ寝首を掻き合う、そんな予感がした。
「あんたは防人・藤見麟堂と知己だろう?」
「顔見知りって程度だがな」
どうやらこいつは俺の身辺をあらかた調べ上げているらしい。
「奴の私塾、震央舎《しんおうしゃ》に入ってもらいてぇのさ」
俺と雪之丞は思わず顔を見合わせた。まさにそれを目論んでいた矢先だったからである。まさか、そこまで知ってはおらぬだろうが、出来すぎた偶然に驚きを隠し切れない。
「大烏《おおがらす》ってのを知っているだろう?」
「ああ、でかくて黒い鳥居だろう。迷宮でお目にかかったよ」
あれは物の怪であると思われていたが、寺田はそれを迷宮を自在に行き来するための通路だとほのめかしていた。
「あれを手に入れたい。あれが高度な呪法であるのか、迷宮の物の怪を飼い慣らしたものなのかはわからないがね。その秘密を知りたいのさ」
「確かにありゃ便利だな。おまえらが迷宮に隠れ里みてぇなもんを拵えるのなら、喉から手が出るほど欲しいのも頷けるぜ」
鼬小僧の掲げる地下国家の夢想を俺は信じているわけではない。魍魎街は階層が浅いために公儀の手が入る心配があるが、深層部にそれを作るなら、まさに真に自由な場所となるに違いない。大烏は人と物資を運び込むためにも地上と地下深層の道程を極端に縮めるためにも必須と言えよう。
「あるいはやつらの大烏を無効にする方法もあるかもしれないだろう。あたしらの国ができた暁には、やつらに干渉されたくはないからな」
「まあ、そうなるか」
「塾に入るのは、そこが一番麟堂と近づける場所だからさ。あたしらの一味は素性がはっきりしねえ者ばかりなんでね。あんたなら手っ取り早い」
「盗みは得意じゃねえと言ったはずだが。ま、贅沢言える立場じゃない」
「そういうことさ」
頭巾で口元を覆った鼬小僧からもう笑みを見て取ることはできぬが、笑っているに違いない。それにしても無神経で粗暴な俺が間諜の真似事をせねばならないとは人生わからぬものである。
ともかく取引は成立した。これで意気揚々新たな船出よと浮かれたが、ひとつ大事なことを言い忘れていた。金の無心である。
「そうだ、塾に入るには銭が要る。ところが生憎無一文と来てる。悪いが用立ててもらえねえか」
吟孤は嫌な顔をして肩をすくめた。
ずっと無言でいた薊野が刳り抜いた穴のような眼の奥からおぼろげな光を放たれた。
「お主はなぜその女の息を吹き返そうとするのだ?」
唐突な問いかけに俺は一呼吸を置いて返事をした。
「まず最初に殺せなかったこと、二度目は殺しちまったことに負い目を感じてるのさ。どちらも馬鹿げたしくじりだ。この女に対してちゃ俺がどう振舞おうと、それは間違いになっちまう気もするが。そういう相手が誰にだっているだろう?」
「伴侶か」
――運命か、というのと等しい響きを俺は聞き取った。
「珍しいね。薊野が他人の色恋なんぞに関心を示すなんて」と吟孤。
何も答えない薊野を代弁するように鼬小僧が弁をぶった。
「死人に焦がれるのも一興だろう。伴侶の面影を探して黄泉路へ下るなんざ、伊弉諾《イザナギ》と伊弉冉《いざなみ》の物語のようじゃないかい。結構結構」
その言い草に、俺は不穏な空恐ろしさを覚えた。かの神話の成り行きは言うまでもない。冥府を下った男は決まって恐ろしいものに直面するのである。
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