嫉妬帝国エンヴィニア

兜坂嵐

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レイスの海底さんぽ

気怠すぎる午後

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 バルベリトの朝は遅い。
 魔界でも随一の現代都市、その片隅にあるアモン邸リビングは気怠さに包まれていた。
 電子レンジのピーピー音だけが部屋に響く。
 カウンターの上には、整然と並んだチルドハンバーグとアカメバナナの皮ごとマフィン。
 どちらも包装すら剥がされず、レンジ行き待ちで積み上がっている。

「……師匠。アカメバナナのマフィン三連発の次は、チルドハンバーグ地獄っすか……」
 ソファで体育座りのレイスが、ほぼ死んだ目で呟く。
 その隣、アモン様――魔界最強炎使いでありながら。
 自称“無限昼寝団”団長――は、ダルそうに腕を組み、胡坐をかいている。
「……だって、めんどくさいじゃない?野菜切るの」
「めんどくさい……」
 ガタッと音がして、さらに怠惰な空気の主がひとり追加される。
 セエレ――FPSの鬼、魔界のツンデレ天使――が、リモコンを探しもせず“音”としてテレビをつける。
 【マモルンデス】
 テレビ画面には「魔界版ヒルナンデス」と評判の、お馴染み昼番組が流れている。
 相変わらずの、どこかやる気のないMCたちが、毎週同じコーナー・同じ昼メシを紹介し続けている。

「まぁ~た同じ特集に同じメシ、無限ループじゃないのこれ……」
「……もう“音”っすよね」
 画面の向こうの出演者が「今日は!地獄駅前の!行列パン屋さん特集~!」
 などと叫んでいるが、誰も見ていない。
「パン屋の紹介……毎日やってねぇ?」
「どうせまた“アカメバナナ”だよ。あの皮ごと食えるやつ。昨日も、一昨日も……」
「いやマジで、もう“生活音”でしかないっす」
 キッチンカウンターには、溶けかけのアイスクリームも転がっている。
 「誰も片付けない」――それが、怠惰界の日常だ。

 テレビからは、既に5回目となる 「レンジでチンするだけで本格生パスタ~!」
 のやる気ゼロなナレーション。
 そのBGMが眠気を誘う中、セエレがふとスーパーの袋を引き寄せた。
 中から出てきたのは「ねむけ棒」――食べると眠くなる魔界名物チュロス系お菓子だ。
「あ、これもらったんすよ。ほら、ねむけ棒」
「なんだよそれ……昼寝のお供かよ」
「新作?……いいわね、一本ちょうだい」
 各自、手に取って無意識にカジる。
 ほんのり甘くて、どこか眠くなる味。
 (ていうか何味かもよくわからない)

「……なんか、急に……」
「……だる……」
「……zzz」
 3人、ソファやカーペットで寝落ち。
 画面には「本格生パスタ~!」が流れ続け、その前で全員爆睡という壮絶なダメ人間現場が完成した。
 どこかで浮遊ベッドタクシーの低いエンジン音が遠ざかる。
 外は淡い青空。怠惰界の昼下がり、静かに時が溶けていく――。
 こうして怠惰界の日常は、チルド飯とねむけ棒に支配されていく。
 誰も彼もが、ソファで、ベッドで、床で眠りこける――。
 そして気づいた時には、もう夕方。
 だが、これが“幸せ”と呼ばれるなら――彼らは誰よりも幸せかもしれない。

 ――気づけば、もう夕方だった。
 バルベリトの空は茜色に染まり、リビングにはほの暗い光が差し込んでいる。
 テレビでは、もう六度目になる「本格生パスタ~!」の、やる気のないナレーションが流れていた。
 床の上で寝落ちしていたレイスが、眠そうに身体を起こす。
 ソファにはセエレがだらしなく横になり、アモンは夢うつつのままレンジの前に座り込んでいる。
 チルドハンバーグのパックが、また1つ電子レンジから取り出される。
 「……いい加減、チンじゃない肉食べたいっす」
 セエレがぼそりと呟いた。誰に言うともなく、半分寝ながらの愚痴。
 「じゃあ暴食界行きなさい」
 アモンが一切視線を動かさずに答える。レンジの前で胡坐をかいたまま。
 ハンバーグを小皿に移す動作すら億劫そうだ。
 「めんどくさいですぅ……」
 セエレの返事も、再び意識が沈んでいくような声だった。
 そんな沈滞した空気を破るように、突然テレビからテンション高めの声が響いた。

 【写真コンテスト開催!】
 『あなたの撮った魔界の絶景写真、大募集!金賞は“幻の竜肉”をプレゼント!』

 その言葉に、レイスのまぶたがわずかに持ち上がる。
 「おい、セエレ……写真撮るだけで肉が貰えるんだってよ」
 セエレがわずかに反応した。「は?それ、応募しよ」
 アモンは、夢うつつでつぶやく。「肉……竜肉……」
 そしてまた、もう一度眠りに戻ろうとする。
 レイスは、どこか機械的な手つきでスマホを操作しながら。
 「これなら俺、狙えるかもな。海の写真、腐るほどあるし……」と独り言のように呟いた。
 眠気に負けつつも、“チルド飯”よりもほんの少しだけ早く。
 写真投稿のボタンだけは押している自分に気づく。
 こうして、魔界随一の怠惰な住人たちは、“肉”というご褒美にだけかろうじて本気を出した。
 だが、たった一枚の写真が。
 やがて「失われし古代帝国」を現代に呼び覚ますことへなるとは。
 このとき誰も思っていなかった。

 写真コンテストの告知は、その場の空気をほんのわずかだけ動かした。
 “肉”という響きに誘われ、レイスはスマホを片手に何となく立ち上がる。
 だが――。
 「あれ……俺、何を撮るんだ?」
 カメラアプリを起動したまま、早くも行き詰まる。
 部屋の中を見回してみても、脱ぎっぱなしのルームウェアや使いかけのチルド飯が散らばるだけ。
 その先で、セエレが羽を伸ばしながらニヤリと笑った。

 「じゃ、僕空飛べるんで。高いとこから夜明けの瞬間撮りますわ」
 「ずりぃ。それ反則だろ……。俺が撮るもんなんて、何もないじゃん」
 レイスがふてくされると、セエレは肩を竦めてみせる。
 「じゃあ兄弟子が思う“エモ景色”撮ってみてくださいよ」
 “エモ景色”。
 そう言われて、レイスはぼんやりと目を伏せた。
 自分にとっての“エモ”ってなんだ?
 日常の風景でもない。
 笑えるネタでもない。
 ――思い浮かぶのは、どこまでも沈黙と虚無だけが支配する、あの海だった。

 「……無慟海(むどうかい)」
 その名を口にするとき、レイスの声はわずかに掠れていた。
 嫉妬界の奥深くに広がる、何もかもを呑み込むような虚無の海。
 誰も近づかない、音も、色もない場所――。
 だが、彼にとっては唯一“自由”になれる景色だった。
 「……無慟海?」
 アモンが、ちらりとレイスを見る。
 「貴方は耐えられてもカメラが耐えられないわよ。あそこ、無マナ――“魔力ゼロ”の虚無だもの」
 その一言で、レイスははっと現実に引き戻される。

 「あ~、そうか……詰んだ……」
 せっかく心に決めたはずの“エモ景色”は、カメラすら生き残れない禁断の場所だった。
 レイスは一度、ソファに沈み込む――が、ふと脳裏にある顔がよぎる。
 (……魔界経済新聞社の社長。グラシャラボラス、つったっけ。あいつのカメラ、“不死身”って噂だったよな)
 どこかで聞いた話。
 「何でも撮れる。何度壊れても動く。地獄のど真ん中でも平然とシャッターを切るカメラ」
 そんなモンが本当にあるなら、あの虚無の海も記録できるかもしれない――。
 レイスは寝癖のまま、立ち上がる。
 「……ちょっと、出てくるわ」
 セエレが、もぞもぞと毛布から顔を出す。
「兄弟子~、どこ行くンすか?」
 「魔界経済新聞社」
 「????……まぁ、いってらっしゃぁい」
 どこかでまた「レンジでチンするだけで本格生パスタ~!」の声が聞こえていた。
 怠惰界の空気の中、レイスだけが、ほんの少しだけ“何か”を求めて歩き始める。



 ネオンの川が流れるような魔界都市の夕暮れ。
 その中を、赤髪の青年がゆったりと歩く。
 真横から見たそのシルエットは、黒いロングコートと赤のインナーがひときわ浮き立つ。
 道の向こう、夜の青に沈む「魔界経済新聞社」のビル。
 彼を取り巻くのは、寝落ち寸前の悪魔たち、浮かぶベッドタクシー、チルド飯自販機。
 世界が眠るなか、彼だけが「目的」を胸に静かに歩き出していた。
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