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繋がる時空の橋
現代-先祖が残したもの
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夜の空は澄んでいた。
昼間の嵐が嘘のように晴れ渡り、街灯の明かりに交じって、微かに星が見える。
湿ったアスファルトが、時おり風にきらりと反射する。
アイス屋「ブリザード31」の紙袋を提げたヴァラ・インマールは、どこか満足げな顔をしていた。
袋の中では、持ち帰り用のミントアイスとチョコアイスが保冷剤と共に眠っている。
「5時間も付き合わせてすみません」
「ひさしぶりに、“失われしエンヴィニア帝国”ではなく……“信仰”について語れたもので」
ヴァラは笑うように言った。
隣を歩くマルスは無言のまま、背中で完全に寝落ちたプルトを片手で背負っていた。
「かまわん」
マルスは静かに言う。
「どのみち、プルトもしばらくは目覚めんからな」
「……それに、“信仰の話”というのは、長く語られるほど真実に近づくものだ」
その言葉に、ヴァラはくすりと笑った。
「……ですが、アイス屋で5時間も歴史と信仰の話をしたのは、やりすぎでしたね」
「最後の方、店員さんたち皆、“いつ終わるんだ”って顔してましたもの」
二人の足取りは、少しだけ緩やかになる。
街灯の下を過ぎ、住宅地へと続く穏やかな下り坂。
ヴァラは、ふと立ち止まるようにして言った。
「……私の家で、続きをお話しませんか?」
「ここから車で1時間ほどの場所です」
「“ご先祖様”について─見せたいものが、あるんです」
言葉の端に、ささやかな決意の色がにじむ。
マルスは、しばし夜空を見上げてから応じた。
ゆっくりと、だが確かな重みで。
「ああ……仮眠の後にでも、聞こうか」
そう言って、彼は背中のプルトを軽く担ぎ直す。
「……まるで、眠り猫だな」
ヴァラはアイスの紙袋を握りしめながら、笑った。
夜はまだ、少しだけ続いていた。
夜の住宅街に、アイスグレーの小さなハイブリッド車が停まる。
そのスマートな車体は、いかにも燃費と実用性に優れた現代の一台。
だが今、その車には「ある問題」が立ちはだかっていた。
ヴァラ・インマールが、にこやかに助手席側のドアを開けながら言う。
「では、助手席にどうぞ」
隣に立つマルスは、黙って頷いて車に乗り込もうとした。
─ガツッ。
無音の衝突音。
「……」
彼の額が、コンパクトカーの天井に直撃した。
だがマルスはめげない。
再挑戦。今度は─。
「…………ッ」
足が引っかかる。
肩をねじ込んで、なんとか座席に収めようとするが。
「………………」
肩幅が、見事に、車の内装設計に負けた。
車内には、後部座席で寝落ちしているプルトの安らかな寝息だけが響いている。
片手はだらんと垂れ、夢の中へフルダイブ中。
やがて、マルスは無言で助手席に収まった。
猫背になり、膝を立て、不自然すぎる角度で固まる巨人。
「……少し、きつい」
明らかに人権を喪失した座り方である。
ヴァラは微笑を崩さぬまま、冷静に判断した。
「後部座席にしましょう」
「……サイズ調整、間違えました」
乗り物の設計者に対する無言の叛逆である。
プルト移動ターン。
ヴァラが後部座席のドアを開け、そっと肩を揺する。
「プルトさん、起きてください。ちょっとだけ」
「ん~……」
完全に寝ている。いや、念で寝ている。
マルスは無言でプルトを片腕で持ち上げ、そのままふわりと助手席に“配置”した。
シートベルトがロックされる。
プルトはそのまま、斜めにぐで寝継続。
体勢が変わっても、睡眠レベルは変わらない。
マルスは後部座席に戻り、ドアを閉めながら一言だけ呟く。
「……ゆるせ」
その言葉に、ヴァラはふっと笑った。
「ふふ、大丈夫です。寝言で抗議されない限りは」
夜の魔界都市は、光でできていた。
高層ビル群の輪郭が淡いエメラルドに縁取られ、ネオンの明滅がミント色にきらめく。
どこか冷たいはずの色彩なのに、心に残るのは“静かな甘さ”だった。
一台のアイスグレーのハイブリッド車が、街の外縁部をゆっくりと走っていた。
車内は落ち着いた空気に包まれている。
天井から漏れるオレンジ色の室内灯が、優しく肌を照らしていた。
運転席でハンドルを握るヴァラ・インマールが、ふと穏やかに口を開く。
「私は、所謂“おじいちゃん子”でしてね」
「両親が共働きでしたから」
後部座席にはマルス・フローガ。
「座っている」と言うには厳しい。
彼はぎりぎりまで体を折り畳み、猫のように丸まっていた。
それでも膝がドアに触れそうで、天井もすぐそこにある。
それでも、彼は静かに応じた。
「祖父というのは……どんな人間だったんだ?」
「インマールという名……どこかで聞いたような気もするが」
ヴァラは、街灯の影がフロントガラスを過ぎるたびに、思い出すような表情になる。
「おっとりされているというか……とても優しい方でした」
「よく老眼鏡を落とされて」
「“おじいちゃん、しっかりして”って、私も何度言ったことか」
肩をすくめ、くすっと笑う。
その笑顔は、車の中をさらに柔らかな空気で満たした。
─やがて、車は目的地に到着する。
石畳の小道を抜けた先。
そこにあったのは、古魔道式の静かな邸宅だった。
木と石を融合させた造りは、現代の魔界建築とは一線を画している。
丸みを帯びたアーチと重厚な木扉、褪せたガーランドが屋根を縁取る。
玄関をくぐれば、そこはまるで時が止まったかのような空間。
壁には祈祷書の表紙が飾られ、奥の棚にはインマールが使っていた翡翠の十字ペンダントが。
今も光を湛えていた。
照明は暖色。
窓の外には、魔界都市のチョコミント色の夜景が、まるで静かな海のように広がっている。
微かに香の匂いが漂っていた。
それは誰かの祈りの残り香か─あるいは、まだ続く物語の余韻か。
ヴァラ邸の書斎は静かだった。
魔界都市の夜景が窓の外に広がり、チョコミント色の明かりがゆるやかに室内へ差し込む。
空気を邪魔しない程度に炊かれた香の香りが、祈りにも似た空気を醸していた。
ヴァラは、書棚の奥から丁寧に包まれた書簡を取り出すと、机の上に置いた。
「……私にも、分からないのです」
その声は穏やかだが、奥底に迷いを含んでいる。
「エンヴィニア帝国を吹き飛ばした“マナ・デストロイヤー”の破壊規模は」
「現代人の基準でも、“あり得ない”ものです」
「その中で、どうしてご先祖様が生き延びたのか……記録にも痕跡がないのです」
マルスはしばし沈黙し、やがて小さく首を振った。
「……シェルターでは意味をなさない」
「国外脱出をするにも、国土が広すぎる」
「それに、貴女の話を聞く限り」
「司祭が“信仰を捨てる”など、あり得ない」
机に肘を置き、彼は自らのツノの先をゆっくりと指でつまむ。
考え込むときの癖だ。
「……難題だな」
その空気を、ふと変えたのはヴァラの小さな一言だった。窓の外を見ながら、ぽつりとこぼす。
「もし“時を超えた”とすれば……」
「何か……過去から“逃げた”のではなく、“未来へ導かれた”としたら……?」
マルスは、その言葉に顔を上げた。
だが言葉にはしなかった。
書斎に柔らかなランプの灯りだけが漂う頃、静寂を破ったのは1つの気配だった。
ソファの上でぐっすりと眠っていた黒猫─否、プルトが、ゆっくりと身を起こす。
「……あー、よく寝ました」
背筋を伸ばし、毛繕いでもするような動きで肩を回す。
「で、何ですか?寝起きにいきなり神の話ですか」
「……まぁ、いいですよ」
マルスが無言で祈祷書を差し出す。
プルトはそれを受け取り、しばらく表紙をじっと見つめた。
「マスターアサシンって、宗教家でもありますしね」
黒い指先が、古びた紙の感触を確かめるようにページをめくる。
─始まろうとしていた。
一冊の書が、時を超えて語りはじめる。
静まり返る書斎に、紙をめくる音が小さく響く。
プルトの声がふと低くなり、息を呑む気配が走った。
「この革装丁、“現代”のものじゃない」
指先でなぞる革の質感。
魔界でも今は使われなくなった古式の鞣し技術─それは、間違いなく1万年以上前の代物。
「これは……間違いなく、“マナ・デストロイヤー以前”のものです」
祈祷書と呼ばれたそれは、実際には“手記”に近かった。
だがその記述は、“誰にでも読める文字”ではなかった。
「……信仰コードですね。これは、マスターアサシンが暗号と共に学ぶ“祈りの言語”です」
プルトはページを繰りながら、小さく唸る。
「……“主の御許にて告げられし未来”……」
「“御遣いの衣は黒く、語る言葉は雷のごとく”」
「“彼の者達、遥けき彼方より来りて滅びを伝えたり”」
読み終えたプルトは、静かに言う。
「つまり、“誰かが司祭に未来の滅亡を伝えた”ということですね」
マルスの声が重く落ちた。
「……クロノチーム、か」
プルトは頷く。
「ですね。“衣は黒く”……これはレイス。“雷の言葉”はユピテルでしょう」
「正直、知ってる奴の特徴がそのまんまです」
ヴァラは瞠目し、思わず言葉をこぼす。
「では……ご先祖様は本当に“未来の者と出会っていた”というのですか……?」
プルトは再びページを戻しながら、やや思案の表情を浮かべる。
「正確には、“出会わされた”……ですね」
「ここから先は記述が断片的です。ですが─こんな一節があります」
神の御座より遣わされし者、夜に訪れ、緑の空と白き滅びを語る。
彼ら、時を越えし導き手、されど神に非ず、魔に非ず。
我、迷いぬ─信仰か、現実か。
されど祈る他なし。
この身、断罪の器となるとも。
我が祈りだけは未来へ届かんことを。
祈祷書を閉じながら、プルトはぽつりと呟く。
「……完全に、覚悟決めてますね。“自分は滅びを止められない”と悟ってた」
「けれど、それでも“未来に残る者”へと、祈りを託した」
マルスは目を伏せ、拳をゆっくりと握った。
「だから、“彼だけが生き延びた”……?」
その問いに、ヴァラは静かに首を振る。
「……いいえ。“残された”のです」
「彼が最後の司祭として、記憶の伝承者となるために」
彼らの前にあるのは、死にゆく世界で祈り続けたひとりの司祭の魂。
そしてその祈りは、今─未来に届いたのだ。
夜のヴァラ邸は、沈黙の帳に包まれていた。
書斎にはランプの灯が1つだけ。
机の上には、古びた革装丁の祈祷書。
紙の縁はところどころ黄ばんでおり、墨の跡は滲んでいる。
プルトの指が、その最終ページで止まっていた。
「……ダメです」
静かな声だった。
だが、確かに何かが砕けたような響きを帯びていた。
「筆跡が乱れすぎていて、全文は……読めません」
マルスはゆっくりと目を閉じ、静かに言葉を選ぶ。
「……そうか。なら、読める部分だけでいい」
「単語だけでも頼む」
プルトは頷き、祈るように指先で文字をなぞった。
乾いた紙の感触が、夜に溶けていく。
「……“時”……“架け橋”……そして、“明日”」
─部屋が、息を呑んだように静まり返った。
ヴァラの声が震える。
「“時を越えて未来へ託す”」
「そのつもりで……ご先祖様は、記録を残していた……?」
プルトは、ゆっくりと祈祷書を閉じ、まるで聖句を唱えるように言った。
「……この人は“神に祈った”んじゃない」
「誰かに祈ったんですよ、“明日を繋げ”って」
ヴァラは目を見開き、静かに記憶の奥を手繰り寄せた。
「……“時”、“架け橋”、“明日”」
「……あれは、一度だけ語ってくれた話です」
ヴァラの声が、まるで回想のように柔らかくなる。
「“ここに入れ”と言われたそうです」
「ご先祖様は、祈りながら“それ”に入った。気づいたら、違う場所にいたと」
マルスの眉が険しく寄せられた。
「……タイムマシンだと?」
「現代ですら、それは実現していないぞ……!」
その時──。
バンッ!
プルトが、明確な意志を込めて祈祷書を“音を立てて”閉じた。
その目は、闇の中で獣のように鋭かった。
「マナ・デストロイヤーは、現代兵器の範疇を超える存在です」
「それを作った文明ですよ」
「“時間”を越えるくらい、出来て当然です」
─しん、と凍り付くような沈黙。
やがて、ヴァラがそっと祈祷書に触れた。
その手つきは、まるで祖父の魂に触れるかのように、慎ましく。
「……では、ご先祖様は“選ばれた”のですね」
「未来に─誰かに託すために」
その瞬間、書斎のランプが少しだけ揺れた。
まるで、“祈り”が時空を渡って息を吹き返したかのように。
書斎には、まだ祈祷書のぬくもりが残っていた。
ランプの炎がゆらめき、夜の静寂に寄り添うように明滅している。
プルトは、祈祷書の縁を指でなぞりながらふと呟いた。
「……ヴァラさん。この逸話、旧約聖書に似ていますね」
その一言に、ヴァラが瞬時に応じる。
「……ソドムとゴモラ、ですか?」
マルスが深く嘆息した。
「あぁ始まった……。聞いてはやるか」
二人の宗教家が“真顔”になったとき、周囲は覚悟すべきだというのが彼の経験則だった。
プルトは祈祷書の余白に描かれた古い挿絵を見つめながら、言葉を続けた。
「腐敗した都は、神の火によって焼かれた」
「正しき者だけが、“導き手”に連れられて脱出した」
「─その名は“ロト”」
ヴァラは頷きながら、目を伏せた。
「一致しています。ご先祖様を“ロト”と解釈すれば─すべての辻褄が合う」
プルトは最後のページをそっと開き、にじんだ絵の一枚に指を置いた。
「……誰かが、導いたのでしょうね。彼を」
そこには、筆致の乱れた淡いインクで、“6人の影”が描かれていた。
ひとりの男─司祭インマールの腕を、確かに6つの手が掴んでいる。
影の姿は判然としないが、ひとりはフードを被り、ひとりは背が高く、ひとりは細身。
だが、どこかで見たような、そんな気配を纏っていた。
「……六人の天使」
プルトの声は、どこか遠くを見ていた。
その言葉が意味するものを、三人とも理解していた。
─この旅は偶然ではない。
─この記録は偶然ではない。
この“祈り”が未来に届いたのは、偶然なんかじゃない。
マルスは静かに立ち上がり、言った。
「……十分だ」
「未来の責任は、今の我々が持つ」
ランプの灯が、音もなく揺れた。
風のない夜に、それは“誰か”の返事のようにも思えた。
昼間の嵐が嘘のように晴れ渡り、街灯の明かりに交じって、微かに星が見える。
湿ったアスファルトが、時おり風にきらりと反射する。
アイス屋「ブリザード31」の紙袋を提げたヴァラ・インマールは、どこか満足げな顔をしていた。
袋の中では、持ち帰り用のミントアイスとチョコアイスが保冷剤と共に眠っている。
「5時間も付き合わせてすみません」
「ひさしぶりに、“失われしエンヴィニア帝国”ではなく……“信仰”について語れたもので」
ヴァラは笑うように言った。
隣を歩くマルスは無言のまま、背中で完全に寝落ちたプルトを片手で背負っていた。
「かまわん」
マルスは静かに言う。
「どのみち、プルトもしばらくは目覚めんからな」
「……それに、“信仰の話”というのは、長く語られるほど真実に近づくものだ」
その言葉に、ヴァラはくすりと笑った。
「……ですが、アイス屋で5時間も歴史と信仰の話をしたのは、やりすぎでしたね」
「最後の方、店員さんたち皆、“いつ終わるんだ”って顔してましたもの」
二人の足取りは、少しだけ緩やかになる。
街灯の下を過ぎ、住宅地へと続く穏やかな下り坂。
ヴァラは、ふと立ち止まるようにして言った。
「……私の家で、続きをお話しませんか?」
「ここから車で1時間ほどの場所です」
「“ご先祖様”について─見せたいものが、あるんです」
言葉の端に、ささやかな決意の色がにじむ。
マルスは、しばし夜空を見上げてから応じた。
ゆっくりと、だが確かな重みで。
「ああ……仮眠の後にでも、聞こうか」
そう言って、彼は背中のプルトを軽く担ぎ直す。
「……まるで、眠り猫だな」
ヴァラはアイスの紙袋を握りしめながら、笑った。
夜はまだ、少しだけ続いていた。
夜の住宅街に、アイスグレーの小さなハイブリッド車が停まる。
そのスマートな車体は、いかにも燃費と実用性に優れた現代の一台。
だが今、その車には「ある問題」が立ちはだかっていた。
ヴァラ・インマールが、にこやかに助手席側のドアを開けながら言う。
「では、助手席にどうぞ」
隣に立つマルスは、黙って頷いて車に乗り込もうとした。
─ガツッ。
無音の衝突音。
「……」
彼の額が、コンパクトカーの天井に直撃した。
だがマルスはめげない。
再挑戦。今度は─。
「…………ッ」
足が引っかかる。
肩をねじ込んで、なんとか座席に収めようとするが。
「………………」
肩幅が、見事に、車の内装設計に負けた。
車内には、後部座席で寝落ちしているプルトの安らかな寝息だけが響いている。
片手はだらんと垂れ、夢の中へフルダイブ中。
やがて、マルスは無言で助手席に収まった。
猫背になり、膝を立て、不自然すぎる角度で固まる巨人。
「……少し、きつい」
明らかに人権を喪失した座り方である。
ヴァラは微笑を崩さぬまま、冷静に判断した。
「後部座席にしましょう」
「……サイズ調整、間違えました」
乗り物の設計者に対する無言の叛逆である。
プルト移動ターン。
ヴァラが後部座席のドアを開け、そっと肩を揺する。
「プルトさん、起きてください。ちょっとだけ」
「ん~……」
完全に寝ている。いや、念で寝ている。
マルスは無言でプルトを片腕で持ち上げ、そのままふわりと助手席に“配置”した。
シートベルトがロックされる。
プルトはそのまま、斜めにぐで寝継続。
体勢が変わっても、睡眠レベルは変わらない。
マルスは後部座席に戻り、ドアを閉めながら一言だけ呟く。
「……ゆるせ」
その言葉に、ヴァラはふっと笑った。
「ふふ、大丈夫です。寝言で抗議されない限りは」
夜の魔界都市は、光でできていた。
高層ビル群の輪郭が淡いエメラルドに縁取られ、ネオンの明滅がミント色にきらめく。
どこか冷たいはずの色彩なのに、心に残るのは“静かな甘さ”だった。
一台のアイスグレーのハイブリッド車が、街の外縁部をゆっくりと走っていた。
車内は落ち着いた空気に包まれている。
天井から漏れるオレンジ色の室内灯が、優しく肌を照らしていた。
運転席でハンドルを握るヴァラ・インマールが、ふと穏やかに口を開く。
「私は、所謂“おじいちゃん子”でしてね」
「両親が共働きでしたから」
後部座席にはマルス・フローガ。
「座っている」と言うには厳しい。
彼はぎりぎりまで体を折り畳み、猫のように丸まっていた。
それでも膝がドアに触れそうで、天井もすぐそこにある。
それでも、彼は静かに応じた。
「祖父というのは……どんな人間だったんだ?」
「インマールという名……どこかで聞いたような気もするが」
ヴァラは、街灯の影がフロントガラスを過ぎるたびに、思い出すような表情になる。
「おっとりされているというか……とても優しい方でした」
「よく老眼鏡を落とされて」
「“おじいちゃん、しっかりして”って、私も何度言ったことか」
肩をすくめ、くすっと笑う。
その笑顔は、車の中をさらに柔らかな空気で満たした。
─やがて、車は目的地に到着する。
石畳の小道を抜けた先。
そこにあったのは、古魔道式の静かな邸宅だった。
木と石を融合させた造りは、現代の魔界建築とは一線を画している。
丸みを帯びたアーチと重厚な木扉、褪せたガーランドが屋根を縁取る。
玄関をくぐれば、そこはまるで時が止まったかのような空間。
壁には祈祷書の表紙が飾られ、奥の棚にはインマールが使っていた翡翠の十字ペンダントが。
今も光を湛えていた。
照明は暖色。
窓の外には、魔界都市のチョコミント色の夜景が、まるで静かな海のように広がっている。
微かに香の匂いが漂っていた。
それは誰かの祈りの残り香か─あるいは、まだ続く物語の余韻か。
ヴァラ邸の書斎は静かだった。
魔界都市の夜景が窓の外に広がり、チョコミント色の明かりがゆるやかに室内へ差し込む。
空気を邪魔しない程度に炊かれた香の香りが、祈りにも似た空気を醸していた。
ヴァラは、書棚の奥から丁寧に包まれた書簡を取り出すと、机の上に置いた。
「……私にも、分からないのです」
その声は穏やかだが、奥底に迷いを含んでいる。
「エンヴィニア帝国を吹き飛ばした“マナ・デストロイヤー”の破壊規模は」
「現代人の基準でも、“あり得ない”ものです」
「その中で、どうしてご先祖様が生き延びたのか……記録にも痕跡がないのです」
マルスはしばし沈黙し、やがて小さく首を振った。
「……シェルターでは意味をなさない」
「国外脱出をするにも、国土が広すぎる」
「それに、貴女の話を聞く限り」
「司祭が“信仰を捨てる”など、あり得ない」
机に肘を置き、彼は自らのツノの先をゆっくりと指でつまむ。
考え込むときの癖だ。
「……難題だな」
その空気を、ふと変えたのはヴァラの小さな一言だった。窓の外を見ながら、ぽつりとこぼす。
「もし“時を超えた”とすれば……」
「何か……過去から“逃げた”のではなく、“未来へ導かれた”としたら……?」
マルスは、その言葉に顔を上げた。
だが言葉にはしなかった。
書斎に柔らかなランプの灯りだけが漂う頃、静寂を破ったのは1つの気配だった。
ソファの上でぐっすりと眠っていた黒猫─否、プルトが、ゆっくりと身を起こす。
「……あー、よく寝ました」
背筋を伸ばし、毛繕いでもするような動きで肩を回す。
「で、何ですか?寝起きにいきなり神の話ですか」
「……まぁ、いいですよ」
マルスが無言で祈祷書を差し出す。
プルトはそれを受け取り、しばらく表紙をじっと見つめた。
「マスターアサシンって、宗教家でもありますしね」
黒い指先が、古びた紙の感触を確かめるようにページをめくる。
─始まろうとしていた。
一冊の書が、時を超えて語りはじめる。
静まり返る書斎に、紙をめくる音が小さく響く。
プルトの声がふと低くなり、息を呑む気配が走った。
「この革装丁、“現代”のものじゃない」
指先でなぞる革の質感。
魔界でも今は使われなくなった古式の鞣し技術─それは、間違いなく1万年以上前の代物。
「これは……間違いなく、“マナ・デストロイヤー以前”のものです」
祈祷書と呼ばれたそれは、実際には“手記”に近かった。
だがその記述は、“誰にでも読める文字”ではなかった。
「……信仰コードですね。これは、マスターアサシンが暗号と共に学ぶ“祈りの言語”です」
プルトはページを繰りながら、小さく唸る。
「……“主の御許にて告げられし未来”……」
「“御遣いの衣は黒く、語る言葉は雷のごとく”」
「“彼の者達、遥けき彼方より来りて滅びを伝えたり”」
読み終えたプルトは、静かに言う。
「つまり、“誰かが司祭に未来の滅亡を伝えた”ということですね」
マルスの声が重く落ちた。
「……クロノチーム、か」
プルトは頷く。
「ですね。“衣は黒く”……これはレイス。“雷の言葉”はユピテルでしょう」
「正直、知ってる奴の特徴がそのまんまです」
ヴァラは瞠目し、思わず言葉をこぼす。
「では……ご先祖様は本当に“未来の者と出会っていた”というのですか……?」
プルトは再びページを戻しながら、やや思案の表情を浮かべる。
「正確には、“出会わされた”……ですね」
「ここから先は記述が断片的です。ですが─こんな一節があります」
神の御座より遣わされし者、夜に訪れ、緑の空と白き滅びを語る。
彼ら、時を越えし導き手、されど神に非ず、魔に非ず。
我、迷いぬ─信仰か、現実か。
されど祈る他なし。
この身、断罪の器となるとも。
我が祈りだけは未来へ届かんことを。
祈祷書を閉じながら、プルトはぽつりと呟く。
「……完全に、覚悟決めてますね。“自分は滅びを止められない”と悟ってた」
「けれど、それでも“未来に残る者”へと、祈りを託した」
マルスは目を伏せ、拳をゆっくりと握った。
「だから、“彼だけが生き延びた”……?」
その問いに、ヴァラは静かに首を振る。
「……いいえ。“残された”のです」
「彼が最後の司祭として、記憶の伝承者となるために」
彼らの前にあるのは、死にゆく世界で祈り続けたひとりの司祭の魂。
そしてその祈りは、今─未来に届いたのだ。
夜のヴァラ邸は、沈黙の帳に包まれていた。
書斎にはランプの灯が1つだけ。
机の上には、古びた革装丁の祈祷書。
紙の縁はところどころ黄ばんでおり、墨の跡は滲んでいる。
プルトの指が、その最終ページで止まっていた。
「……ダメです」
静かな声だった。
だが、確かに何かが砕けたような響きを帯びていた。
「筆跡が乱れすぎていて、全文は……読めません」
マルスはゆっくりと目を閉じ、静かに言葉を選ぶ。
「……そうか。なら、読める部分だけでいい」
「単語だけでも頼む」
プルトは頷き、祈るように指先で文字をなぞった。
乾いた紙の感触が、夜に溶けていく。
「……“時”……“架け橋”……そして、“明日”」
─部屋が、息を呑んだように静まり返った。
ヴァラの声が震える。
「“時を越えて未来へ託す”」
「そのつもりで……ご先祖様は、記録を残していた……?」
プルトは、ゆっくりと祈祷書を閉じ、まるで聖句を唱えるように言った。
「……この人は“神に祈った”んじゃない」
「誰かに祈ったんですよ、“明日を繋げ”って」
ヴァラは目を見開き、静かに記憶の奥を手繰り寄せた。
「……“時”、“架け橋”、“明日”」
「……あれは、一度だけ語ってくれた話です」
ヴァラの声が、まるで回想のように柔らかくなる。
「“ここに入れ”と言われたそうです」
「ご先祖様は、祈りながら“それ”に入った。気づいたら、違う場所にいたと」
マルスの眉が険しく寄せられた。
「……タイムマシンだと?」
「現代ですら、それは実現していないぞ……!」
その時──。
バンッ!
プルトが、明確な意志を込めて祈祷書を“音を立てて”閉じた。
その目は、闇の中で獣のように鋭かった。
「マナ・デストロイヤーは、現代兵器の範疇を超える存在です」
「それを作った文明ですよ」
「“時間”を越えるくらい、出来て当然です」
─しん、と凍り付くような沈黙。
やがて、ヴァラがそっと祈祷書に触れた。
その手つきは、まるで祖父の魂に触れるかのように、慎ましく。
「……では、ご先祖様は“選ばれた”のですね」
「未来に─誰かに託すために」
その瞬間、書斎のランプが少しだけ揺れた。
まるで、“祈り”が時空を渡って息を吹き返したかのように。
書斎には、まだ祈祷書のぬくもりが残っていた。
ランプの炎がゆらめき、夜の静寂に寄り添うように明滅している。
プルトは、祈祷書の縁を指でなぞりながらふと呟いた。
「……ヴァラさん。この逸話、旧約聖書に似ていますね」
その一言に、ヴァラが瞬時に応じる。
「……ソドムとゴモラ、ですか?」
マルスが深く嘆息した。
「あぁ始まった……。聞いてはやるか」
二人の宗教家が“真顔”になったとき、周囲は覚悟すべきだというのが彼の経験則だった。
プルトは祈祷書の余白に描かれた古い挿絵を見つめながら、言葉を続けた。
「腐敗した都は、神の火によって焼かれた」
「正しき者だけが、“導き手”に連れられて脱出した」
「─その名は“ロト”」
ヴァラは頷きながら、目を伏せた。
「一致しています。ご先祖様を“ロト”と解釈すれば─すべての辻褄が合う」
プルトは最後のページをそっと開き、にじんだ絵の一枚に指を置いた。
「……誰かが、導いたのでしょうね。彼を」
そこには、筆致の乱れた淡いインクで、“6人の影”が描かれていた。
ひとりの男─司祭インマールの腕を、確かに6つの手が掴んでいる。
影の姿は判然としないが、ひとりはフードを被り、ひとりは背が高く、ひとりは細身。
だが、どこかで見たような、そんな気配を纏っていた。
「……六人の天使」
プルトの声は、どこか遠くを見ていた。
その言葉が意味するものを、三人とも理解していた。
─この旅は偶然ではない。
─この記録は偶然ではない。
この“祈り”が未来に届いたのは、偶然なんかじゃない。
マルスは静かに立ち上がり、言った。
「……十分だ」
「未来の責任は、今の我々が持つ」
ランプの灯が、音もなく揺れた。
風のない夜に、それは“誰か”の返事のようにも思えた。
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