嫉妬帝国エンヴィニア

兜坂嵐

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1万と2000年

記録と刹那

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 夜の魔界都市-バルベリト。
 ネオンが滲むガラスの向こう、魔界経済新聞社のロビーは薄く明かりが灯っていた。
 喧騒はない。ただ、照明の光が書類の山に静かに降り注いでいるだけ。

 レイスは、黒のジャケットに身を包んで立っていた。
 いつもより少しだけ背筋を伸ばし、けれど歩き方はいつも通り、気怠げで。
 その背中には、擦れたカメラバッグがぶら下がっていた。
 正面の自動ドアが開く。
 外の冷たい夜風が一瞬、足元を撫でた。
 そして、彼女がいた。

 ヴァラ・インマール。
 彼女はまっすぐな眼差しを向けて立っていた。
 肩にかかる髪は揺れず、声も静かだった。

「……あなたが、“レイスさん”ですね?」
 初対面のはずなのに、どこか……知っている気がした。
 レイスは少し眉を上げる。
 それは“顔”ではなく、“気配”に覚えがあるからだ。

「記録に、あなたの名がありました」
「“未来へ行く者に、私は託す”と。そう、記されていました」
 レイスは視線を少しだけ逸らす。
 夜空を見るわけでも、地面を見るわけでもない。
 ただ――“過去の方角”を見ていた。

「ああ、絶対未来へ繋ぐって顔してた」
「悪ぃな。1万1999年前には転移できねぇからさ」
「アイツがどうなったかは……俺、わからねぇ」
 それは本音だった。
 過去に置いてきた“司祭”の決意も、選んだ未来も、もう誰にも辿れない。
 だが確かに、あの瞬間の目は……「信じていた」。
 ヴァラは、微笑んだ。
 まるで、数千年越しの“ありがとう”を受け取ったように。
「いえ。その言葉だけで……十分です」
「ありがとう、レイスさん」
 レイスは、黙って頷いた。

 そのまま、カメラバッグを手渡す。
 グラシャラボラス社長への返却。
 “最後のシャッター”が収められた、燃えかけたカメラ。

 何も言わず背を向け、新聞社のドアをくぐる。
 誰もが忘れてしまう刹那。
 けれど、それを撮った誰かがいる。
 写っているのは、「滅びる直前の帝国」と「レンズ越しに見つめる覚悟」だった。
 飾られた写真の中で、崩れゆく城が、今もそこで止まっていた。
「記録」とは「もう戻れない一瞬」を、誰かに“託す”こと。
 それが、生き残った者の“唯一の責務”だと知っていたから――。

 夜の魔界首都。
 通い慣れたそのビルの前に、今日も“魔界経済新聞社”のネオンが光っている。
 天井近くから「ゴゴゴ……」とまだ機関音が鳴っていた。
 少し前までビルごと無理やり空を飛んでいた名残だ。

 レイスはふっと笑って、ガラス張りの自動ドアをくぐる。
 中に入ると、ロビーは妙に落ち着いた空気だった。
 変わらないのは、カウンターに座る――あの人。
 受付嬢。
 グラシャ社長と同じくらい“魔界経済新聞社の顔”と言える存在。
 レイスが旅に出た日。
「ああもう無理……私ここ辞めます……」と青ざめていた、あの人である。

 けれど今。
 彼女はピシッと背筋を伸ばし、前髪をしっかり留めたまま、変わらぬ笑顔を向けてきた。
 レイスは思わず口元を緩めた。
「……あれ? RECRUIT見てたんじゃなかったっけ、受付さん」
 彼女は一瞬、目をぱちくりさせたあと。
 思い出したように、ちょっとバツの悪そうな笑顔を浮かべた。
「あっ、そうでしたね」
「……本気で転職しようかと思って、“隙間バイト”とかいろいろやってみたんですよ」
 そう言いながら、カウンター脇の棚からなぜか“宅配ドライバー用の帽子”を引っ張り出す。
 その手際が妙に慣れていて、逆にリアルだった。

「配達もやりました、書店もやりました、でも」
 帽子を棚に戻し、少し照れくさそうに笑う。
「ココが一番、居心地がいいみたいです」
 レイスは、少しだけ頷く。
「……まぁ、そう感じるわ。イキイキしてるしな」
「最初から受付“天職”だったんじゃねぇの?」
 受付嬢は口元を手で隠して笑った。
 その笑いは少し、あの日よりも丸く、穏やかだった。

「天職かどうかは分かりませんけど。
 ……社長がまた“変な奴”連れてきたら、止める係が必要でしょう?」
 レイスは肩をすくめた。
「止められたこと、あったか?」
「ありませんね!!!」
 ビシィッと即答。語尾にビックリマーク付きで。

「……うん、やっぱイキイキしてるわ」
「社長に合ってると思うよ、マジで」
 再び肩をすくめたレイスは、軽く手をあげてロビーの奥へと歩いていく。
 受付嬢はその背を見送りながら、ぼそりと呟いた。
「……RECRUITアプリ、アンインストールしとこ」
 ぽちりとタブレットをタップする音が、ロビーにだけ響いた。

 ロビーの空気は相変わらず、妙に清潔感があった。
 書類はきちんと仕分けられ、観葉植物も元気に揺れている。
 だがこの新聞社の正体を知る者なら、“この静けさが一番危ない”と知っているはずだ。
 受付嬢は相変わらず席についていた。
 レイスを見つけてすぐ、笑顔で口を開く。

「……ところで、今日は何を? まあ、予想はつきますが」
 レイスは無言で肩のカバンから“あれ”を取り出した。
 黒く焦げたボディ。ひび割れたレンズ。
 ストラップには溶けたフィルムの痕跡が絡みついている。
「……カメラ。社長へ返しに来た」
 受付嬢は一瞬きょとんとした顔をしたが。
 すぐに眉を寄せて、ちょっと困ったように笑った。

「……え? あれは“お前に譲るからこき使え”って言ってませんでした?」
「……燃えちまった」
「……あ」
 受付嬢は、そっと手を伸ばしてレイスからそれを受け取った。
 まるで、遺体を扱うように慎重な手つきで。
 目を細め、静かに息を呑んだ。
「お亡くなりになったやつだ」
 決して軽くはない。だが、重すぎもしない。
 新聞社で何年も働いている彼女は。
 “記録が終わる”という事実に向き合えるだけの胆力を持っていた。
 それでも。

「無慟海を耐えたカメラでも、耐えられなかったものが、記録されている……!」
 ちょっと演技がかった声で、カメラを持ち上げる。
 まるで記者会見のフラッシュを想像するように、わざと表情を硬くして。
 レイスは苦笑して小さく頷いた。
「うん」
「待ってください、すぐ社長に繋げます」
 即座に内線へ手を伸ばす姿は――妙に手際が良かった。
「録音ON、映像ON、会話ログON……」
 レイスは何も言わず、待っていた。
 カウンター越しのその手元には、ボロボロになった“元・相棒”が置かれている。

 それはまるで、“この記録の果て”が、どれほど壮絶で。
 かけがえのない瞬間だったかを語っているようだった。
 受付嬢は少しだけ、悼むように目を伏せる。
 けれどその声は、相変わらず明るかった。
「……ほんと、いなくなると“ちょっと寂しくなるタイプのヤツ”なんですね、このカメラ」
「……だな」
「でも、ちゃんと帰ってきた。“使命を果たして”」
 カメラを両手で包むように置いたその所作は、どこか神聖ですらあった。
 ここは狂った新聞社だけど、“記録”を愛する者たちの、聖域だった。

「……“あのカメラ”が、壊れた?」
 最初に声を上げたのは、受付嬢のすぐ背後で待機していた若手の記者だった。
 内線を切った受付嬢の呟きを、偶然――いや、無意識に聞き耳を立てていたのだろう。
「え? 無慟海を耐えた、例の……?」
 その言葉は、まるで火種だった。
 一瞬で周囲のデスクに伝播し、編集室全体がざわりと音を立てて色めき立つ。

「嘘だろ……魔力ゼロ空間で動作した唯一のフィルムカメラが?」
「シャッター音が“悪魔にすら効く”って噂の……」
「あれ、記録魔術より精度高いって言われてなかったっけ?」
「バケモンみたいなカメラだぞ……それが、壊れた?」
 記者たちがざわつく中、編集室の奥。
 コーヒーとせんべいの山に囲まれた赤スーツの男が。
 ゆっくりと椅子を回した。
 ――グラシャラボラス社長。

「……無マナ無酸素のデスゾーンを、あの黒ロモが耐えたんだぜ?」
「それが壊れたって……オイオイ」
「逆に、いったい何を撮りゃ死ぬんだよ?」
 その言葉に、周囲の記者たちが反射的に反応した。
「え、えーと……ソドムとゴモラの炎とか?」
「いやいや、マジの超新星爆発じゃないっすか?」
「次元震とか? 世界改変系?」
「バビロン陥落の映像とか?」
「それはさすがに神話だろ!!」
 冗談とも本気ともつかない言葉が、焦燥と畏怖を含んで交差する。
 グラシャは一瞬、軽く笑った。
 だがその目は、すでに“核心”を射抜いていた。

「通せ……いつもの部屋だ」
 受付に声をかける。
 レイスを、社長室へ。
「確か、エンヴィニアに行くとか言ってたなぁ……アイツ……」
 そこで言葉を切った。
 誰もが、その一言の続きを察した。
「まさか……“アレ”か?」
 ――アレ。
 魔界最大最悪の超兵器。
 封印されたはずの禁忌。
 海底に沈んだ、かつての帝国を一夜で飲み込んだ“最後の一撃”。

《超禁呪兵器 マナ・デストロイヤー≫

 編集室が静まり返った。
 数秒前まで飛び交っていたオタク妄想が、空気に飲み込まれる。
 グラシャラボラスはゆっくりと立ち上がり、薄く笑いながら、煙草に火をつけた。

「……“虚無の底”の、そのまた底」
「ようやく、撮ったってわけか。――“真の断末魔”をよォ」
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