【完結】近寄らないで、ひとりにして

立早うお

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第5話

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 安らかな眠りが、物音に妨げられた。なんだろう、と綾瀬はまぶたを押し上げた。部屋は薄暗闇に包まれている。
 ガタッと、物音とともに、廊下につながる扉が開いた。驚いて起き上がると、入ってきた須加と眼が合った。
 寝起きのふわふわした意識が次第に冴えてきて、日中の出来事が浮かび上がってきた。
 瞬間、堪えられないほどの羞恥が湧き上がった。
「ううぅぅ……」
「どうしたんですか? 具合が悪いですか?」
 須加は部屋の明かりをつけると、駆けつけてくる。手に持っているレジ袋がカサカサと音を鳴らす。
「先輩?」
 顔を隠す指の隙間からのぞき込んでくる須加を認め、「こっち見ないで」と呻いた。
 視界から彼を追い払っても、まぶたの裏に、須加の顔のドアップが鮮明に浮かんだ。ケーキの味が、まだ甘く口の中に残っている。
「もしかして、照れてるんですか?」
「……うるさい」
「ねえ、先輩」
 手首を摑まれたと思うと、両手がやさしく剥がされた。視界が明るくなった。
「体調、どうですか」
「……悪くはない、かも」
 お腹を満たしたあとの睡眠は、夢が見ないほど深かった。それだけで、今までにないほど身体が軽く、頭もスッキリしている。
「それならよかったです。夕飯を買ってきました。食べれそうですか?」
「夕飯?」
「本当はなんか作ろうと思ったけど、冷蔵庫になにもないし、そもそも調理器具もない。先輩どんな生活をしてるんですか? とりあえずコンビニのお茶漬けと素麺を買ってきたけど、どうですか? あ、ローテーブルを使いますね」
 一気に紡がれた言葉に追いつけない。
 須加は折りたたみテーブルをベッドとテレビの間に広げ、お弁当を持ってキッチンへ向かった。
 ほどなくして、無機質な音が廊下から鳴り響いた。
 須加はあたためたお弁当を持って戻ってきた。熱っ、とぼやきながらビニールを剥がす。フタを取ると、湯気とともに出汁の香りがふわりと立ち上る。
 不可解な生き物でも見ているような眼で、忙しなく動き回る須加を見る。
 勉強でしか使わないローテーブルに、あたたかいお弁当とペットボトルが置いてある。
 部屋の明かりが目覚めたばかりの綾瀬には眩しかったかもしれない。しばたくと、眼の縁が濡れた感触がした。視界がぼんやりと霞んだ。
「先輩はどっちがいいですか」
 須加はテレビを背にあぐらをかいた。ベッドから降りた綾瀬は、お弁当と彼を見比べる。
 眼前の景色はおそらく、世間一般にとって当たり前の日常風景。
 でもこの当たり前は、もう二度と手に入らないものだと思った。この家で誰かと食事する日が来ると思わなかった。
「どうしたんですか」
 綾瀬は眠そうに眼を擦る。
「……なんでもない」
「どっちにします?」
「どっちって言われても……味がわかんないし、どっちでもいいよ」
「味がわからなくても、好きな食感とか見た目とかあるんじゃないですか」
 そう言われると、綾瀬は容器の中を見る。梅と蒸し鶏の素麺と鮭出汁お茶漬けだった。
 しばし考えてから、綾瀬は素麺を選んだ。普段の食事は、パンやおにぎり、片手で食べられるものばかり。自分の選択肢には、麺類が入っていない。
「いただきます」
 須加につられ、綾瀬もお弁当の前に手を合わせる。
 幼い頃躾けられた食事のマナーは、疎かにしていても身体は覚えている。しかし何年も口にしていない言葉が、舌がもつれたようにうまく言えなかった。
「い、いただ、きます」
 小声で紡いだあと、お弁当の中を見る。白い素麺の上に浮かぶ、刻みネギの緑と梅の赤、蒸し鶏のベージュ、錦糸卵の黄色。やさしい色合いに、胸がほっと落ち着く。
 割り箸でかき混ぜると、出汁の香りがふわりと上がった。
 食べ物の香りが認識できても、美味しそうと思わなくなったことにはもう慣れている。それなのに、どうしてか胸が疼いた。
「熱っ」
 あたためすぎたようだ。須加はヒリヒリする舌先を出し、ペットボトルを取った。フタを開けると半分ほど飲み下す。
「思ったより熱かったです。気をつけてください」
「わかった」
「あっ、麦茶飲んじゃった。先輩は緑茶でも大丈夫ですか」
「うん」
 綾瀬はそういえば、麦茶の焦げたような味が苦手だったことをふと思い出した。
 撮影現場にはなぜか麦茶が多い。理香子の撮影が終わるのを待っていると、よくスタッフに渡された。苦手だけど、嫌だとは言い出せないまま。ひと口飲んだあと、必ず持参した水で後味を洗い流していた。
 スプーンで掬ったお茶漬けを、息を吹きかけて冷ます須加を見て、綾瀬も素麺を食べ始める。
 割り箸で素麺と錦糸卵をまとめて挟み、口に入れる。味がわからない。口の中があたたかくなった。
 素麺はなめらかで、蒸し鶏はやわらかい歯応え。咀嚼して呑み込む。食べ物が喉を通って食道へ、胃の腑へ流れていく。
 ひと口、またひと口を。
「どうですか」
「……わかんない」
 出汁がきいたスープ、素麺、梅……全部、幼い頃に食べたことがある。味は知っているはずなのに、今は感じられないし、思い出せない。馴染みのある食べ物の味をどんどん忘れていくこの事実を認めるのが怖かった。
 でも。
(あったかい)
 あたたかいスープをひと口。お腹から四肢まで温もりが広がり、胸の奥まで染み渡る。
 生きているんだ――と、ふいにそう実感した。
「美味いっ」
「……うん」
 実に美味しそうに食べる須加を見て、綾瀬は小さく相槌を打った。
 緑茶を飲み終えても、身体はほっこりしたまま。お腹にこもった熱を不思議な気持ちで感じていると、食事の片づけを終えた須加は立ち上がった。
「じゃあ、俺そろそろ帰ります」
「ちょっと待って、お金」
 綾瀬は慌てて財布を取り出す。
「いいんですよ。俺が勝手に買ってきただけです。気にしないでください」
「そういうわけにはいかないよ。俺がいろいろお世話になってるし」
「お金はいらないんで、その代わりに土曜もし空いてるなら、遊びに行きましょう」
 須加はお金を持ったまま固まった綾瀬の手を上から覆う。
「とりあえず財布しまって。連絡先を教えてください」
「連絡先?」
「連絡がとれないと困るんでしょう。俺、先輩のケーキだから。食事の時間を決めないと」
 促されたまま、スマホを取り出した。アプリを使いこなせていない綾瀬は、教えられたままにボタンをタップし、表示させたQRコードを読み取ってもらう。
「じゃあ、お邪魔しました」
 バイバイと言いながら手を振り、出ていく須加を見送る。エレベーターに乗ったところを認めてから、自室に戻った。
 静かになった空間を、扉にもたれてしばらく眺める。
 部屋にこもる出汁の香りやケーキのにおいが、夢じゃないと証明している。
 ケーキがいなくなったのに、安心感どころか、どうしてか心に空洞ができたような心細さを感じた。
 スマホに視線を落とす。叔母との連絡でしか使わないこの端末に、ひとりの少年の連絡先が増えた。
 この世で一番避けるべき相手なのに。
(どうしてこんなことになったんだ……)
 戸惑っていると、スマホがバイブした。
 明るくなった画面に、メッセージの新着通知がひとつ。
『今度遊びに行きましょう。行きたい場所とかあったら教えてください』
「どうしよう……」
 脳裏に彼の笑顔が浮かんだ。
 ついさっきまで襲ってきた不安がどこかへ消えたように感じ、さらに困惑した。
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