嫉妬帝国エンヴィニア

兜坂嵐

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翠の亡霊

亡霊の舞台に向けて

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 本当に存在した“アルヴ座劇場”。
 そこには、かつて“王子と反逆者が肩を並べた”という幻の演目が眠る。
 クソ沼の外縁を抜けた先、ひときわ静かな空間があった。

 泥も靄も途切れ、風もなく。
 空気だけが妙に澄んでいた。
 レイスはそこに立ち、肩で息をしていた。
 逃げたのだ。ビブラートから。
 あれは音ではなかった、災害だ。
 だが今、この場所は不思議と……静かだった。

 何かを削る音がした。
 ふと目を向けると、そこには背中に斬り跡を持つ老婆が座り。
 静かにキャンバスへ筆を走らせていた。
「……あら?」
 老婆は筆を止め、ゆっくりとレイスに振り返った。
「王族ではないようですね……絵、ご覧になりますか?」
 レイスは近づき、無言で絵を見た。
 それは―そばかすが目立つ、丸顔の女性。
 ふくよかな頬。優しげな微笑み。
 そこには気高い威厳よりも、
 誰かの母であるような、静かな人間らしさがあった。
 レイスが眉をひそめる。

「これは……誰の絵だい?」
 老婆は微笑んで答えた。
「第57代王妃・アナスティナ様です」
 レイスは固まった。
 謁見の間に飾られていた肖像画と、似ても似つかない。
 あれは、切れ長の目と整った鼻筋を誇る、“完璧な美”だった。
 でも―これは。

「……もしかして、整形前描いてんの?」
「そりゃ、殺されちまうよ、ばーちゃん」
 老婆―ミセス・メメントは、静かに笑った。
 その背には、斬られた痕が今も赤黒く残っている。
「えぇ。覚悟はしておりました」
「わたくしは……エンヴィニアを“覚えている者”ですのよ」
 彼女の筆は止まらない。
 歪められた歴史に、捏造された美に、塗り替えられた顔に。
 ただ、“真実を残す”ためだけに、描き続ける。
 レイスはしばらく何も言えなかった。
 ただ、絵を見ていた。
 その奥に誰かの、失われた“名前”があるような気がした。

「レイス!大丈夫か!?」
 泥道を駆け抜けてきたユピテルたちが、肩で息をつくレイスに追いついた。
「ああ……うるさかった……うるさすぎた……」
 レイスは膝に手をついて座り込みながら返す。
 まだ脳裏にビブラートの残響がこだましているようだった。
「ご苦労様っした!!」
 ウラヌスが息を切らしながら肩ポンポン。
「でも私もちょっと限界だった!アレ耳の奥がビリビリしてっからね!?」
 そこに、ぬるりと泥の中からドロクイが現れた。
 まるで何事もなかったかのように、ぴょこんと跳ねて言った。

「おつかれさんだなぁ、お前ら」
「で、あれだ……そろそろ教えとくか―アルヴ座の場所をな」
 四人が静かに目を向ける。
 ドロクイは片手を挙げ、向こうの靄の向こうを指差した。
「この道をまっすぐ行って……“泥に沈まなかった橋”を渡った先」
「そこに、今もあるぜ。この国いちの反逆者どもの巣が」
「……へぇ、最奥ってわけか」
 ユピテルが肩を鳴らし、舞雷を軽く叩いた。
 サタヌスが腕を組んでうなずく。

「なんか……一番気になるとこ、残してたんだな」
 ウラヌスはふと首を傾げて尋ねた。
「ていうかさ、ドロクイって……ずっと“いた”じゃん?」
「何者なん? なんでここでずっとガイドしてくれてんの?」
 ドロクイは、ぴたりと動きを止めた。
「実はおいらも幽霊でなァ。だからここに……生きてるヤツは、いねぇんだわ」
 沈黙が落ちる。
 ウラヌスの目がぱちぱちと瞬く。

「ひえぇッ!?ガイド役が幽霊って……怪談のド定番~~!!」
「ってことは今までの案内って……地縛式ルート!?」
 ドロクイはにやりと笑い、祟らねぇよというように喉を鳴らした。
「安心しな。お前らみたいな“異物”は、きっと突破できる」
「おいらには、あの劇場の向こうには……行けなかったけどな」
 レイスが、ふっと目を伏せる。
「で……あの劇場には、何がいる?」
 ドロクイは静かに答えた。
「“亡霊”がいるぜ。とびきり愉快な、亡霊どもがな」
「愉快って言った!?愉快って言っちゃったよこのカエルッッ!!」
「地獄の喜劇ってか?マジで洒落になんねぇんだけど」
 ドロクイは、ゆっくりと後ろへ跳ねる。
 靄の中、彼の姿が徐々に薄れていく。
「じゃーなー」
 彼が泥の中に飛び込んだ音だけを残して、姿は完全に消えた。
 ほんの少し、寂しさが残った。
 でも今はそれを抱えて、前に進むときだった。
 地獄の舞台に、灯がともる。

 靄を抜け、再びメメントのアトリエを通りかかる。
 壁に並べられた絵画群。
 それは亡き王族たちの“もうひとつの顔”だった。
 そばかすの残る王妃、頬骨の高い宰相、薄毛を隠さない将軍。
 すべて、謁見の間に飾られていた“完璧な肖像画”とは似ても似つかない。
 整えられる前の“ありのまま”の顔が、そこにあった。
 ウラヌスがふと足を止めた。
「……あっ、これチョコミント姫の絵だよ!」
 ひときわ大きな額縁の中、静かにこちらを見つめる翠の姫君。
 サロメ・エンヴィニア。
 その顔は、謁見の間で見た彼女そのままだった。
 一分の違いもなく、あのままの、美。

 サタヌスがつぶやく。
「マジだ……サロメだけ、城で見た肖像画と同じだ……」
 メメントが、静かに頷いた。
 筆を持つ手も止めたまま、その声にはどこか祈るような尊敬が宿っていた。
「……えぇ、サロメ様は唯一。整形されておられないのです」
「ありのままで美しい御方。」
「わたくしには、眩しすぎて……未だ一枚しか、描けておりませんのよ」
 レイスは沈黙したまま、その絵を見つめていた。
 それは肖像画であるはずなのに、呼吸をしているような気がした。
 目を合わせると、内面まで透かされそうで。
 でも、目を逸らせなかった。
 ユピテルがぽつりと呟いた。

「……マジだったンだな。“サロメ姫は整形していない”って噂―ただの神話かと思ってたぜ」
 ウラヌスが目を細めて笑う。
「うーん、あれは……“悪役令嬢”の顔じゃなくて、“覚悟して生きてる人”の顔だよ」
 風が、アトリエの隙間から吹き抜ける。
 どこか、時間が止まったような静けさ。

 そして、再び歩き出す。
 向かうはアルヴ座。
 “本物の舞台”が、待っている。
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