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第14話
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あのときの矢田が、今押さえてくる男に重なった。もはや当時の面影がない男は皮が剥けたくちびるをゆっくりと、舌で濡らす。その仕草で背筋が戦慄いだ。まるであの夏に無理矢理に引き戻されたようだ。
「な、なんでここに……」
胸の鼓動が乱れた。拓にいが帰国した話を、叔母ちゃんから聞いてない。
「理人に会うためだよ」
押さえ込まれた身体が、恐怖で小刻みに震えている。
記憶の中と全然違う、不健康にやつれた従兄の今の姿……思い返せば、たびたび駅や電車で見かけていたかもしれない。
「俺をつけてたのか」
矢田は口角をつり上げた。
「なあ、もうケーキになってくれた?」
興奮で充血した眼、荒い息が混じった声。ポケットからバタフライナイフを取り出した矢田は、鈍い銀色の刃をちらつかせる。
「俺はケーキじゃない……」
バクバクと胸がうるさい。息も上がった。
「俺はおまえの変異を待ってたんだ。なににも満たされないままずっと待ってた……ねえ、おまえといつも一緒にいる奴は誰? あいつフォーク? おまえ体液を飲ませてんの?」
「ち、ちが、違う! お、俺のほうがフォークなんだ」
「だったら俺にも血を飲ませてくれよ!」
言葉がまったく通じない。怒鳴られ、胸がぎゅっと縮んだ。
顔を逸らすと、髪を摑まれた。無理矢理に上げさせられた頬に、ナイフの刃が当たる。冷たくて無機質な感触。力さえ入ると、このまま肌が切られる。
「動くなよ。理人の顔を切るつもりはないんだ。腕をちょっとだけ、じっとしてろ」
いつ切られるかわからないこの数秒間が、まるで永遠に終わらない悪夢。
腕を切られたら、きっと痛い。でも、それぐらいなら死なない。拓にいだって血を舐めたら、俺がケーキじゃないって気づくはず。怖がらなくていい。少し我慢すればすべてが丸く収まる。ガタガタ震えながら、綾瀬はそう自分に言い聞かせる。
けれど。
――怖い。
もうなにもかも嫌だ。抵抗したいのに、身体がまるで動かない。されるがままだ。
激しく鼓動する胸を締めつける感情に、無力や情けなさが入り混じる。
一瞬の無音。
鼻を刺激する血のにおい。
肉を切り裂かれた痛み。
眼の奥に火花が散ったようだ。
包丁で刺された理香子、アスファルトを染める血、周囲の悲鳴……トラウマが詰まった箱をひっくり返され、悲惨な記憶が溢れ出た。
「あああぁぁぁ」
「きゃーー」
女の悲鳴が鼓膜を震わす。
現実か、幻聴か。わからない。心がざわつく。あの夏にどんどん引きずられる。
「なにやってんだ! やめろ!」
悲鳴と怒声の中、ひとつの声だけがはっきりと耳に届く。心臓が鷲摑みにされたようだ。
上から押さえ込まれた力が急に消えた。しかし、恐怖で身体が動けない。
「先輩、大丈夫ですか」
須加の声が、綾瀬を現実に連れ戻してくれる。
――なんで?
後ろから激しいぶつかり合う音がした。
「離せッ、離せよクソ!」
凶暴に叫ぶ矢田の声に、壁にぶつかるような衝突音が重なった。
綾瀬は上体を起こす。
二の腕から鋭い痛みが走った。傷が火照る。古い傷跡もヒリヒリする。バクバクとさらに加速する鼓動を感じながら、振り向く。
ナイフを持ったまま暴れる男を、須加は背後から羽交い締めして押さえる。
「……なんで」
その姿を認めたとたん、身体の震えがようやくおさまった。
「はや、早く、警察を!」
須加は扉のほうへ向かって叫んだ。
そこを見遣ると、隣人の女性が青ざめた顔で佇んでいる。震えながら「はい」と言い、カバンの中をスマホを漁って避難階段のほうへ走った。
「せ、ぅ、先輩も、逃げっ」
須加の力をものともせず、狂気を纏った矢田は綾瀬を目がけてんにじり寄ってくる。
「やめろ」
「理香子さん……俺の理香子さん……」
血走った眼は綾瀬を見ているようで、焦点はどこにも合っていない。過去に取り憑かれて幻でも見ている。
綾瀬はよろめく足を叱咤しながら立ち上がる。
「俺はいいから、おまえこそ、逃げて」
「離せ、邪魔だ!」
矢田は持っているナイフを振り下ろす。何度も何度も。須加を刺そうとする。
制服を掠めた銀の刃についた赤の面積が、次第に大きくなった。
痛そうに呻く須加だが、それでも押し止める力を緩めなかった。
白いシャツから赤いシミが広がる。裂いた傷からどろりと、濃厚な芳香が広がった。
瞬間。
矢田の眼の色が変わった。ナイフを持ったまま、動きが止まった。
虚空を探していた眼が、意思を持った。芳香のもとを見つけたとたん、狩り人の眼つきに変わった。
必死に男を拘束する須加は気づかなかった――鋭い視線が、獲物の腕を捉え、静かに狙いを定めている。
狭い空間に響く荒い呼吸音と激しい拍動音。
早く逃げろ――そう叫びたくても、綾瀬の口からは獣のような呼気がこぼれた。
ケーキの芳香が廊下に充満する。
恐怖に苛まれた分、神経が過敏になっている。甘美なにおいに本能を刺激され、飢餓感が一層激しくなった。
――欲しい。
眼前の光景が、スローモーションに見えた。
矢田はナイフを振り下ろし、肉を引き切る。
須加が叫んだ。
芳香がさらに強くなった。
――食べたい。
痛みで、須加は力を緩めた。
その隙に、矢田はぐるりと身体を回転させ、ナイフを振り上げる。
――もう奪われたくない!
本能のささやきとは違う、脳内に浮かんだ明確な意志が、綾瀬を突き動かす。
石みたいに重かった足が動いた。全身の力で矢田にぶつけ、地面に引き倒し、凶器を叩き落とす。
「邪魔、邪魔だ! 邪魔すんな!」
ジタバタ暴れる矢田は、何度も綾瀬の顔や腕をはたいた。
こめかみ辺りを殴られ、視界がぐわんと揺れた。けれど、痛みを感じなかった。
「やめ、やめろ! 食べさせない!」
「先輩っ、早く逃げて」
須加の叫びが聞こえるが、言葉として認識できない。
矢田も叫んでいる。獣の呻き声に近いそれを、やはり言葉に聞こえない。
綾瀬はただ、男を必死に押さえ込む。
揉め合っている最中、いつの間にか周りに人が増えた。
紺色の制服を纏った警察官、薄グレーの制服を着た救急隊員。
背後から誰かに組みつかれ、矢田から引き離された。その代わりに誰かがすかさず矢田を押さえる。
「先輩、先輩!」
「…………」
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
耳がようやく機能を思い出す。一気に飛び込んできたさまざまな声が、虫の羽音のように聞こえる。
荒い呼吸を繰り返す。眼前の救急隊員に一度眼を合わせてから、須加を探す。
須加は担架の上に寝かされ、応急処置を受けている。
「先輩!」
「もう大丈夫だから落ち着いてください」
担架で運ばれていく須加の姿を確かめると、ほっと安心した次の瞬間、忘れていた痛みが今さらやってきた。
「あなたもフォークですよね」
警察官の声がようやく言葉として認識できた。
綾瀬は返事しようと口を開くと、飲み切れなかった唾液がこぼれ出た。とっさに手で受け止める。血混じりの唾だった。口の中が切れていると気づくと、鋭い痛みが走った。
「はい」
声が掠れている。喉が酷使したあとのようにひりつく。記憶はないが、興奮している間、大声を出していたかもしれない。
「緊急鎮静剤を打ちますね」
別の救急隊員が近づいてきた。チクッと注射器に刺され、鎮静剤を投与された。
バクバクうるさかった鼓動音が次第に穏やかなリズムを取り戻した。まぶたが重い。支えがないと、このままへたり込んでしまいそうだ。
朦朧としている間に、綾瀬は大人たちが矢田への処置をぼんやりと見る。
鎮静剤を打たれた矢田は糸が切れた人形みたいに動かなくなった。毛布でぐるぐる巻きにされ、車椅子で運び出された。
「歩けそうですか」
綾瀬は頷いた。支えられたまま、足を引き摺るように歩く。
マンションの前に、野次馬が集まっている。通報してくれた女性が口元を押さえ、涙ぐんだ眼でこっちを見ている。怖い思いをさせてしまったことに申し訳なさを感じた。
「理人!」
視線を向けると、顔面蒼白な叔母が呆然と佇んでいる。
「近づかないでください」
「私はあの子の叔母です。同行させてください! 理人、大丈夫?」
駆けてくる叔母が、警察となにかを話しているのを横眼で見ながら、綾瀬は救急車に乗せられた。
「先輩!」
先に乗り込んだ須加はすぐに上体を起こそうとするが、痛みでひとつ呻きをこぼし、上体を倒し、再び担架に横たわった。
須加のくちびるが動いている。けど声が耳に届かない。心配そうな眼をしているから、綾瀬は大丈夫だと小さく頷く。伝わったかどうかわからない。ただ、須加はゆっくり眼をしばたかせ、小さく息をついたあと、おとなしくなった。
しばらくして、叔母も乗ってきた。
「理人、大丈夫?」
頬や口の中はじんじんと痺れているが、鎮静剤の効果なのか痛みが和らいだ。返事しようと口を開く。頬肉がやけに重く、くちびるも動かしづらい。
「……叔母ちゃん」
ようやく発したのは、弱々しい声だった。
強く握ってきた叔母の手があたたかい。だんだんと視界が狭くなった。抗うことすらできずに、綾瀬はそのまま意識を手放した。
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お読みいただきありがとうございます
次は7/31 夕方頃に更新します!!
「な、なんでここに……」
胸の鼓動が乱れた。拓にいが帰国した話を、叔母ちゃんから聞いてない。
「理人に会うためだよ」
押さえ込まれた身体が、恐怖で小刻みに震えている。
記憶の中と全然違う、不健康にやつれた従兄の今の姿……思い返せば、たびたび駅や電車で見かけていたかもしれない。
「俺をつけてたのか」
矢田は口角をつり上げた。
「なあ、もうケーキになってくれた?」
興奮で充血した眼、荒い息が混じった声。ポケットからバタフライナイフを取り出した矢田は、鈍い銀色の刃をちらつかせる。
「俺はケーキじゃない……」
バクバクと胸がうるさい。息も上がった。
「俺はおまえの変異を待ってたんだ。なににも満たされないままずっと待ってた……ねえ、おまえといつも一緒にいる奴は誰? あいつフォーク? おまえ体液を飲ませてんの?」
「ち、ちが、違う! お、俺のほうがフォークなんだ」
「だったら俺にも血を飲ませてくれよ!」
言葉がまったく通じない。怒鳴られ、胸がぎゅっと縮んだ。
顔を逸らすと、髪を摑まれた。無理矢理に上げさせられた頬に、ナイフの刃が当たる。冷たくて無機質な感触。力さえ入ると、このまま肌が切られる。
「動くなよ。理人の顔を切るつもりはないんだ。腕をちょっとだけ、じっとしてろ」
いつ切られるかわからないこの数秒間が、まるで永遠に終わらない悪夢。
腕を切られたら、きっと痛い。でも、それぐらいなら死なない。拓にいだって血を舐めたら、俺がケーキじゃないって気づくはず。怖がらなくていい。少し我慢すればすべてが丸く収まる。ガタガタ震えながら、綾瀬はそう自分に言い聞かせる。
けれど。
――怖い。
もうなにもかも嫌だ。抵抗したいのに、身体がまるで動かない。されるがままだ。
激しく鼓動する胸を締めつける感情に、無力や情けなさが入り混じる。
一瞬の無音。
鼻を刺激する血のにおい。
肉を切り裂かれた痛み。
眼の奥に火花が散ったようだ。
包丁で刺された理香子、アスファルトを染める血、周囲の悲鳴……トラウマが詰まった箱をひっくり返され、悲惨な記憶が溢れ出た。
「あああぁぁぁ」
「きゃーー」
女の悲鳴が鼓膜を震わす。
現実か、幻聴か。わからない。心がざわつく。あの夏にどんどん引きずられる。
「なにやってんだ! やめろ!」
悲鳴と怒声の中、ひとつの声だけがはっきりと耳に届く。心臓が鷲摑みにされたようだ。
上から押さえ込まれた力が急に消えた。しかし、恐怖で身体が動けない。
「先輩、大丈夫ですか」
須加の声が、綾瀬を現実に連れ戻してくれる。
――なんで?
後ろから激しいぶつかり合う音がした。
「離せッ、離せよクソ!」
凶暴に叫ぶ矢田の声に、壁にぶつかるような衝突音が重なった。
綾瀬は上体を起こす。
二の腕から鋭い痛みが走った。傷が火照る。古い傷跡もヒリヒリする。バクバクとさらに加速する鼓動を感じながら、振り向く。
ナイフを持ったまま暴れる男を、須加は背後から羽交い締めして押さえる。
「……なんで」
その姿を認めたとたん、身体の震えがようやくおさまった。
「はや、早く、警察を!」
須加は扉のほうへ向かって叫んだ。
そこを見遣ると、隣人の女性が青ざめた顔で佇んでいる。震えながら「はい」と言い、カバンの中をスマホを漁って避難階段のほうへ走った。
「せ、ぅ、先輩も、逃げっ」
須加の力をものともせず、狂気を纏った矢田は綾瀬を目がけてんにじり寄ってくる。
「やめろ」
「理香子さん……俺の理香子さん……」
血走った眼は綾瀬を見ているようで、焦点はどこにも合っていない。過去に取り憑かれて幻でも見ている。
綾瀬はよろめく足を叱咤しながら立ち上がる。
「俺はいいから、おまえこそ、逃げて」
「離せ、邪魔だ!」
矢田は持っているナイフを振り下ろす。何度も何度も。須加を刺そうとする。
制服を掠めた銀の刃についた赤の面積が、次第に大きくなった。
痛そうに呻く須加だが、それでも押し止める力を緩めなかった。
白いシャツから赤いシミが広がる。裂いた傷からどろりと、濃厚な芳香が広がった。
瞬間。
矢田の眼の色が変わった。ナイフを持ったまま、動きが止まった。
虚空を探していた眼が、意思を持った。芳香のもとを見つけたとたん、狩り人の眼つきに変わった。
必死に男を拘束する須加は気づかなかった――鋭い視線が、獲物の腕を捉え、静かに狙いを定めている。
狭い空間に響く荒い呼吸音と激しい拍動音。
早く逃げろ――そう叫びたくても、綾瀬の口からは獣のような呼気がこぼれた。
ケーキの芳香が廊下に充満する。
恐怖に苛まれた分、神経が過敏になっている。甘美なにおいに本能を刺激され、飢餓感が一層激しくなった。
――欲しい。
眼前の光景が、スローモーションに見えた。
矢田はナイフを振り下ろし、肉を引き切る。
須加が叫んだ。
芳香がさらに強くなった。
――食べたい。
痛みで、須加は力を緩めた。
その隙に、矢田はぐるりと身体を回転させ、ナイフを振り上げる。
――もう奪われたくない!
本能のささやきとは違う、脳内に浮かんだ明確な意志が、綾瀬を突き動かす。
石みたいに重かった足が動いた。全身の力で矢田にぶつけ、地面に引き倒し、凶器を叩き落とす。
「邪魔、邪魔だ! 邪魔すんな!」
ジタバタ暴れる矢田は、何度も綾瀬の顔や腕をはたいた。
こめかみ辺りを殴られ、視界がぐわんと揺れた。けれど、痛みを感じなかった。
「やめ、やめろ! 食べさせない!」
「先輩っ、早く逃げて」
須加の叫びが聞こえるが、言葉として認識できない。
矢田も叫んでいる。獣の呻き声に近いそれを、やはり言葉に聞こえない。
綾瀬はただ、男を必死に押さえ込む。
揉め合っている最中、いつの間にか周りに人が増えた。
紺色の制服を纏った警察官、薄グレーの制服を着た救急隊員。
背後から誰かに組みつかれ、矢田から引き離された。その代わりに誰かがすかさず矢田を押さえる。
「先輩、先輩!」
「…………」
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
耳がようやく機能を思い出す。一気に飛び込んできたさまざまな声が、虫の羽音のように聞こえる。
荒い呼吸を繰り返す。眼前の救急隊員に一度眼を合わせてから、須加を探す。
須加は担架の上に寝かされ、応急処置を受けている。
「先輩!」
「もう大丈夫だから落ち着いてください」
担架で運ばれていく須加の姿を確かめると、ほっと安心した次の瞬間、忘れていた痛みが今さらやってきた。
「あなたもフォークですよね」
警察官の声がようやく言葉として認識できた。
綾瀬は返事しようと口を開くと、飲み切れなかった唾液がこぼれ出た。とっさに手で受け止める。血混じりの唾だった。口の中が切れていると気づくと、鋭い痛みが走った。
「はい」
声が掠れている。喉が酷使したあとのようにひりつく。記憶はないが、興奮している間、大声を出していたかもしれない。
「緊急鎮静剤を打ちますね」
別の救急隊員が近づいてきた。チクッと注射器に刺され、鎮静剤を投与された。
バクバクうるさかった鼓動音が次第に穏やかなリズムを取り戻した。まぶたが重い。支えがないと、このままへたり込んでしまいそうだ。
朦朧としている間に、綾瀬は大人たちが矢田への処置をぼんやりと見る。
鎮静剤を打たれた矢田は糸が切れた人形みたいに動かなくなった。毛布でぐるぐる巻きにされ、車椅子で運び出された。
「歩けそうですか」
綾瀬は頷いた。支えられたまま、足を引き摺るように歩く。
マンションの前に、野次馬が集まっている。通報してくれた女性が口元を押さえ、涙ぐんだ眼でこっちを見ている。怖い思いをさせてしまったことに申し訳なさを感じた。
「理人!」
視線を向けると、顔面蒼白な叔母が呆然と佇んでいる。
「近づかないでください」
「私はあの子の叔母です。同行させてください! 理人、大丈夫?」
駆けてくる叔母が、警察となにかを話しているのを横眼で見ながら、綾瀬は救急車に乗せられた。
「先輩!」
先に乗り込んだ須加はすぐに上体を起こそうとするが、痛みでひとつ呻きをこぼし、上体を倒し、再び担架に横たわった。
須加のくちびるが動いている。けど声が耳に届かない。心配そうな眼をしているから、綾瀬は大丈夫だと小さく頷く。伝わったかどうかわからない。ただ、須加はゆっくり眼をしばたかせ、小さく息をついたあと、おとなしくなった。
しばらくして、叔母も乗ってきた。
「理人、大丈夫?」
頬や口の中はじんじんと痺れているが、鎮静剤の効果なのか痛みが和らいだ。返事しようと口を開く。頬肉がやけに重く、くちびるも動かしづらい。
「……叔母ちゃん」
ようやく発したのは、弱々しい声だった。
強く握ってきた叔母の手があたたかい。だんだんと視界が狭くなった。抗うことすらできずに、綾瀬はそのまま意識を手放した。
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