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第1章 憧憬
憧憬 3
しおりを挟む初めてあの男を視認してから、穗隆は庭の手入れ日を調べていた。彼を見るためだ。その日は出来るだけ早く帰宅するようにし、男を盗み見ていた。
季節は夏だ。陽に照らされた職人の肌は黒みを帯び、迸る汗が光っている。時折額の汗をぬぐう仕草、水筒の水をごくごくと喉を鳴らして飲む姿、全てが心を鷲掴みした。
屋敷の影や大きな木の陰、穗隆は職人に見つからないよう注意を払いながら眺め見ていた。
その彼が今、響子と噂になっている。穗隆はそう思い出すと、その幻想の虜になっていた。
名門小学校の生徒でありながら、元々穗隆は小料理屋の息子だ。酔客が母に言い寄る姿や、父親である清隆が時々訪れる理由。それが何かは何となく知っていた。
そんな、噂が蔓延しだしたころに訪れた庭の手入れ日。例によって穗隆は、植木に上り鋏を振るう職人を覗き見ていた。
繊細な指使いと真剣な眼差しが美しい。少し厚めの唇を真一文字に引き締める彼の端正な顔立ちは、秋風が吹きだした空気のように、凛とした雰囲気を醸し出していた。
つと彼の手が止まり、ズボンのポケットから何かを取り出した。その何かを凝視するとすぐ、彼は梯子をするすると降り、どこかへ向かって歩いて行った。
――――どこへ行くのだろう。
嫌な予感がした。今日、響子は家にいた。いや、手入れ日には必ず響子は在宅していた。
いつもは学校帰りのわずかな時間しかなかったので、響子の在宅など気にも留めなかった。けれどこの日は違った。学校が代休で、穗隆は朝から家にいた。
迷わず男の後をつけた。彼が向かった先は、庭の奥にある蔵。骨董品などが置かれている蔵だが、普段は誰も出入りはしない。鍵もかけられているはずだ。
だが、重厚な扉の鍵は外されていた。男は周りを見回し、誰もいないのを確認してから(実際は穗隆がいたのだが、気が付かなかった)その中へと入っていった。
――――噂は本当だったんだ。この中には母さんがいる。
穗隆の足は、何の躊躇もなく蔵へと向かった。体半分が入るくらいの隙間まで扉を開け、滑り込ませる。蔵はロフトのように半二階になっている。
声は、その二階の奥から聞こえてきた。
『待ったか?』
『待ったよ。待ちくたびれたよ』
母の焦がれる声がする。だがそれよりも、初めて耳にした男の声に穗隆は興奮した。低いがよく通る声だ。
今まで聞いたどの声よりも、穗隆の鼓膜を刺激的に揺らし胸に響いた。
穗隆は梯子のような階段を、音を立てないように忍び上る。心臓が早鐘のように打っている。呼吸も激しくなるのを必死で抑え、頭半分だけ出して、二人の姿を探した。
――――あっ……。
古い箪笥や柳行李の間から、穗隆の目に飛び込んできたのは。半裸になった男が女の上に跨る姿だった。
下にいるのが自分の母親であることを、穗隆は黙殺した。そんなものはただの肉塊に過ぎない。汚らわしい女のことなど、見て見ぬふりを決め込んだ。
穂隆の視線は、黒髪から汗が飛び散り、背や肩の筋肉が躍る、雄々しい男の姿に注がれた。躍動する肉体に魅了され、目を離すことができない。
時折、母の白くて細い指が男の顔を包むと、その手が自分の物のように感じてより高揚した。
ところがそれから間もなく、男の姿を見ることはなくなった。出入りした当初から人目を引き、最後は情夫として噂になっていた黒髪の男は、突然皇樹家に来なくなった。
穗隆はそれとなくお手伝いの一人に尋ねた。
「みんながカッコいいって言ってたあの人、最近いないね」
「穗隆様が気にされることではないですよ。それに、あの人はかっこいい人ではなかったんです。悪い盗人だったんですからね」
それだけで何が起こったのか、穗隆は理解できた。数日前、屋敷がなにやら騒がしかったのも知っている。
――――仕方ないよな。
まだ10歳そこらの穗隆は、だが立ち直りも早かった。そのうち学校生活や、6年生から始めた部活動に夢中になり、まるで流行り風邪が治るように忘れてしまった。
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