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さて、小さな山間の国「樋野」で起こった戦物語には勿論一人一人の後日譚がある。
由出成政は、城を焼かれた上、清親と十兵衛を逃がした責任をとらされ、山名へ帰国後、役職から外され、生涯平凡な武将として一生を終えたのだという。
焼け落ちた樋野城は、新たな城が建つことは無く、樋野の統治者となった斉藤元春が居城としたのは、三郎兵衛のいた黒岩城であり、元春統治時代は、そこが樋野城と呼ばれていた。
斉藤元春は、樋野の統治者となり、平穏に国を治めたようではあるが、樋野での功績は後年にあまり残されていない。
栗原甲四郎は、樋野城が焼け落ちた後に、清親追撃を申し出て、そのまま姿を眩ましてしまった。
その脚で八山の元へ向かったのだとか、樋野から遠く離れた土地へ流れ着き、その国で軍師となったとも言われているが、マシラ達の足軽衆と合流し、アクルと所帯を持った後に、足軽大将を引き継いだと語る資料もある。
マシラのいた足軽周は、山々を行き来する商人であった経験を生かし、戦国大名に各国の情報を売る集団となり、戦国の世に暗躍する一大足軽衆を作り上げたともいわれているが、逸話の域を出ない、物語に近い噺である。
市蔵と忍香等の「土蜘蛛衆」は、樋野城を焼き討ちにした後、樋野から遠く離れた山の中腹に里を開き、そこを拠点とし、山々を渡り歩く商人集団へと変貌を遂げた。
土蜘蛛と忌み嫌われていた集団は、各地を歩くことによって得られた土地の特性などの情報を重宝され、あらゆる国で雇われ、それが派生して大名配下の忍びとなったグループもいると記す書物もある。
八山は樋野城が焼け落ち、山名が領地を広げた頃から寺に籠もり、僧侶として武将や領主に関わることを一切しなくなった。
各地の逸話の中に現れる、過激論者の僧を、八山であると研究する者もいるようだが、八山に行き当たる確証をとれる資料はない。
樋野城が焼け落ち、樋野の地が山名となってから十数年後、樋野から遠く離れた美濃で「うつけ」と呼ばれた国主、織田信長が、大国駿河の今川義元を討ち破り、戦国の時代が本格的に幕を開けた。
信長の勢力は見る見る強大な物となり、その力は辺境の地である樋野にまで及ぼうとしていた。
だが、樋野に信長の力が及ぶ前に、信長は本能寺にて斃れる。
その後天下を治めた羽柴秀吉は、いとも簡単に山名と樋野を平らげ、土地の支配者を秀吉の配下の者に入れ替えてしまった。
時代の流れの中で「樋野」という土地の名前は、人々から忘れ去られようとしていた。
そんな中、畠山信義の後を継いだ畠山為義は、秀吉と旨く渡り合い、平野の土地を納め続け、関ヶ原では東軍を支援し、畠山家は幕末まで平野を納めた。
信長・秀吉・家康が築いた長い江戸の世を重ねる間に、山間に溝のように出来た「樋野」は時代と共に変貌を遂げる運命にあった。
だが樋野の土地は、時代を経ても尚、一人の男の名を記憶していた。
黒田三郎兵衛その人である。
土地の者は今も尚、黒岩の山から平地へ降りる峠道を「三郎兵衛峠」と呼び、三郎兵衛が清親に呼ばれ登城する前に、土地の者と最後の別れを交わした場所には「三郎兵衛別れの碑」が立ち、今でも人々の心を揺さぶっている。
三郎兵衛峠からバスで十分ほど南へ下ると「三郎兵衛砦」というバス停があり、下車してすぐに見える緩やかな斜面を上がると、丘の稜線に砦風のモニュメントが見える。
丘の上まで登ると、木製のモニュメントは、横幅10メートルにも満たないが、当時はこの丘の稜線が全て砦であったと考えると、辺境の国の、更に南端の国を守る為に設置された砦としては、スケールが大きいことが解る。
丘の山頂には、ここに「井藤砦」があった事を記す、立て札があり、「サブロベくん」というキャラクターイラストが、戦国初期にここで戦闘が起こったことを説明してくれている。
三郎兵衛砦のバス停から1キロほど南下すると、斜面に囲まれた小さな集落に行き当たる。
平野町、かつての平野城の城下町だ。
山間の奥地にある平野は、初夏には全国から観光客が訪れる行事がある。
それは、日本を代表する奇祭とも呼ばれる「三郎兵衛様祭り」である。
祭りの初日は、早朝から町の若い衆が集まり、互いに顔を白く塗りあい、白装束で身を固め、集落を歌いながら練り歩くのである。
何と言っても、奇祭の奇祭たる所以は、祭りのクライマックスで、歌い踊る男衆が最後にやって来るのは、かつての平野城の堀であり、現在は用水路になっている場所にやってきた男どもは、一端静寂すると、今までとは違う歌を歌い出す。
「平野のぉ~十兵衛は城捨てたぁ~ジョンジョロリ」
何度か同じような歌詞を歌うと、川辺に集まった白塗りの男達は、袴をたくし上げて放尿するような仕草を見せる。
なんと昭和の終わりまでは、男衆は本当に堀に向かい放尿していたというのだから驚きである。
祭りを見学し終えた観光客には、もう一つ楽しみにしている名産がある。「平野蕎麦」である。
平野蕎麦はかつて農耕に向かなかった黒岩で三郎兵衛が推奨した作物であり、清親政権下で黒岩から逃げてきた村人が平野で積極的に耕作し、土地に根付いた食品へとなったのである。
現代の樋野町や平野町周辺を散策していると、この土地に深く根付いている戦国の英雄は、信長でも秀吉でも家康でも無く、黒田三郎兵衛その人だと思い知ることになる。
そして最後に、樋野で起こった戦乱を調べている中で、気になったエピソードがあったので、紹介しておこう。
物語の主人公は、井藤又右衛門。
戦国から江戸時代の変革期にいた浪人であるが、その又右衛門が、ある武将に仕官しようとした時、又右衛門は自分の家系図を見せ。
「拙者は故あって浪人をしておりますが、祖先はかつて平野という国の国主であります」
と、自信ありげにいう又右衛門に対し、士官先の武将はその家系図の名に心当たりがあったらしく、小姓にある物を持ってくるよう指示した。
小姓は小さな桐の箱を持ってくると、武将はその箱から小さな書状を二通取り出すと、井藤又右衛門の前に広げた。
一通は綺麗な書状は、井藤十兵衛から三郎兵衛へ宛てられた物であり、もう一通はかなりボロボロになっているが、十兵衛が本田忠康に送った物である。
「ここにある井藤十衛兵と申すのは、お主が自慢げに話した祖先ではないか?」
武将は、落ち着いた様子で床の書状を見つめながら言葉を続けた。
「儂はこの書状を見るたび、将たるもの驕り高ぶってはならないと、自らの戒めとしておる。この井藤十兵衛のような二枚舌の小心な武将にはなるまいとな」
井藤又右衛門は、顔から火を噴く思いでその場を退散し、その後彼に士官の先は無かったのだという。
又右衛門には何の罪もないが、先祖の無能な者がいると、子孫が辛酸を舐めさせられる実例であろう。
完
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さて、小さな山間の国「樋野」で起こった戦物語には勿論一人一人の後日譚がある。
由出成政は、城を焼かれた上、清親と十兵衛を逃がした責任をとらされ、山名へ帰国後、役職から外され、生涯平凡な武将として一生を終えたのだという。
焼け落ちた樋野城は、新たな城が建つことは無く、樋野の統治者となった斉藤元春が居城としたのは、三郎兵衛のいた黒岩城であり、元春統治時代は、そこが樋野城と呼ばれていた。
斉藤元春は、樋野の統治者となり、平穏に国を治めたようではあるが、樋野での功績は後年にあまり残されていない。
栗原甲四郎は、樋野城が焼け落ちた後に、清親追撃を申し出て、そのまま姿を眩ましてしまった。
その脚で八山の元へ向かったのだとか、樋野から遠く離れた土地へ流れ着き、その国で軍師となったとも言われているが、マシラ達の足軽衆と合流し、アクルと所帯を持った後に、足軽大将を引き継いだと語る資料もある。
マシラのいた足軽周は、山々を行き来する商人であった経験を生かし、戦国大名に各国の情報を売る集団となり、戦国の世に暗躍する一大足軽衆を作り上げたともいわれているが、逸話の域を出ない、物語に近い噺である。
市蔵と忍香等の「土蜘蛛衆」は、樋野城を焼き討ちにした後、樋野から遠く離れた山の中腹に里を開き、そこを拠点とし、山々を渡り歩く商人集団へと変貌を遂げた。
土蜘蛛と忌み嫌われていた集団は、各地を歩くことによって得られた土地の特性などの情報を重宝され、あらゆる国で雇われ、それが派生して大名配下の忍びとなったグループもいると記す書物もある。
八山は樋野城が焼け落ち、山名が領地を広げた頃から寺に籠もり、僧侶として武将や領主に関わることを一切しなくなった。
各地の逸話の中に現れる、過激論者の僧を、八山であると研究する者もいるようだが、八山に行き当たる確証をとれる資料はない。
樋野城が焼け落ち、樋野の地が山名となってから十数年後、樋野から遠く離れた美濃で「うつけ」と呼ばれた国主、織田信長が、大国駿河の今川義元を討ち破り、戦国の時代が本格的に幕を開けた。
信長の勢力は見る見る強大な物となり、その力は辺境の地である樋野にまで及ぼうとしていた。
だが、樋野に信長の力が及ぶ前に、信長は本能寺にて斃れる。
その後天下を治めた羽柴秀吉は、いとも簡単に山名と樋野を平らげ、土地の支配者を秀吉の配下の者に入れ替えてしまった。
時代の流れの中で「樋野」という土地の名前は、人々から忘れ去られようとしていた。
そんな中、畠山信義の後を継いだ畠山為義は、秀吉と旨く渡り合い、平野の土地を納め続け、関ヶ原では東軍を支援し、畠山家は幕末まで平野を納めた。
信長・秀吉・家康が築いた長い江戸の世を重ねる間に、山間に溝のように出来た「樋野」は時代と共に変貌を遂げる運命にあった。
だが樋野の土地は、時代を経ても尚、一人の男の名を記憶していた。
黒田三郎兵衛その人である。
土地の者は今も尚、黒岩の山から平地へ降りる峠道を「三郎兵衛峠」と呼び、三郎兵衛が清親に呼ばれ登城する前に、土地の者と最後の別れを交わした場所には「三郎兵衛別れの碑」が立ち、今でも人々の心を揺さぶっている。
三郎兵衛峠からバスで十分ほど南へ下ると「三郎兵衛砦」というバス停があり、下車してすぐに見える緩やかな斜面を上がると、丘の稜線に砦風のモニュメントが見える。
丘の上まで登ると、木製のモニュメントは、横幅10メートルにも満たないが、当時はこの丘の稜線が全て砦であったと考えると、辺境の国の、更に南端の国を守る為に設置された砦としては、スケールが大きいことが解る。
丘の山頂には、ここに「井藤砦」があった事を記す、立て札があり、「サブロベくん」というキャラクターイラストが、戦国初期にここで戦闘が起こったことを説明してくれている。
三郎兵衛砦のバス停から1キロほど南下すると、斜面に囲まれた小さな集落に行き当たる。
平野町、かつての平野城の城下町だ。
山間の奥地にある平野は、初夏には全国から観光客が訪れる行事がある。
それは、日本を代表する奇祭とも呼ばれる「三郎兵衛様祭り」である。
祭りの初日は、早朝から町の若い衆が集まり、互いに顔を白く塗りあい、白装束で身を固め、集落を歌いながら練り歩くのである。
何と言っても、奇祭の奇祭たる所以は、祭りのクライマックスで、歌い踊る男衆が最後にやって来るのは、かつての平野城の堀であり、現在は用水路になっている場所にやってきた男どもは、一端静寂すると、今までとは違う歌を歌い出す。
「平野のぉ~十兵衛は城捨てたぁ~ジョンジョロリ」
何度か同じような歌詞を歌うと、川辺に集まった白塗りの男達は、袴をたくし上げて放尿するような仕草を見せる。
なんと昭和の終わりまでは、男衆は本当に堀に向かい放尿していたというのだから驚きである。
祭りを見学し終えた観光客には、もう一つ楽しみにしている名産がある。「平野蕎麦」である。
平野蕎麦はかつて農耕に向かなかった黒岩で三郎兵衛が推奨した作物であり、清親政権下で黒岩から逃げてきた村人が平野で積極的に耕作し、土地に根付いた食品へとなったのである。
現代の樋野町や平野町周辺を散策していると、この土地に深く根付いている戦国の英雄は、信長でも秀吉でも家康でも無く、黒田三郎兵衛その人だと思い知ることになる。
そして最後に、樋野で起こった戦乱を調べている中で、気になったエピソードがあったので、紹介しておこう。
物語の主人公は、井藤又右衛門。
戦国から江戸時代の変革期にいた浪人であるが、その又右衛門が、ある武将に仕官しようとした時、又右衛門は自分の家系図を見せ。
「拙者は故あって浪人をしておりますが、祖先はかつて平野という国の国主であります」
と、自信ありげにいう又右衛門に対し、士官先の武将はその家系図の名に心当たりがあったらしく、小姓にある物を持ってくるよう指示した。
小姓は小さな桐の箱を持ってくると、武将はその箱から小さな書状を二通取り出すと、井藤又右衛門の前に広げた。
一通は綺麗な書状は、井藤十兵衛から三郎兵衛へ宛てられた物であり、もう一通はかなりボロボロになっているが、十兵衛が本田忠康に送った物である。
「ここにある井藤十衛兵と申すのは、お主が自慢げに話した祖先ではないか?」
武将は、落ち着いた様子で床の書状を見つめながら言葉を続けた。
「儂はこの書状を見るたび、将たるもの驕り高ぶってはならないと、自らの戒めとしておる。この井藤十兵衛のような二枚舌の小心な武将にはなるまいとな」
井藤又右衛門は、顔から火を噴く思いでその場を退散し、その後彼に士官の先は無かったのだという。
又右衛門には何の罪もないが、先祖の無能な者がいると、子孫が辛酸を舐めさせられる実例であろう。
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