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第1章 カフェ時游館
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しおりを挟むその日のうち、航留は記憶障害と思われる青年を連れて、友人のクリニックへと向かった。車でなら数十分。店は完全にクローズにした。常連たちも真紀も今後のことが気になったが、いつまでも居座るわけにはいかず帰宅していった。
「あの……僕、こんなにしてもらって」
「うん? 実は怖くないか? これからやばいとこ連れていかれるんじゃないかって」
ハンドルを握り、助手席の青年にちらりと視線を送る。青年は困ったような表情を航留に向けた。
「それが……あまりそういうの、感じなくて……。なんていうのか、航留さんたちが悪いこと考えてるとか、全く思えないんです。カフェも素敵だったし、なにより珈琲が美味しかったのが……理由です。間違ってますか?」
「ええ? いや、そうかなるほどね。間違ってないと思うよ」
自分の歴史に消しゴムがかけられて白紙になってしまっても、人の表情や声に好意や悪意を感じる能力は本能として残っているのかもしれない。視覚、聴覚それに臭覚と味覚。触覚を合わせた五感が、彼の不安を遠ざけていた。
――――誰が言ったか、美味い珈琲を淹れる人に悪人はいない、とか? いや、ま、こういうことは専門家に任せるか。
クリニックそばの駐車場に車を入れ、病院へと向かった。急なことだったので時間外。友人の特別待遇で診察をしてもらう。本人はもちろん保険証を持っていない。こんなことは越崎にしか頼めなかった。
「君か、おやイケメンだね。名前はおろか、どこでどうしていたかも全部わかんなくなったんだって?」
診察室に入ると、越崎淳一郎は白衣も着ず、ニットにチノパンといったラフな格好で待っていた。辛うじて襟ぐりから覗くシャツの襟もとにはネクタイが見えていたが。
町の心療内科クリニックの守備範囲のほとんどが、うつ病やパニック障害などの精神症状に対応するものだ。だから、診察室も内科などとは違い、ゆったりとした応接室のような雰囲気。医師のカジュアルな装いも実は演出なのかもしれない。
「医学用語ではアムネジア。つまり記憶障害ってことだけど……えっと名前がないと不便だな。うーん、そうだな。のなみくんにしよう。のなみれい君」
越崎の椅子の横には、PCやモニターが置かれた作業用のデスクが置かれていたが、患者と向き合うには半円形のテーブルを挟んで座るようになっている。椅子も無機質なものでなく、カフェの椅子のようだ。部屋には二人掛けのソファーもあり、患者によってはそこに座らせることもあるのだろう。
航留は青年を椅子に座らせると、自分はソファーに腰かけた。
「のなみれい? なんだそれは」
航留が聞きなれない名前に注文を付けた。越崎は清潔感を押し出した黒髪ストレートの短髪で、銀縁眼鏡をかけている。やや神経質そうな雰囲気があるのはやせすぎているところからか。けれど職業柄身についている笑みは柔らかく、銀縁眼鏡の蔓をすっと人差し指で上げた。
「名前がない。つまり、NO NAMEだ。それをローマ字読みすると『のなめ』ってなる。で、語呂がいいようにノナミさん。レイはゼロの零。どうだ?」
どうだと言われても、まあ、今のところ名前はなんでもいい。
「好きにしてくれていい。いいかな。君は」
椅子に座り大人しくしている青年は頷いた。
「はい。それで大丈夫です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた。越崎は電子カルテに名前を入力する。
――野波零――
一時的ではあるだろうが、こうして彼の名前が付けられた。
「おまえ、1回外に出ろ。彼の全身を見たい」
「え? なんでだよ。記憶障害にそんな必要が……」
「あるから言ってる。どこかに外傷がないかも知りたいんだよ。さっさと行け」
確かにその必要はあるか。それに、患者の本音を聞くのに自分が邪魔な場合もある。航留はそれ以上突っ込むことはせず、診察室を退室した。
――――しかし、妙なことになったな。
航留は待合室で一人、ぼんやりとしながら待った。クリニックの待合室も広くて清潔。無機質な長椅子などではなく、ここも布張りのソファーが置かれている。雑誌も紀行ものやインテリアなど、目に優しいものばかりだ。カフェ特集なんてものもある。航留はその一冊を手に取り、ぱらぱらと捲った。
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