【完結】近寄らないで、ひとりにして

立早うお

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第4話

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 ホームへの階段を降りる途中、電車の影が見えた。埃っぽい風が頬を掠める。
「電車がきました」
 そう言う須加に腕を摑まれ、歩調を早めて電車に乗り込む。
 車内に乗客がそう多くない。引っ張られたまま、空いている席に座らされた。須加は横の席に腰をかける。
 習慣的に満員電車を避け、すぐ降りられるよう扉に近い位置を立つ。
 久々に席に座る。距離が思ったより近い。他人の体温に落ち着かない。つい肩に力を入れてしまう。
「大丈夫ですか」
 突然顔をのぞいてくる須加に、綾瀬は肩を跳ねさせた。
「先輩ってもしかして人見知りですか?」
「……考えたことがない」
「じゃあ、人が怖いですか」
 とっさに、『ああ、怖いんだ』と胸の中で返事した。思考の渦に呑まれる寸前、突き刺すような視線を感じた。綾瀬は須加の顔越しに車内を見回す。自分に向ける視線は、須加のものだけ。ただの気のせいだった。
 黙り込んだままの綾瀬に、須加は問いを続ける。
「それってフォークだからですか」
「やめて……外でこの話をしたくない」
「無神経ですみません」
 グイグイくるくせに、注意すると素直に引いてしゅんとうなだれる須加に、綾瀬は戸惑った。どう接すればいいかわからない。
 須加が口を閉ざすと、気まずい沈黙が降りかかる。
 電車の振動を足の裏で感じながら、綾瀬はチラリと横の少年を盗み見る。
 車内に、仮眠をとる人もいれば、本を読む人もいる。須加は外の景色を遠目で眺めている。手持ち無沙汰で、居心地が悪そうにしているのはおそらく自分だけだ。疎外感で酸欠になりかけ、深く息を吸う。
 甘い香りが鼻に抜けた。
 とたん、食欲が刺激され、分泌された唾液を飲み込む。その香りにだけ意識を向け続けると、口の中が寂しくなった。
「足の怪我、まだ治ってないの?」
「たまに痒くなるけど、傷自体はもう塞ぎました」
 てっきり須加のにおいだと思い込んでいた。もしかしてほかにケーキがいるかも、と、血の気が引いていくのを感じる。
「どうしたんですか?」
「……においが」
「におい?」
 キョトン顔でオウム返しする須加は考えて数秒。あっ、と左手を見せる。
「もしかしてこれのことですか?」
 眼前にかざした手から漂ってくる香りが強くなった。眼を凝らすと、長くて節くれだった人差し指の側面に、小さな切り傷があった。
「今朝ご飯を作るとき切っちゃって」
 血が少しだけ出たぐらいで、すぐに痛みが引いたからすっかり忘れてました、と須加は言葉を続けた。
「絆創膏を貼っといたほうがいいかも」
 チョコの箱を開けた瞬間、カカオの香りが広がるのと同じ原理。皮膚が裂けるとケーキの甘いにおいが漏れ出てしまう。
 小さな切り傷でさえこれだ。包丁で切り裂いた傷口なら――とたん、脳裏にまたあのときの光景がよぎった。アスファルトに流れる鮮血、人々の悲鳴、光を失った黒瞳……
「先輩。ねえ先輩」
 肩を揺すられ、悪夢にさらわれかけた綾瀬は現実に引き戻された。
「汗がすごいですよ。大丈夫ですか」
 額に浮かんだ汗粒を、須加は指で拭き取ってくれた。スキンシップに慣れていない綾瀬は身体を強張らせた。汗で湿った指先を舐める須加を、茫然と見る
「なにをやってる」
「しょっぱい……まあ当たり前か」
 フォークへの突然変異を告げられた日から、そのうち理性を無くしたケダモノに成り果てると恐れている。自分ですら自分のことが怖いのに、被食側の彼は呑気な笑顔を見せてくれる。なんだか過剰に意識しすぎた気がしてきて、力が抜ける。
「……バカ」
 声音が落ちた直後、綾瀬はまた視線を感じた。気配がしたほうを見る。斜め向かいに座る女子ふたりがクスクスと笑いながらこっちを見ている。
「イチャついてる」
「かわいー」
 と、響いてくる話し声に動揺する。
「どうしたんですか? 急に顔を赤くして」
「うるさい」
 距離感がバグっている須加から離れ、ぷいっとそっぽを向く。
 そうすると、女子たちは綾瀬の無愛想な態度を照れ隠しだと都合のいい勘違いをしてさらに盛り上がった。
 慣れないスキンシップと羞恥で、耳先まで熱くなった。不安と恐怖以外の理由で身体がわなないたのはいつぶりだろう。
 気づけば車窓から見慣れた風景が見える。
「降りるよ」
 そう声をかけると、須加を待たずに先に下車した。
  
「先輩、待ってください」
 追いかけてくる須加に振り返らず、歩調を速める。顔の熱がなかなか引かない。
「そういえば先輩の親って共働きですか」
 問いかけに、綾瀬はようやっと斜め後ろにいる須加に振り向いた。知らないのか、と内心で驚いた一秒後、『……そりゃそうか』と考え直した。女優綾瀬理香子はもう過去の人間だ。
「ひとり暮らしだ」
 約十分の道のりが、いつもより短く感じる。あっという間にマンションに着いた。
「オートロックですか? すごい」
 興味津々にエントランスを見回す須加に、綾瀬は苦笑をこぼした。
 本当はアパートでもよかった。叔母の反対を押し切って始めるひとり暮らし。せめて金銭的負担をかけたくなかった。けど心配性の叔母はそれを許さなかった。条件をすり合わせた結果、オートロックのここにした。それでも当時叔母はかなり渋ったが。
 エレベーターの扉が閉まると、そう広くない空間にふたりだけ。汗ばんだ須加から香るケーキのにおいに、思わず息を止めた。五階まで昇るたった数十秒がやけに長い。
「なんか汚くないですか」
 家の扉を解錠していると、横にいる須加はそう問うた。扉を開けながら、そうかなと周りを見る。
 陽が差した外廊下。風が強い日はたまに落ち葉や砂埃が舞い込んでくるが、毎朝管理人が清掃を行う。須加に指摘されても、こんなもんだろうと綾瀬は思った。
「こんなのが落ちてるし」
 眉をひそめた須加は落ちた菓子パンの包装袋を拾った。
「誰か落としたんじゃない?」
 それを受け取り、綾瀬は家に入るとゴミ箱に捨てる。
「お邪魔します」
 この家に、叔母以外の人が来ると思いもしなかった。須加の声に今さら実感する。
「……どうぞ」
 そわそわしながら、そう言い返した。
 廊下キッチンで順番に手を洗ってから、須加を中へ案内する。来客用のクッションがなく、どこに座らせればいいかと戸惑っていると、須加は失礼しますとフローリングにあぐらをかいた。
 自分の家なのに、須加がいるだけで見知らぬ場所に感じた。喉が渇いてくる。
「えっと、水か野菜ジュース……飲む?」
「じゃあ、水、いただきます」
 踵を返し、薄暗い廊下キッチンに戻る。マグカップに水を注ぎ、ひと口。冷たい水が胃へ流れ落ちる。神経は尖ったまま。
 食器棚の扉を開け、手が止まる。来客用のカップなんてない。
 結局、紙パックのジュースを片手に戻った。
「どうぞ」
 リクエストと違うものを差し出すと、須加は戸惑った表情をした。
「……コップがなかった」
 気まずそうに視線を逸らす。
「急に押しかけてすみません」
「本当にそう思ってる?」
 須加は肩をすくめた。礼を言ってジュースを受け取る。パッケージにある『一日分の野菜』を認めると、難しい顔でしばし考える。
「普段はこれで栄養を摂ってるんですか」
 綾瀬もあぐらをかいた。須加とはひとり分の距離。
「専用のサプリメントもある」
「普段はなにを食べてるんですか」
「パンとか」
 須加の眉間の皺が、深くなった。
「それだけじゃ足りないですよ。ちゃんと食べないと」
 悪気はないと頭では理解している。しかし心配そうな顔を向けられると、どうしても嫌な気分になる。
 フォークに向ける眼差しは大きく二種類に分かれる――恐怖か、同情か。
「よりによってあの子が? かわいそうに……」
 診断結果が出た日。偶然耳にした看護師たちの会話が棘となって心を深く突き刺した。まるで腫れ物に触るような扱いをされ、余計に惨めになる。
「俺はフォークになる前から元々食欲がなかったら、食事とかどうでもいいんだ。てか味がしないものを食べる気持ち、おまえわからないだろう」
 ただの八つ当たりだ。純粋に心配してくれる後輩の善意を、ひねくれた自分がそれを憐れだと受け取って勝手に傷つく。
「そうですよね。味がないものを食べるのはやっぱしんどいですよね」
 それなのに、須加はまるで気にしない。また考え込んだ素振りを見せてから、
「先輩、俺を食べてください」
 と、真顔を綾瀬に向ける。
 数秒をかけてくちびるを動かし、同じ言葉をなぞってようやく理解できた。
「……はあ?」
 そうしたら、素っ頓狂な声がこぼれた。
「自分がなに言ってるかわかってる?」
「わかってます。先輩、俺の体液なら美味しく食べれますよね」
「だからって食べないよ。てか食べさせないで。危ないから! ニュース観てないの?」
「フォークがケーキを襲ったやつですか」
「そう」
「観ましたよ。それから捕食衝動についていろいろ調べました。フォークはケーキの味しかわからないから執着しやすいって」
 わかっているなら、どうしてこんなことを提案してくる。須加がなにを考えているか理解できない。
「それで、自分なりいろいろ考えてみました。先輩は見るからに不健康で」
「……余計なお世話だ」
「すみません。でも、ちゃんと食べてるかなって気になったんです。元々食欲がないって言ってたけど、俺の血を美味しそうに食べてましたよ。もしかして先輩、自分の空腹に気づいてないんじゃないですか」
 図星を突かれた綾瀬は口を噤んだまま。
「捕食衝動を起こすのが怖くて、無理に抑え込んでるんじゃないですか」
 顔を逸らすと、須加は追いかけるように眼を合わせてくる。
「無理に抑え込むと逆効果です。そのうち爆発して本当に事件を起こしますよ。何事もそうじゃないですか。だから、定期的に俺を食べて、お腹をいっぱいにすればいいだけの話です。簡単でしょ?」
 つまり、ただ痩せ我慢するより、定期的にケーキを食べて暴飲暴食を防ぐ――須加の言い分は理解できる。だからといって、彼を食べていいことにはならない。
「……おまえ、怖くないの?」
「うーん。刺されて食べられるのはさすがに怖いけど、さっきみたいなら大丈夫じゃないですか?」
「……でもなんで。おまえにメリットないだろう?」
 須加は大きな眼をしばたかせた。
「俺、先輩のことを放っておけなくて、それに……俺の血を舐める先輩の顔が、頭から離れないつーか」
 声が次第に尻すぼめになっていく。まっすぐに見据えてきた視線が揺れた。茶髪の間からのぞき見えた耳が赤い。
「……そそられたつーか」
 ポリポリと髪を掻きながら須加は言葉を探す。
「つまり……先輩のことが気になってしょうがないってことです」
「心配してくれるのはありがたいけど、だからって体液を提供するって無謀すぎるし、危ない」
「先輩は今のままで本当に大丈夫だと思ってます? そのうち本当に倒れますよ。さっきも言ったけど、俺は黙って先輩に襲われるほどヤワじゃないです」
 正気を失ったフォークを見たことがないからこそ、須加はこんな提案ができるのだ。危険性をどう説明すればいいか悩んでいると、須加はたたみかけてきた。
「先輩は俺の体液を美味しく食べる。俺は気になる先輩とチューできる。ほら、ウィンウィンじゃないですか」
 なにがウィンウィンだ。呑気すぎる言葉を放たれ、綾瀬はもはや言い返す気力すら失った。なんだかバカバカしくすら思えてきた。
 ただ、提案自体は魅力的だ。忘れた食欲を取り戻したのに、なにを口にしても満たされない。
 食べたいのはケーキだけ――身体が、本能が、そう叫んでいる。
 このままだと本当に捕食事件を起こしてしまう。
 その対策として須加に体液を分けてもらう。良策ではないが、得策である。
 落ち着いて思考を巡らせてから、綾瀬は頷き、提案を受け入れた。
 須加はパッと顔を明るくさせ、ふたりの距離を縮めた。張り詰めた空気が流れる。
「じゃさっきの続きを」
 そう言いながら、須加は自分のくちびるを指した。
 瞬間、甘美な味を思い出し、早く味わいたくてうずうずする。
 同時に、理性と羞恥心が邪魔する。
 須加のくちびるの感触も蘇ったのだ。経口で体液を摂取するため、さっきのような濃厚な口づけを自ら仕掛けるのは無理だ。思い返しただけで赤面する。
「先輩、失礼します」
 もだもだしていると、須加の顔がすぐ眼前にあった。肩をそっと摑まれた。
「……っ」
 やっぱり待って、と。声音になりかけた言葉があっさりと須加に呑まれた。
 くちびるを塞がれたまま、体重をかけられる。綾瀬は自然と後ろへ倒れた。緊張で身体に変な力が入った。我が物顔で入ってきた舌に口の中をかき回される。
 上あごを舐められて、くすぐったい。歯茎を擦られると、うなじ辺りがぞくぞくする。口の中でも場所によって得られる感覚が違うとはじめて知った。
 いつの間にか後頭部を須加に支えられ、口づけが一層深くなった。
 流れ込んでくるみずみずしい唾液を飲み切れず、苦しくなった。さらに奥へ侵入してくる舌を、綾瀬の舌は拙い動きで追い出そうとする。触れ合ったとたん、逆に絡み取られた。
「ぅ……っ、……ん」
 早鐘を打つ胸の鼓動。
 口内に充満する甘い味。
 須加の体液がもたらす熱。
 力んでいた身体からだんだん力が抜けていく。頭がクラクラする。眼の奥が熱い。涙が込み上げてきた。
 味わう余裕すらない。与えられた体液を飲み下すだけで精いっぱいだ。
(お腹、いっぱい)
 そう感じたのはいつぶりだろう。お腹が満たされると、次第にまぶたが重くなった。
「先輩? 綾瀬先輩」
 いつの間にか綾瀬はまぶたを下ろした。須加の呼びかけに返事もできず、そのまま意識を手放した。
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