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第一章 大江戸騒乱変
見舞客
しおりを挟む俺の具合は冬の寒さが解けていくにつれて、しだいと良くなった。
期待するほど速やかでない復調にもどかしい思いがしたが、麟堂には、焦るなときつく戒められた。迷宮の子に魄を分け渡すという試練が、果たして効を奏したのか否か、俺にはわからぬ。確信が持てぬことにおいては麟堂も同様であった。
――呪法とは彼我の境目をあえて曖昧にすることである。
いつか麟堂は学生たちにそのように講じた。
他者を喰らうのみならず、他者に己を分与することは、彼我の垣根を取り払う最も簡便かつ有効な手段となる。そうすることで呪者は万象の理を肌で学ぶことになるのだというが、俺にはいまいちぴんと来ない。
「薄気味の悪いものが前よりも頻繁にしかもはっきりと見えやがる」
まだ床より起き上がれなかった時分、俺は見舞いにやってきた雲助たちに愚痴ったことがある。人の背後におかしな色が見えたり、中空に模様が蠢いていたりする。どうやら霊眼というやつがさらに開いたということらしかった。ゾッとしない世界に踏み込んでしまったのだと幾度となく後悔の心がもたげた。
身を起こしていられるようになると、俺は麟堂の蔵書を貪るように読み始めた。
儒学、蘭学、兵学、易学など諸学を片っ端から手をつけた。なかでも迷宮について麟堂が筆を取った貴重な書物はまさしく眼から鱗が落ちる想いで耽読した。俺のついぞ知らなかった知識が網羅されていたのである。
0 1 1 2 3 5 8 13 21 34 55‥‥‥
あらびや数字というもので記された数列はなんと迷宮の階層の増殖の順序を表したものだそうだ。最深部にいる虚空権現に願いを叶えてもらう度に迷宮の階層が増していくことは聞いていたが、このような法則があるとは知らなかった。
――前の階層と現在の階層の数を加えたものが次の階層数になるのだな、とすれば今の迷宮は五十五階であるから、誰ぞが次の願いを叶えた暁には、新たな迷宮は八十九階層となるということか。
俺はギリギリと歯噛みした。
地下二十階層に至るのすら大変だというのに、それが八十九階にまで遠のくのなら、もはや攻略の希望は失われる。なにしろ迷宮は深くなればなるほど、危険で性悪になっていくのである。先を越されてはならない。焦りが募る。
何もかもが俺を置き去りにして遠景に逃げていくようである。
――喜兵衛しかり。
――月の兎しかり。
――迷宮しかり。
しかし、今の俺にできることと言ったら書物の森に分け入ることくらいであった。月の兎を奪われたいま、もはやそれを突き止めてやる義理はなかったが、迷宮の驚異である大烏についても書物のうちに探ってみた。しかし、どこにもアレに言及した箇所は見当たらぬ。
――ふん、そう簡単にゃ尻尾はつかめねえか。
羽虫のようにブンブンと唸る魑魅魍魎どもを振り払い、俺は理智にすがるが如くひたすら文字を追いかけた。
ただし、渉猟する界隈が方術や陰陽学、あるいは呪いの伝書に及ぶにつれて、ついに俺は化生の手招きより逃げ切れなくなった。なんとなれば言霊というように文字にも霊威は宿っているのである。一心に読みふけるうちに、文字のひとつひとつが怪しげに揺らめき、ぞわりぞわりと俺の病んだ心に誘いかけるのである。
胎児よ
胎児よ
何故踊る
母親の心がわかっておそろしいのか
幻聴であろうか。不気味な鳴動のように言葉は頭蓋を内より叩く。文字は苔や蔦のごとく頁からはみ出し繁茂し、あるいは群棲する虫のごとく、どよどよと蠢くのであった。
「黙れ。戯言を囁くな。おまえらなんぞに魅入られはせぬ」
と俺が喚き散らせば、今度は聞き慣れぬ異国の響きで、しゃがれた老婆の声がする。
――Fair is foul, and foul is fair.
――Hover through the fog and filthy air.
「叩き切ってやる」
たまらず床の置いてあった刀を手に取った時、麟堂が飛び込んできた。
「馬鹿め、乱心しおって!」
あっという間に刀を奪うと俺を組み伏せ、気合をかけるように俺の背中をぴしゃりと張った。まさに憑き物が落ちた、とはこのことである、ハッと我に返るとそこはただの部屋であり、書物は何の変哲もない紙と墨とに戻った。
「霊眼が開いたはよいが、無暗に振り回されてはならん。何が見えようと仮象のものとして取り合わぬことだ。低級な怪異に魅入られれば行く末は哀れぞ」
「はぁはぁ」びっしょりと汗を掻いているが、寒いのか暑いのかわからなかった。
「のう、樋口よ。迷宮は何も地面の下にだけあるのではないぞ。人の心の内にも根を張っておる。真に偉大な者はそれを攻略するのだ」
「あんたにできるのか?」
「まさか」と麟堂は豪快に笑った。笑う門には福来るとはよく言ったもので、麟堂の笑いは部屋に籠った陰気を吹き飛ばしてくれた。
「なぁ、すっと思ってたんだが、こいつはなんだい?」
俺は刀と同じく枕元に据えてある花挿しに眼をやった。
「樒《しきみ》の花だ。言うてなかったな。お主が眠っておる時に、喜兵衛が置いていったのよ。あやつが消えたのはその直後よ」
「樒か。葬送の花かい? 縁起でもねえ。野郎は俺をよっぽど殺したかったのかな」
「どうかの」と麟堂は考えこんだ。
それにしても深更の大騒ぎに麟堂の他は誰も眼を覚まさぬとはまったく安気な一家である。普段は身命と賭して麟堂を守ると鼻息の荒い住み込みの学生どももひとりとしてやって来ない。
奪われた刀を差し戻された俺はそれを鞘に納めた。
麟堂は思考の淵より浮上する。
「明日より護法の術を教えよう。それに近いうちに寛永寺で結縁灌頂《けちえんかんじょう》を受けてもらおう。邪魅を寄せつけぬためには守護仏を得るのが一番だ」
結縁灌頂とは、特定の仏尊と縁を結ぶ儀式のことを言う。その加護を受けることで修行の障礙《しょうがい》を避け、導きを願うことが目的である。
「この花と関係があるのかい?」
「ああ、結縁灌頂の時に曼荼羅に投じるのがこの樒の花なのだ。唐より密教を持ち帰った弘法大師は、儀式に使う青蓮華が本邦にないので、この樒の花を代用としたという」
「これが、喜兵衛が俺に残した助言だとでも?」
蛙の足の次は辛気臭い花と来やがった。
「かもしれぬ。あるいは意味などないのか。ただ迷宮に挑む者が灌頂を受けるのは珍しいことではない。仏の加護は迷宮において絶大な力となるのも事実」
俺はややたじろいだ。後ろめたい気持ちになったのである。
いやしい獣の如きこの身をどこの仏さんが眼をかけてくれようか。
行状を詳らかにご存知あれば、地に捨て置くのが相応しい野良犬である。
「ふふ、お主が信心というものに腰が引けるのもわかる。しかし神仏とは己に帰順する者しか守らぬほど狭量であろうか。ましてや形だけであっても側に侍《はべ》ろうとする者を打ち据えるであろうか。――まぁ、試してみるのがよかろう。どちらにしろお主の巨大な空洞には何かで埋めねばならん」
指先で俺は樒の花を摘んだ。
楚々とした白い花弁に似合わず毒を持つ。それゆえに古来から魔除けや臭い消しとして使われてきたのだという。喜兵衛はこれで俺を守ろうとしたのかもしれぬ。
× × ×
見舞い客は代わる代わるやってきた。
病み上がりの俺に麟堂が命じた鍛錬――家伝の居合の型を日に三本だけ抜くことと刀を握ったままで組める印に馴れること――を終えて一息をついた俺に前に現れたのはなんと弟であった。反りの合わぬ兄弟であったが、麟堂に用があったらしく、そのついでに俺のもとへ顔を出さぬというのも不自然である。
錬場と呼ばれる十畳ばかりの部屋であった。
弟は渋々と「具合は?」と声をかけてきた。
「おまえか。先生の言う通り、おとなしく養生している」
いつしか俺は麟堂のことを先生と呼ぶようになっていた。
麗しい師弟関係とは言い難かったが、麟堂の強さと知恵は無比のものであるからして天邪鬼の俺も敬意を払うにやぶさかではない。
「また迷宮に潜るとか」
「ああ。そうなりそうだ。新しい力を得て迷宮を踏破する」
「話は聞いた。そんなことが可能だと?」
「知るかよ、できなきゃ死ぬだけだ」
「兄上は気楽でいいな」
弟は口をつぐんだ。兄と見える相手が実のところ人ではないとすでに知っているに違いない。どのように接すればいいのか戸惑うのも無理はなかった。
「なんだ、言いたいことでもあるのか?」
もともと俺を忌み嫌っていた弟であった。いまとなっては悪感情が膨らむよりもむしろ憐憫の情が沸いたのかもしれぬ。弟・樋口久兵衛は重い口を開いた。
「兄上。伍にわたしを加えて、迷宮に連れていってくれぬだろうか」
「なぜだ?」
「強くなりたいのだ。兄上は迷宮を潜り抜けて剣の妙理を、少なくともその一端を掴んだ。ならばわたしも行かねばならぬ」
生粋の剣術狂いである。自制を旨として俺や父に隠れてつつましやかに生きてきた弟だったが、その内には武芸への激しい情熱がある。父にこの情熱のひとかけらでもあれば、道場はもう少し繁盛していたであろうが、皮肉かな、才と熱意とは必ずしも釣り合わぬらしい。
「やめておけ。剣術は所詮人間相手のもの。迷宮の化け物どもに通用するとは限らぬ。それにおまえは太陽の下で暮らすのが似合っているよ」
最後は本心であった。迷宮の不条理に弟を晒したくはない。外道の俺に芽生えたなけなしの親愛の情であった。しかし、同時に弟の生涯はじめてであろう俺への頼みを無下にしてしまったことに胸が痛む。
いつもの仏頂面を崩し、意外とあっけなく弟は引き下がった。
「そのようにきっぱりと言われると押し通す気も失せる」
「どこでだって強くなれるさ。おまえは地上で腕を磨け」
「父上と麟堂様に胸を貸してもらっているが、どこかに甘えが出てしまう。ひりひりするような命がけの斬り合いをせねば、これ以上は見込めぬ。そんな気がしたのだが、それも無いものねだり、あるいは気の迷いか」
「迷宮くんだりで息子が二人もくたばったら、あんな親父でもさすがに気落ちするだろう。お前は孝行息子でいろ。俺たちはそれぞれのやり方であの阿保親父を越えようではないか」
「ああ、そうしよう」
弟は子供の頃のようにはにかんだ。昏いものを秘めた眼が、去り際には存外すっきりと晴れていたのだった。
「なにをいまさら」
一人前の兄らしく振舞っている己が滑稽であった。
自嘲しながら床に突っ伏すと、弟と入れ替わりに新たな人の気配が立つ――講義を終えた麟堂が見回りに来たのだと思った。
――意と気と神をひとつにするのだ。ゆっくりとそれでいて途切れぬ、角のない動きを心がけよ。そうだ。激しいよりもむしろ滑らかに柔らかく剣を抜き納めよ。迷宮の底を目指す者にとって省略《せいりく》は奥儀ではないただの基本よ。
「ちっ、簡単に言うがよ」
俺は麟堂の説諭を思い出しながら愚痴をこぼす。
「それができれば苦労はねえよ」
「なーんだ。毒気の抜けた顔してんな。面白うないわ」
麟堂ではなかった。他の学生でもなく、それでいて、件の声には確かな聞き覚えがあった。
俺は瞬時に身構えて木剣に手をかけた。
「あんたか。いきなり声をかけるな。斬りかかりそうになったじゃねえか」
「物騒やな。人の約束をすっぽかしといてからに」
水野。前に会った絵師であった。
蛇足軒。あるいは曽我蕭白と言ったほうが通りがいいであろうか。
強烈な殺気を受け流して平然としているところを見るとこれもただ者ではない。
「ああ、悪かったな。あの日は立て込んじまっててな」
水野の絵の材となるべく予定していたのだったが、それは叶わなかったのである。
「天下の往来で悪人に攫《さら》われちまったのさ」
「そな、阿保な」と水野。
下手な言い訳のように聞こえようとも事実なのだから仕方ない。
あの西瓜頭の薊野と、猫目の呪禁仕――あの女は死んだという――に打ちのめされてやつらの棲み処まで連れられたのだった。
「まぁええわ。文句のひとつでも言うてやろかと思って来たんやが、弱ったあんたの顔見たらやる気のうなったわ」
剽軽な佇まいながら錐のような眼差しを持った男であった。異能の絵師として広く知られているらしいが俺には関係がない。
「だったら帰れ。こっちも、あんたの絵に用はねえ。先日の不義理は貸しといてくれよ。そのうち――」
「だったらこうせえへんか?」
俺の言を遮って水野が申し出た。錐の眼差しが俺を穿つ。
「なんだい?」嫌な予感がした。
「わしを迷宮に連れてってくれへんか。この眼ぇで見たいんや。得体の知れない怪異やらおぞましい化け物やらをな」
――今日はどいつもこいつも、と俺は思う。
「なんでまた迷宮なんぞへ繰り出そうとしたがるのか」
「そもそも江戸ゆう、けったくそ悪いとこに来たんは、迷宮が目当てや。伝手を探しておったんやが、どうやらあんたがわしのソレや」
「伊勢参りや熊野詣じゃあるまいし、行楽気分で出かける場所じゃねえぞ」
「わぁっとるわい。絵師の本分に関わることや。本物を己の眼ぇに焼き付けてな、絵に写す。世間のどぎついもの狂うたものをみーんな顔料に乗せて紙の上に躍らせるんや。どうや? わしは正気で本気やで」
俺は肩をすくめた。
「わかったよ。考えておこう」
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