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第1話
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――そのときが来たら、おまえを骨まできれいにしゃぶってやるからなあ。
獲物を狙い定めた鋭い眼光。
不気味につり上がるくちびる。
乱れる息。欲望に震えるあの声。
嚙みつかれる寸前、頭の中でブチッとなにかが切れたような音がした。身体がビクッと震えた次の瞬間、綾瀬理人はまぶたを押し上げた。
手足は痺れ、息が荒い。脂汗でパジャマが肌に張りついた不快感と息苦しさで、あの夏を思い出してしまった。胸は不規則な音を鳴らせている。
時間は問題を解決してくれるとよく言うのだが、今でも自分はあの日から、ずっと同じ場所にへたり込んだままだ。
暗闇の中で、天井を見据える。眼を閉じると、夢の続きを見てしまいそうだ。
ひと息つく。湿った熱がくちびるから抜けた。
新しい空気を吸い込むと、胸の奥が軋んだ。
ただそれだけ、静かに繰り返す。
ほどなくして、胸の鼓動が平静を取り戻した。
手探りでスマホを探し、時間を確かめる。
午前五時十九分。
鼓動音が落ち着き始めたものの、悪夢の余韻はまだ残っている。到底二度寝できそうにない。もうすぐアラームが鳴る時間だ。いっそのこと、このまま起き上がった。
やや熱めのシャワーで汗を流してから、制服に着替える。白いシャツのボタンをとめながら、綾瀬は鏡に視線をやった。
黒髪、黒い瞳、寝不足のせいで顔色は悪いが、却って儚げな雰囲気を醸し出している。男にしては線が細く、中性的な外見は女優だった母、綾瀬理香子の譲りだ。
母を思い出すと、胸がぎゅっと縮まった。
母のことが大好きだった。
幼い頃、「理香子さんに似てるね」と言われると、いつも誇らしい気持ちでいっぱいだった。
それなのに今は、この見た目が足枷になって綾瀬を縛りつけている。忘れてしまいたい過去があるのに、自分の顔を見るとどうしても思い出してしまう。
さらに視線を落とす。
鎖骨の傷跡が視界に入った。普段はなるべく意識しないようにしているが、夢見が悪かったせいか、傷跡周りがヒリヒリと存在を主張している。
過去に囚われてしまいそうになり、慌てて冷水で顔を洗った。
「大丈夫、大丈夫……俺はあいつらと違う」
鏡に映る、まだ水滴がついている自分の顔。ゆっくりと、時間をかけて深呼吸を繰り返す。最後にもう一度自分に言い聞かせる。
「……大丈夫だ」
着替えを済ませると、ワンルームの部屋に戻った。晩春の朝陽がカーテンのわずかな隙間から射し込んでくる。薄暗く、物音ひとつしない部屋。
耳の奥に、あの声がまだこだましている。
堪えられず、テレビをつけた。この時間帯にいったい誰が見るんだと不思議に思うアニメが映った。重苦しい空気が漂う部屋には似つかわしくないヒロインの明るい声が、耳の奥にへばりついた声を掻き消してくれる。
最悪な目覚めで気分が沈んだまま。それでも生活は続く。時間は待ってくれない。
廊下キッチンで簡単な朝食を用意する。市販の野菜ジュースに、スーパーのタイムセールで買った塩パン。
片手にパンを持ったまま、綾瀬はベッドの縁に腰をかけて事務的に食べる。この家に食卓は不要なもの。彩り豊かな食事もいらない。足りない栄養は、病院から処方されたサプリメントで補えばいい。
生きるためだけの、最低限の食事。
本来ならこれで充分なはずだ。しかしいつからか、人間にとって、食事は本来の目的を超えた。調理ではなく料理する。美しく盛りつけて視覚で楽しむ。嗅覚や味覚を満たすため、香りにも味にもこだわる。命をつなぐためだけの行為が、いつしか五感を、心を満たすためのものとなった。
ときどき、食欲が湧かない、食べる喜びを感じない自分は異常者なんじゃないかと思う。
(……あながち異常者で間違ってない)
心は、さらに重くなって沈んでいく。
ぼんやりとテレビ画面を見ながら、淡々とパンを齧る。
咀嚼し、嚥下する。繰り返していくうちに、味もわからないまま、最後のひと欠片も喉を通った。食事の最後は、いくつかの錠剤を飲み込んでから、早めに家を出た。
「綾瀬、顔色悪いけど大丈夫?」
寝起きが悪かったせいだろうか、授業に集中できなかった。眼頭に力を込めても、気づけば黒板の文字がぼやけていく。
何度もそう繰り返していくうちに、まぶたを下ろしていた。
鼓膜を叩く小休憩のチャイム音で、耳が思い出したように機能する。男子の太い声、女子の笑い声、飛び交うさまざまな声音の中、自分に向ける言葉を拾った。顔を上げると、のぞき込んできた中島と視線が合った。
「もしかして具合悪い?」
「大丈夫……じゃないかも」
ズキズキするこめかみを押さえる。自分の声が思ったより弱々しかった。悪夢のダメージが予想外に大きいうえ、なんだか嫌な感じがする。胸の中に渦巻く憂鬱をため息にのせ、吐き出す。
「保健室に行ったほうがいいよ。俺、先生に言っとく」
「助かる」
中島に短い礼を伝えると、綾瀬は教室をあとにした。
高校に入ったばかりの頃は、誰とも関わらず、静かに三年間をやり過ごそうと思っていた。
たまたま席が近いだけで、素気ない態度を見せてもやたらと声をかけてくる中島のことを、どうして俺なんかに、と多少警戒していたし、放っておいてよと鬱陶しく思っていた時期もあった。
けれど回数が重なると、少しずつ言葉を交わすようになった。
友達と呼ぶほど絡みが少ないが、何度も助けられている。今となっては、めげずに絡んでくれる中島に感謝の気持ちが溢れる。
二階に位置する保健室の扉に、外出中の札が下がっている。先生が校内を回っているこの時間は、使用者がほとんどいない。それでも綾瀬は、すみません、と声をかけてみた。返ってきたのは、鼻にツンとくる消毒のにおいだけ。
慣れた手つきで利用カードを記入する。それを先生のデスクに置いてから、奥へと向かった。
窓を開け、ベッドに横たわる。ほどいい硬さのマットレス。窓から吹き込んだ風で揺れる白いカーテン。校庭から響いてくる誰かの掛け声。
(ここは、大丈夫……)
身体から力が抜け、次第に頭までぼーっとしてきた。広いプールにゆらゆらと、ひとりだけ浮かんでいるような心地がする。
夢うつつの中で、ぎゅっ、ぎゅっとサンダルの足音が聞こえた。先生が戻ってきたかも、と思ったあとに意識が沈んでは浮き上がる。
しばらくすると、扉の閉まる音が響いた。先生またどっかに行ったかな、とまどろみながら思ったあと、ゆらゆらと揺蕩う意識の上から重い石が落ちてきた。抗うこともできないまま、意識が奥底へと沈んでいった。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
パタン――
平穏な海に雷が落ちたような大きな音に、綾瀬は弾かれたように起き上がった。胸がざわざわと波立つ。
――なんだろう?
寝落ちる前と変わらない穏やかな静けさだけど、どこか違う。
深く息を吸い、吐き出す。
「せんせー、あれ? いないですか」
カーテンの向こうから、訪れてきた少年の声が聞こえた。
綾瀬は息を潜め、彼の気配を感じる。
「えっと、バンソーコー、バンソーコー……どこだ」
目当てのものは見つからないようだ。ガチャッ、ガチャッと物音が響く。
覚えた違和感を、綾瀬はうまく言葉にできない。自分の聖域が土足で踏み込まれたような不快感も同時に湧き上がった。居心地が悪い。早くここから離れたい。けれど入り口の近くに、彼がいる。
(絆創膏の場所を教えたら、すぐに出よう)
そう決めると、ベッドから降りた。もう一度息を吸ってから、カーテンを引いた。
「絆創膏なら、二段目の救急箱にある」
突然現れた綾瀬に、少年は顔をきょとんとさせた。茶髪がやや乱れていて、大きな眼が印象的。美形ではないが、すっきりした顔がいい。ジャージのラインの色で、学年が一個下だとわかった。さっきまで体育だっただろう。そういえば眠りにつく前に、掛け声のようなものが聞こえた気がする。
「すみません。誰かがいるって思わなくて。うるさかったですよね」
彼は慌てて頭を下げて謝る。
「……次は気をつけて」
彼の右腕は曲げたまま、不自然に宙に浮かせていることに気づいた。半袖の裾からのぞいた肘に赤く擦れた傷……――それが視界の端に入ったとたん、綾瀬は反射的に顔を逸らした。ワックスで輝き、汚れひとつない床を見つめる。胸騒ぎがおさまりそうにない。
「はい。ありがとうございます」
視界の隅で、少年が再び棚のほうに向き直ったのが見えた。今のうちに出ていけばいいのに、どうしてか足が動かない。
チラリと見る。救急箱から絆創膏を探し出した彼は、利き手の肘の擦り傷に貼りつけようと苦戦している。
ようやく、一歩前に踏み出した。このまま保健室を出ればいい。
けれど心のどこかに、彼を放っておけない自分がいる。
「……貼ろうか」
気づけば、そんなことを言い出した。
「え、いいですか」
彼の視線が自分に向いたのがわかる。綾瀬は小さく頷いた。彼のもとに行く前に、またひとつ深呼吸する。
(ただの擦り傷だ。大丈夫、大丈夫……)
少年に近づく。鼻から抜けた息が、いつもとどこか違う気がした。
空気に、保健室に似つかわしくない甘さが滲む。
――なんか、変だ。
「ありがとうございます」
少年は綾瀬に、怪我した腕を差し出す。健康的な肌についた血が極彩色に見え、眼がチカチカする。
「まずは消毒しないと」
ガーゼに消毒液を染み込ませたあと、また視線を傷口のほうに戻した。血はそう多くない。滲み出る程度の量だ。傷口の上から、湿ったガーゼを滑らせる。血が一瞬取れたけど、すぐに新しい赤い粒が浮き上がった。
同時に、空気に滲む甘さが増した。甘くて、なんか……
新しい絆創膏を取り出す。フィルムを剥がしながら、綾瀬は今の感覚に適する言葉を探す。なんか、なんか……だんだろう。
パットを傷口にあて、貼りつけるそのとき。
――美味しそう。
とたん、心が轟く。
喉が異様に渇いた。
絆創膏を持つ指が震え出す。
ひと筋の汗が、背骨を沿ってつうと滑り落ちた。
――甘そう……美味しそう……
自然と頭の中に浮かんだ言葉に自覚したとたん、お腹がぐーと鳴った。忘れたはずの食欲が、急速に湧き上がった。
空腹が、綾瀬の眼光を鋭くさせた。獲物を追う極限に飢えた肉食獣のように、赤い粒に視線が吸着する。
「どうしたんですか」
「……美味しそう」
「えっ、ちょっ」
うわごとのようにつぶやいたあと、見えない糸に操られたまま手を伸ばし、それに触れる。指腹についた血を舐める。
――甘い。
鳥肌が立つほど極上の味だった。
とたん、頭の中がわんわん鳴き始めた。
もっと欲しい。
もっと食べたい。
ぜんぜん足りない。
脳裏に響く雑音がはっきりと言葉になった次の瞬間、新たな衝動が生まれた。
滲み出た血が新しい赤い玉を作った。それをじっと見つめ、ごくりと喉仏を上下させた。
「っ、ちょっと!」
逃げようとする獲物を反射で摑むと、顔を近づけ、血を舐めとる。それから、傷口周りの皮膚にも舌を這わせる。
運動したあとの身体は、うっすら汗ばんでいる。血のまろやかな味とは違う、さわやかでさっぱりとした甘さだ。
美味しい。
美味しくて、血や汗だけじゃ足りない。
この肉ならどんな味がするのだろう。
きっと体液よりも濃厚な甘い味だ。
想像するだけで、頭が沸騰する。
食べたい。食べたい食べたい食べたい……――お腹が空いた。
ずっと前から忘れていた、原始的な本能。お腹を満たす一心で、綾瀬は口を開いた。
無防備な傷口に歯を立て、力を込める。濃厚な味がジュワッと口内に広がった。このまま嚙み切って、食べてしまえば……
「痛っ」
ただの雑音でしかなかった言葉の意味が、ふいに理解できた。正気を取り戻したとたん、ハッと彼の腕を放す。見上げると、痛みで顔を歪めた彼と眼が合った。
「あの、もしかして」
ビクリと肩が跳ねた。飛び出る勢いで激しく打つ胸の鼓動音が、彼の声を遮る。
(今、俺なにを……)
視線を彼の顔から傷口に移す。そこは綾瀬の唾液でベタベタしていて、嚙み跡から新しい血が滲み出た。
綾瀬の顔から血の気を失った。
おぞましい記憶がまた脳裏をよぎった。耳の奥に、あのとき偶然に居合わせた人たちの悲鳴がこだまする。鎖骨の傷が炙られたようで火照り出した。
「あの、大丈夫ですか」
(逃げなきゃ)
誰かに怪我をさせる前に……
誰かに正体を暴かれる前に……
次の瞬間、綾瀬は自分の中にあるケダモノを誘き寄せる芳しいにおいから逃げるため走り出した。
口の中から彼の味が消えない。その甘美を思い出すと、胃の腑からなにかがせり上げてくる。口を押さえたまま、トイレに転がり込むと、すぐに便器を抱え込んだ。
「オェッ、うっ……ふ」
声ほど出るものが少ない。開いた口からは、糸を引くような唾液がこぼれ出た。
「うっ、オッ」
濁った水をぼんやりと見る。
「だいじょ……ばない」
口だけでも自分を鼓舞したいのに、今はそれすらできない。
視界が滲み出す。気づけば涙が眦から伝い落ちた。
ずっと恐れていることが、とうとう起こってしまった。口腔に残っている甘美が、綾瀬を異常者だとなじっている。
便器の前にへたり込んだまま、放心する。
しばらくそうしていると、背後の戸を控えめにノックする音が響いた。
「……はい」
「その声は綾瀬くん? 保健室で休んでるんじゃなかったの? 大丈夫かい?」
向こうから、保険室の先生のやさしい声音がした。
綾瀬はゆっくりと立ち上がった。トイレを流してから、戸を開ける。入学してからずっとお世話になっている先生の顔を見ると、ほんの少しだけ安心した。
「顔色がひどいわ。もう少し休む? いや、これは早退したほうがいいかもしれないね」
「……はい」
「保護者さんに迎えに来てもらおうか」
「大丈夫です。タクシーで帰ります」
「じゃあ私がかばんを取りに行きましょう」
「すみません。お願いします」
先生に教室まで学生鞄を回収してもらったあと、迎車で来たタクシーに乗り込んで帰宅した。
ワンルームに戻ると、綾瀬はすぐ水道水で口を洗い流す。
何度濯いでも、彼の血が、汗が、粘膜にこびりついたまま。後味が消えない。
いっそのこと、洗面所に駆け込んで歯を磨く。無意識に擦る力を強め、歯茎に血が滲んだ。
舌の上も磨いた。勢いで奥まで歯ブラシを突っ込み、何度もえずきながら擦る。
気が済んでから、綾瀬はベッドに横たわって脱力する。真っ暗なテレビ画面に、強張った顔が映った。
胸の鼓動音以外、物音がしない。バクバクと鼓膜を叩きつける音が、保健室での出来事を思い出させる。眼を閉じると、彼の血の色が、まぶたにちらつく。
不気味すら感じるほどこの静けさが怖い。いつものようにテレビをつけた。
明るくなった画面に、お昼のワイドショーが流れる。お笑い芸人がなにかを言い、スタジオに爆笑が起きた。芸能人が出る番組は苦手だけど、動画配信に切り替えるボタンを押す気力すらない。まあいいか、と、ベッドから垂れ落ちた手からリモコンが滑り落ちた。
顔を枕に埋め、テレビの音にだけ集中する。たびたび響いてくる笑い声で、部屋に流れる空気はそれで明るくなるかもしれない。けれど心は重いまま。そのうち、余計なことを考えなくなるだろうか。
ふいに、笑い声やしゃべり声が止んだ。
「お昼のニュースです」
キャスターの落ち着いた声が聞こえる。
「『フォーク』による捕食事件が起きました」
一番聞きたくないワードに、胸が嫌な感じに跳ねた。とっさに顔を上げ、茫然とテレビを見る。キャスターの顔から、事件現場だと思われる住宅街に切り替わった。
「事件があったのは神奈川県、本日午前六時頃。朝の住宅街に捕食事件が起きました。調べによると、容疑者の男性と被害者の女性はパートナーです。女性は命の危険がありません。今、警察が動機と事件の経緯を調べています」
そのあとにほかのニュースが流れたが、なにひとつ聞こえなかった。胸が、痛いほど鼓動を打っている。
ニュースコーナーからワイドショーに戻った。止まらない物価高や社会問題について、コメンテーターが自由に発言している。和気藹々だった雰囲気が霧散し、緊迫した空気がスタジオを包む。
そのうちテーマが捕食事件になった。アナウンサーの紹介で、専門家が登場する。
「捕食衝動の説明の前に、まずは『フォーク』と『ケーキ』というふたつの特性について、簡単に説明しましょう。『フォーク』とは、突然変異で味覚を失った人のことです。味覚障害となにか違うかというと、彼らの味蕾は『ケーキ』と呼ばれる人にだけ感知する」
テレビのスピーカーから流れてくる、専門家の低いけれど聞きやすい声。
「どうして『フォーク』に捕食衝動が起きるかというと、みなさんにぜひ一度想像してみてください。味覚をなくし、けどお腹は空く。なにを食べても満たされないその気持ちを。『フォーク』は日々その感覚に苛まれています。『ケーキ』の味を知ってしまうと、その味に執着して、本能的に食べたくなります。もちろん、出会い頭に捕食することは非常に稀なことです」
画面が深刻な表情を浮かべるコメンテーター陣に切り替わった。
「研究に研究を重ね、今は『フォーク』向けのサプリメントだけじゃなく、捕食衝動を抑える薬もできまして……」
「しかし先生よ」
専門家の話を遮った男性タレントの表情は険しい。
「薬があるのに捕食事件がなくならないってことは、効かないってことじゃない?」
この人を覚えてる、と、綾瀬は無意識に枕を抱き締めた。母の共演相手のひとりだ。強面だけど、撮影現場で顔を合わせるとよく遊んでくれていた。
「この世に完璧な薬はありません。ただ、薬の服用が義務化になってから、事件の数が年々減っているのも事実です」
「でも結局、本能は完全に抑えられないもんじゃないか」
そのひと言が皮切りとなり、ほかのコメンテーターも発言し始めた。
「怖いよね……もっとなんかできないかな」
「フォークと付き合うなんて考えられないよ」
「自分の本能をコントロールできないって、なんつーか、ケダモノだね」
有益な意見ではなく、世間を代弁するようなお気持ち。
不安と拒絶。
批判と嘲笑。
このご時世と思えない、ギリギリを攻めた過激な発言が飛び交う中、専門家は硬い笑顔で解説を続ける。
「みなさんも知っていると思いますが、『フォーク』は後天性なので、誰だって変異する可能性があります。その原因はまだ解明中ですが。アメリカのバース研究者は、重度のストレスが引き金となっているのではないかと指摘しています」
「誰だってとか言うけど、フォークはやっぱ元から精神的に病んでる人が多いって聞いたことがあるぞ。ほら、結構前に起きた捕食事件、女優の――」
無責任な言葉が言い切られる前に、リモコンで電源を落とした。
最悪だ。ただ嫌なことを忘れたくてテレビをつけただけなのに、さらに気分が悪くなった。
綾瀬はわなないている身体をなんとか起こし、足がもつれながらキッチンへと向かう。
次の服用時間はまだ先だけど、もう無理。堪えられない。過ちを犯しかけた自分のことを、信じられない。
引き出しから薬袋を取り出す。指が震えていて、うまく薬をシートから押し出せない。なんとか出したそれを、すぐ体内に流し込んだ。
身体の震えが止まらない。
胸がバクバクしている。
涙で濡れた眼が、流し台に置いた薬袋を見つめる。
ぐちゃぐちゃになっているそこの文字を認めると、呻き声が漏れるほど胸が痛くなった。
「……俺は、あいつらみたいに……捕食なんて、しない……ぜったいしない……」
フォーク専用抑制剤という文字が、矢になって綾瀬の胸を突き刺した。
獲物を狙い定めた鋭い眼光。
不気味につり上がるくちびる。
乱れる息。欲望に震えるあの声。
嚙みつかれる寸前、頭の中でブチッとなにかが切れたような音がした。身体がビクッと震えた次の瞬間、綾瀬理人はまぶたを押し上げた。
手足は痺れ、息が荒い。脂汗でパジャマが肌に張りついた不快感と息苦しさで、あの夏を思い出してしまった。胸は不規則な音を鳴らせている。
時間は問題を解決してくれるとよく言うのだが、今でも自分はあの日から、ずっと同じ場所にへたり込んだままだ。
暗闇の中で、天井を見据える。眼を閉じると、夢の続きを見てしまいそうだ。
ひと息つく。湿った熱がくちびるから抜けた。
新しい空気を吸い込むと、胸の奥が軋んだ。
ただそれだけ、静かに繰り返す。
ほどなくして、胸の鼓動が平静を取り戻した。
手探りでスマホを探し、時間を確かめる。
午前五時十九分。
鼓動音が落ち着き始めたものの、悪夢の余韻はまだ残っている。到底二度寝できそうにない。もうすぐアラームが鳴る時間だ。いっそのこと、このまま起き上がった。
やや熱めのシャワーで汗を流してから、制服に着替える。白いシャツのボタンをとめながら、綾瀬は鏡に視線をやった。
黒髪、黒い瞳、寝不足のせいで顔色は悪いが、却って儚げな雰囲気を醸し出している。男にしては線が細く、中性的な外見は女優だった母、綾瀬理香子の譲りだ。
母を思い出すと、胸がぎゅっと縮まった。
母のことが大好きだった。
幼い頃、「理香子さんに似てるね」と言われると、いつも誇らしい気持ちでいっぱいだった。
それなのに今は、この見た目が足枷になって綾瀬を縛りつけている。忘れてしまいたい過去があるのに、自分の顔を見るとどうしても思い出してしまう。
さらに視線を落とす。
鎖骨の傷跡が視界に入った。普段はなるべく意識しないようにしているが、夢見が悪かったせいか、傷跡周りがヒリヒリと存在を主張している。
過去に囚われてしまいそうになり、慌てて冷水で顔を洗った。
「大丈夫、大丈夫……俺はあいつらと違う」
鏡に映る、まだ水滴がついている自分の顔。ゆっくりと、時間をかけて深呼吸を繰り返す。最後にもう一度自分に言い聞かせる。
「……大丈夫だ」
着替えを済ませると、ワンルームの部屋に戻った。晩春の朝陽がカーテンのわずかな隙間から射し込んでくる。薄暗く、物音ひとつしない部屋。
耳の奥に、あの声がまだこだましている。
堪えられず、テレビをつけた。この時間帯にいったい誰が見るんだと不思議に思うアニメが映った。重苦しい空気が漂う部屋には似つかわしくないヒロインの明るい声が、耳の奥にへばりついた声を掻き消してくれる。
最悪な目覚めで気分が沈んだまま。それでも生活は続く。時間は待ってくれない。
廊下キッチンで簡単な朝食を用意する。市販の野菜ジュースに、スーパーのタイムセールで買った塩パン。
片手にパンを持ったまま、綾瀬はベッドの縁に腰をかけて事務的に食べる。この家に食卓は不要なもの。彩り豊かな食事もいらない。足りない栄養は、病院から処方されたサプリメントで補えばいい。
生きるためだけの、最低限の食事。
本来ならこれで充分なはずだ。しかしいつからか、人間にとって、食事は本来の目的を超えた。調理ではなく料理する。美しく盛りつけて視覚で楽しむ。嗅覚や味覚を満たすため、香りにも味にもこだわる。命をつなぐためだけの行為が、いつしか五感を、心を満たすためのものとなった。
ときどき、食欲が湧かない、食べる喜びを感じない自分は異常者なんじゃないかと思う。
(……あながち異常者で間違ってない)
心は、さらに重くなって沈んでいく。
ぼんやりとテレビ画面を見ながら、淡々とパンを齧る。
咀嚼し、嚥下する。繰り返していくうちに、味もわからないまま、最後のひと欠片も喉を通った。食事の最後は、いくつかの錠剤を飲み込んでから、早めに家を出た。
「綾瀬、顔色悪いけど大丈夫?」
寝起きが悪かったせいだろうか、授業に集中できなかった。眼頭に力を込めても、気づけば黒板の文字がぼやけていく。
何度もそう繰り返していくうちに、まぶたを下ろしていた。
鼓膜を叩く小休憩のチャイム音で、耳が思い出したように機能する。男子の太い声、女子の笑い声、飛び交うさまざまな声音の中、自分に向ける言葉を拾った。顔を上げると、のぞき込んできた中島と視線が合った。
「もしかして具合悪い?」
「大丈夫……じゃないかも」
ズキズキするこめかみを押さえる。自分の声が思ったより弱々しかった。悪夢のダメージが予想外に大きいうえ、なんだか嫌な感じがする。胸の中に渦巻く憂鬱をため息にのせ、吐き出す。
「保健室に行ったほうがいいよ。俺、先生に言っとく」
「助かる」
中島に短い礼を伝えると、綾瀬は教室をあとにした。
高校に入ったばかりの頃は、誰とも関わらず、静かに三年間をやり過ごそうと思っていた。
たまたま席が近いだけで、素気ない態度を見せてもやたらと声をかけてくる中島のことを、どうして俺なんかに、と多少警戒していたし、放っておいてよと鬱陶しく思っていた時期もあった。
けれど回数が重なると、少しずつ言葉を交わすようになった。
友達と呼ぶほど絡みが少ないが、何度も助けられている。今となっては、めげずに絡んでくれる中島に感謝の気持ちが溢れる。
二階に位置する保健室の扉に、外出中の札が下がっている。先生が校内を回っているこの時間は、使用者がほとんどいない。それでも綾瀬は、すみません、と声をかけてみた。返ってきたのは、鼻にツンとくる消毒のにおいだけ。
慣れた手つきで利用カードを記入する。それを先生のデスクに置いてから、奥へと向かった。
窓を開け、ベッドに横たわる。ほどいい硬さのマットレス。窓から吹き込んだ風で揺れる白いカーテン。校庭から響いてくる誰かの掛け声。
(ここは、大丈夫……)
身体から力が抜け、次第に頭までぼーっとしてきた。広いプールにゆらゆらと、ひとりだけ浮かんでいるような心地がする。
夢うつつの中で、ぎゅっ、ぎゅっとサンダルの足音が聞こえた。先生が戻ってきたかも、と思ったあとに意識が沈んでは浮き上がる。
しばらくすると、扉の閉まる音が響いた。先生またどっかに行ったかな、とまどろみながら思ったあと、ゆらゆらと揺蕩う意識の上から重い石が落ちてきた。抗うこともできないまま、意識が奥底へと沈んでいった。
それから、どのくらい時間が経っただろう。
パタン――
平穏な海に雷が落ちたような大きな音に、綾瀬は弾かれたように起き上がった。胸がざわざわと波立つ。
――なんだろう?
寝落ちる前と変わらない穏やかな静けさだけど、どこか違う。
深く息を吸い、吐き出す。
「せんせー、あれ? いないですか」
カーテンの向こうから、訪れてきた少年の声が聞こえた。
綾瀬は息を潜め、彼の気配を感じる。
「えっと、バンソーコー、バンソーコー……どこだ」
目当てのものは見つからないようだ。ガチャッ、ガチャッと物音が響く。
覚えた違和感を、綾瀬はうまく言葉にできない。自分の聖域が土足で踏み込まれたような不快感も同時に湧き上がった。居心地が悪い。早くここから離れたい。けれど入り口の近くに、彼がいる。
(絆創膏の場所を教えたら、すぐに出よう)
そう決めると、ベッドから降りた。もう一度息を吸ってから、カーテンを引いた。
「絆創膏なら、二段目の救急箱にある」
突然現れた綾瀬に、少年は顔をきょとんとさせた。茶髪がやや乱れていて、大きな眼が印象的。美形ではないが、すっきりした顔がいい。ジャージのラインの色で、学年が一個下だとわかった。さっきまで体育だっただろう。そういえば眠りにつく前に、掛け声のようなものが聞こえた気がする。
「すみません。誰かがいるって思わなくて。うるさかったですよね」
彼は慌てて頭を下げて謝る。
「……次は気をつけて」
彼の右腕は曲げたまま、不自然に宙に浮かせていることに気づいた。半袖の裾からのぞいた肘に赤く擦れた傷……――それが視界の端に入ったとたん、綾瀬は反射的に顔を逸らした。ワックスで輝き、汚れひとつない床を見つめる。胸騒ぎがおさまりそうにない。
「はい。ありがとうございます」
視界の隅で、少年が再び棚のほうに向き直ったのが見えた。今のうちに出ていけばいいのに、どうしてか足が動かない。
チラリと見る。救急箱から絆創膏を探し出した彼は、利き手の肘の擦り傷に貼りつけようと苦戦している。
ようやく、一歩前に踏み出した。このまま保健室を出ればいい。
けれど心のどこかに、彼を放っておけない自分がいる。
「……貼ろうか」
気づけば、そんなことを言い出した。
「え、いいですか」
彼の視線が自分に向いたのがわかる。綾瀬は小さく頷いた。彼のもとに行く前に、またひとつ深呼吸する。
(ただの擦り傷だ。大丈夫、大丈夫……)
少年に近づく。鼻から抜けた息が、いつもとどこか違う気がした。
空気に、保健室に似つかわしくない甘さが滲む。
――なんか、変だ。
「ありがとうございます」
少年は綾瀬に、怪我した腕を差し出す。健康的な肌についた血が極彩色に見え、眼がチカチカする。
「まずは消毒しないと」
ガーゼに消毒液を染み込ませたあと、また視線を傷口のほうに戻した。血はそう多くない。滲み出る程度の量だ。傷口の上から、湿ったガーゼを滑らせる。血が一瞬取れたけど、すぐに新しい赤い粒が浮き上がった。
同時に、空気に滲む甘さが増した。甘くて、なんか……
新しい絆創膏を取り出す。フィルムを剥がしながら、綾瀬は今の感覚に適する言葉を探す。なんか、なんか……だんだろう。
パットを傷口にあて、貼りつけるそのとき。
――美味しそう。
とたん、心が轟く。
喉が異様に渇いた。
絆創膏を持つ指が震え出す。
ひと筋の汗が、背骨を沿ってつうと滑り落ちた。
――甘そう……美味しそう……
自然と頭の中に浮かんだ言葉に自覚したとたん、お腹がぐーと鳴った。忘れたはずの食欲が、急速に湧き上がった。
空腹が、綾瀬の眼光を鋭くさせた。獲物を追う極限に飢えた肉食獣のように、赤い粒に視線が吸着する。
「どうしたんですか」
「……美味しそう」
「えっ、ちょっ」
うわごとのようにつぶやいたあと、見えない糸に操られたまま手を伸ばし、それに触れる。指腹についた血を舐める。
――甘い。
鳥肌が立つほど極上の味だった。
とたん、頭の中がわんわん鳴き始めた。
もっと欲しい。
もっと食べたい。
ぜんぜん足りない。
脳裏に響く雑音がはっきりと言葉になった次の瞬間、新たな衝動が生まれた。
滲み出た血が新しい赤い玉を作った。それをじっと見つめ、ごくりと喉仏を上下させた。
「っ、ちょっと!」
逃げようとする獲物を反射で摑むと、顔を近づけ、血を舐めとる。それから、傷口周りの皮膚にも舌を這わせる。
運動したあとの身体は、うっすら汗ばんでいる。血のまろやかな味とは違う、さわやかでさっぱりとした甘さだ。
美味しい。
美味しくて、血や汗だけじゃ足りない。
この肉ならどんな味がするのだろう。
きっと体液よりも濃厚な甘い味だ。
想像するだけで、頭が沸騰する。
食べたい。食べたい食べたい食べたい……――お腹が空いた。
ずっと前から忘れていた、原始的な本能。お腹を満たす一心で、綾瀬は口を開いた。
無防備な傷口に歯を立て、力を込める。濃厚な味がジュワッと口内に広がった。このまま嚙み切って、食べてしまえば……
「痛っ」
ただの雑音でしかなかった言葉の意味が、ふいに理解できた。正気を取り戻したとたん、ハッと彼の腕を放す。見上げると、痛みで顔を歪めた彼と眼が合った。
「あの、もしかして」
ビクリと肩が跳ねた。飛び出る勢いで激しく打つ胸の鼓動音が、彼の声を遮る。
(今、俺なにを……)
視線を彼の顔から傷口に移す。そこは綾瀬の唾液でベタベタしていて、嚙み跡から新しい血が滲み出た。
綾瀬の顔から血の気を失った。
おぞましい記憶がまた脳裏をよぎった。耳の奥に、あのとき偶然に居合わせた人たちの悲鳴がこだまする。鎖骨の傷が炙られたようで火照り出した。
「あの、大丈夫ですか」
(逃げなきゃ)
誰かに怪我をさせる前に……
誰かに正体を暴かれる前に……
次の瞬間、綾瀬は自分の中にあるケダモノを誘き寄せる芳しいにおいから逃げるため走り出した。
口の中から彼の味が消えない。その甘美を思い出すと、胃の腑からなにかがせり上げてくる。口を押さえたまま、トイレに転がり込むと、すぐに便器を抱え込んだ。
「オェッ、うっ……ふ」
声ほど出るものが少ない。開いた口からは、糸を引くような唾液がこぼれ出た。
「うっ、オッ」
濁った水をぼんやりと見る。
「だいじょ……ばない」
口だけでも自分を鼓舞したいのに、今はそれすらできない。
視界が滲み出す。気づけば涙が眦から伝い落ちた。
ずっと恐れていることが、とうとう起こってしまった。口腔に残っている甘美が、綾瀬を異常者だとなじっている。
便器の前にへたり込んだまま、放心する。
しばらくそうしていると、背後の戸を控えめにノックする音が響いた。
「……はい」
「その声は綾瀬くん? 保健室で休んでるんじゃなかったの? 大丈夫かい?」
向こうから、保険室の先生のやさしい声音がした。
綾瀬はゆっくりと立ち上がった。トイレを流してから、戸を開ける。入学してからずっとお世話になっている先生の顔を見ると、ほんの少しだけ安心した。
「顔色がひどいわ。もう少し休む? いや、これは早退したほうがいいかもしれないね」
「……はい」
「保護者さんに迎えに来てもらおうか」
「大丈夫です。タクシーで帰ります」
「じゃあ私がかばんを取りに行きましょう」
「すみません。お願いします」
先生に教室まで学生鞄を回収してもらったあと、迎車で来たタクシーに乗り込んで帰宅した。
ワンルームに戻ると、綾瀬はすぐ水道水で口を洗い流す。
何度濯いでも、彼の血が、汗が、粘膜にこびりついたまま。後味が消えない。
いっそのこと、洗面所に駆け込んで歯を磨く。無意識に擦る力を強め、歯茎に血が滲んだ。
舌の上も磨いた。勢いで奥まで歯ブラシを突っ込み、何度もえずきながら擦る。
気が済んでから、綾瀬はベッドに横たわって脱力する。真っ暗なテレビ画面に、強張った顔が映った。
胸の鼓動音以外、物音がしない。バクバクと鼓膜を叩きつける音が、保健室での出来事を思い出させる。眼を閉じると、彼の血の色が、まぶたにちらつく。
不気味すら感じるほどこの静けさが怖い。いつものようにテレビをつけた。
明るくなった画面に、お昼のワイドショーが流れる。お笑い芸人がなにかを言い、スタジオに爆笑が起きた。芸能人が出る番組は苦手だけど、動画配信に切り替えるボタンを押す気力すらない。まあいいか、と、ベッドから垂れ落ちた手からリモコンが滑り落ちた。
顔を枕に埋め、テレビの音にだけ集中する。たびたび響いてくる笑い声で、部屋に流れる空気はそれで明るくなるかもしれない。けれど心は重いまま。そのうち、余計なことを考えなくなるだろうか。
ふいに、笑い声やしゃべり声が止んだ。
「お昼のニュースです」
キャスターの落ち着いた声が聞こえる。
「『フォーク』による捕食事件が起きました」
一番聞きたくないワードに、胸が嫌な感じに跳ねた。とっさに顔を上げ、茫然とテレビを見る。キャスターの顔から、事件現場だと思われる住宅街に切り替わった。
「事件があったのは神奈川県、本日午前六時頃。朝の住宅街に捕食事件が起きました。調べによると、容疑者の男性と被害者の女性はパートナーです。女性は命の危険がありません。今、警察が動機と事件の経緯を調べています」
そのあとにほかのニュースが流れたが、なにひとつ聞こえなかった。胸が、痛いほど鼓動を打っている。
ニュースコーナーからワイドショーに戻った。止まらない物価高や社会問題について、コメンテーターが自由に発言している。和気藹々だった雰囲気が霧散し、緊迫した空気がスタジオを包む。
そのうちテーマが捕食事件になった。アナウンサーの紹介で、専門家が登場する。
「捕食衝動の説明の前に、まずは『フォーク』と『ケーキ』というふたつの特性について、簡単に説明しましょう。『フォーク』とは、突然変異で味覚を失った人のことです。味覚障害となにか違うかというと、彼らの味蕾は『ケーキ』と呼ばれる人にだけ感知する」
テレビのスピーカーから流れてくる、専門家の低いけれど聞きやすい声。
「どうして『フォーク』に捕食衝動が起きるかというと、みなさんにぜひ一度想像してみてください。味覚をなくし、けどお腹は空く。なにを食べても満たされないその気持ちを。『フォーク』は日々その感覚に苛まれています。『ケーキ』の味を知ってしまうと、その味に執着して、本能的に食べたくなります。もちろん、出会い頭に捕食することは非常に稀なことです」
画面が深刻な表情を浮かべるコメンテーター陣に切り替わった。
「研究に研究を重ね、今は『フォーク』向けのサプリメントだけじゃなく、捕食衝動を抑える薬もできまして……」
「しかし先生よ」
専門家の話を遮った男性タレントの表情は険しい。
「薬があるのに捕食事件がなくならないってことは、効かないってことじゃない?」
この人を覚えてる、と、綾瀬は無意識に枕を抱き締めた。母の共演相手のひとりだ。強面だけど、撮影現場で顔を合わせるとよく遊んでくれていた。
「この世に完璧な薬はありません。ただ、薬の服用が義務化になってから、事件の数が年々減っているのも事実です」
「でも結局、本能は完全に抑えられないもんじゃないか」
そのひと言が皮切りとなり、ほかのコメンテーターも発言し始めた。
「怖いよね……もっとなんかできないかな」
「フォークと付き合うなんて考えられないよ」
「自分の本能をコントロールできないって、なんつーか、ケダモノだね」
有益な意見ではなく、世間を代弁するようなお気持ち。
不安と拒絶。
批判と嘲笑。
このご時世と思えない、ギリギリを攻めた過激な発言が飛び交う中、専門家は硬い笑顔で解説を続ける。
「みなさんも知っていると思いますが、『フォーク』は後天性なので、誰だって変異する可能性があります。その原因はまだ解明中ですが。アメリカのバース研究者は、重度のストレスが引き金となっているのではないかと指摘しています」
「誰だってとか言うけど、フォークはやっぱ元から精神的に病んでる人が多いって聞いたことがあるぞ。ほら、結構前に起きた捕食事件、女優の――」
無責任な言葉が言い切られる前に、リモコンで電源を落とした。
最悪だ。ただ嫌なことを忘れたくてテレビをつけただけなのに、さらに気分が悪くなった。
綾瀬はわなないている身体をなんとか起こし、足がもつれながらキッチンへと向かう。
次の服用時間はまだ先だけど、もう無理。堪えられない。過ちを犯しかけた自分のことを、信じられない。
引き出しから薬袋を取り出す。指が震えていて、うまく薬をシートから押し出せない。なんとか出したそれを、すぐ体内に流し込んだ。
身体の震えが止まらない。
胸がバクバクしている。
涙で濡れた眼が、流し台に置いた薬袋を見つめる。
ぐちゃぐちゃになっているそこの文字を認めると、呻き声が漏れるほど胸が痛くなった。
「……俺は、あいつらみたいに……捕食なんて、しない……ぜったいしない……」
フォーク専用抑制剤という文字が、矢になって綾瀬の胸を突き刺した。
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