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第1章 憧憬
憧憬 1
2000年 夏
額から迸る汗がしたたり落ちていく。真夏。太陽は頭の真上で照り輝き、影は足元に丸まっているだけだった。
穗隆は、白い開襟シャツにひざ丈ズボンの制服姿だったが、帽子の中は蒸して頭から湯気がでそうだった。日陰に飛び込みたいのを耐え、その人が来るのを待っている。
「穗隆、お待たせしましたね。こちらにいらっしゃい」
「はい。母さん」
穗隆の母は黒髪を結い、薄緑色の夏着物を涼し気に纏っている。彼女は大きな瓦屋根のついた数寄屋門から出て、穗隆を迎え入れた。差し伸べられた手に手を重ね、母親の隣を歩く。
「お父様がお会いになるわ」
「はい」
穗隆はドキリとする。今まで、父親には数回しか会ったことがない。このお屋敷で会うのは初めてのこと。いや、ここに来たのが穗隆にとって初めてなのだ。
古い日本式の屋敷は、正門から屋敷まで砂利道が続き、玄関前には車の送迎が可能なように大きなロータリーができている。そこに入ると、すっと気温が下がり涼しくなった。
穗隆と手を繋いでいた母が、二間の引き戸を開ける。玄関口にはお手伝いらしき女が、膝をついて待っていた。
「お待ちしておりました。響子様、穗隆様」
「お世話になります。穗隆、ご挨拶なさい」
「はい。穗隆です。よろしくお願いします」
穗隆が初めて、自分の実父である皇樹清隆(すめらぎきよたか)の大邸宅を訪れた日。世は世紀末の2000年、7月。穗隆はこの時、8歳になったばかりだった。
皇樹清隆は、皇樹家第28代めの当主だ。皇樹家は戦前の貴族院議員であり、江戸時代以前より続く名家だった。
その頃の名残で、戦後も代々警察官僚の職についている。清隆も定年を迎える昨年まで、警察庁高級官僚に名を連ねていた。
穗隆の母親は清隆の妾だった。都内で小料理屋を持たせてもらい、穗隆を育てていた。
ところが穗隆が7歳の時、清隆の本妻が亡くなった。本妻との間には、男女一人ずつの子供がいたが、既に独立しており、広すぎる屋敷には清隆一人きりになる。
散々考えた末、清隆は響子を後妻に据え、親子共々呼び寄せることにした。
小料理屋の2階、親子睦まじく暮らしていたのが、突然、部屋が何10室もある広大で格式高いお屋敷に移ってきたのだ。最初は戸惑うこともあった。
それでも、母親の言いつけを守り、自分の位置をわきまえていた彼は勉学に励む。年老いた父の望む通り、警察官への道を進んでいった。
父の清隆と母、響子の年齢差は30歳ほどだった。穗隆は彼の孫のような年齢だ。清隆は彼を厳しく躾けてはいたが、歳をとってからの子供はやはり可愛いのだろう、愛情は注いでくれた。
異母兄姉とほとんど関らなかったのは、穂隆にとり都合が良かった。家督は継がせないと明言されていて、彼らは穂隆の存在を無視していたのだ。それは返って心地よく、穗隆は何不自由ない生活を、皇樹家で送ることができた。
だが、母の響子は順応できなかった。父、清隆は響子を大切にはしていたが、それが気に入らない親族や従者は多く、彼女は常に孤立した。
そして何よりも、響子の熱情を受けるのに、清隆は歳を取り過ぎていた。
清隆の邸宅には、それは見事な日本庭園が施されていた。大きな錦を背にした鯉たちが、悠々と泳ぐ池を中心に、様々な樹々が囲み、趣きのある橋やあずまや、石庭などと風情に富む。
広く美しいそこでは、茶会なども催される清隆自慢の庭だった。
当然、それらの手入れは業者に任せており、月に何度も職人たちが出入りしていた。その中の一人、若いが腕の立つ職人がいた。黒髪を斬バラに切ったその男は、日焼けした肌にはっきりとした目鼻立ち。人目を引く、所謂男前だった。
肉体労働でついた腕や胸の筋肉も誇らし気で、館の使用人たちは、彼が来るとこぞって茶を出したがった。無口な彼はそれでも黙々と仕事をしていたが、それがまた彼の人気を高めていた。
その様子をじっと見ている者がいた。響子だ。彼女は今やこの館の奥様である。妾上がりと言っても正妻だ。職人と親しげに話すことはあり得ない。その制約が返って、彼女を燃え上がらせたのかもしれない。
響子はその頃30代後半であったが、元より若く見える美女である。すらりとした上背に乗る顔は小さく、目鼻立ちも小づくりではあったが品よく整っていた。
響子はなんとかこの男に近づこうと、彼が来る日は用もないのに庭をうろつく。その姿を、男が見とがめないのは無理があるというものだ。
二人はすぐに恋仲となった。時には庭はずれにある納屋で、裏にある蔵で、二人の逢瀬は重ねられる。結われた髪を解いて振り乱し、響子は妻であることも、母親であることも全てを忘れ、その男に溺れていった。
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