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第13話
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「理人のせいで理香子さんが死んだんだ」
扉の向こうから漏れ出たのは矢田拓真――従兄の冷たい声。
何度も頭に浮かんだ自責が、ついに形となって耳に届いた。綾瀬は歩を止め、半開きの扉を見遣る。
「なんてこと言うの! 理人も被害者だよ!」
続いて響いてきたのは、叔母の痛切な叫び。
「でも理人がいい子にしてていれば……」
矢田の声が、まるで凶器のように心を突き刺した。
(僕のせいで……母さんが……)
パジャマの裾を握った。いくら泣いても涙は涸れることなく、また滲み出る。
音を立てずに与えられた部屋に戻る。知らない天井、硬めのベッド、重い掛け布団。すべてが、違う。自分が知っているものじゃない。痛んでいる心に風が吹いた。
事件のあと、「大丈夫だよ」と抱き締めてくれた矢田を、ずっと兄のように慕っていた。
はじめて彼の冷たい一面に触れた。
でも、そうだよな、とすぐに考え直した。矢田にとって、理香子はアイドルで、憧れの存在。彼の憧れを奪ったのは、自分だ。
(拓にいが正しい。わがままを言った僕が悪いんだ……)
「……ごめん……ごめんなさい」
あんなことを言い放ったが、矢田は変わらないやさしさを見せてくれる。
けどふとした瞬間、向けてくる眼が凍ったもののように感じる。
そこにどんな感情が含まれているのか、深く考えないことにした。矢田の本当の気持ちを知るのが怖い。
綾瀬が小学四年に上がったとき、矢田家に大きな変化があった。
矢田はフォークに突然変異したのだ。
「ふたりが一緒に暮らしても本当に大丈夫なの?」
フォークになった息子。フォークにトラウマを植えつけられた甥っ子――どっちかひとりしか選べないというなら、叔母は綾瀬を選ぶつもりだった。
そんな選択を、絶対叔母にさせたくない。
自分は大丈夫だと、綾瀬は強がった。
フォークになっても、矢田きっと変わらない。そう自分に言い聞かせ、信じ込んだ。
けれど、矢田は違った。
フォークだと判明してから、矢田の視線がねちっこくなった。
「理人はきっと理香子さんと同じケーキなんだ。理人の味が楽しみだな。早く俺だけのケーキになって」
それに言葉の意味が、理解できなかった。
事件の直後に、バース検査を受けた。結果はノーマルだ。それを知っているはずの矢田が、それでも綾瀬はケーキだと決めつける。
ケーキは先天性であることを、そのとき知らなかった。矢田の言葉を信じ、そのうち自分もケーキになってしまうと恐れていた。
獲物の味を想像して舌舐めずりする矢田に戦慄を覚えた。
(ケーキになったら、拓にいがきっと僕を食べちゃう)
理香子の死に様が脳裏に浮かび、胃が雑巾をぎゅっと絞られたような痛くなった。
十三歳の夏。綾瀬は矢田に襲われた。最高気温を記録した暑い日だった。
帰宅した綾瀬は額から滴り落ちる汗を拭きながらローファーを脱ぐ。
「理人」
突然に伸びてくる手に、綾瀬は驚いた。
矢田の手だった。大学が休講になっていつもより早く帰ってきたのだ。
一瞬だけ触られ、鳥肌が立った。
この頃矢田の視線に妙な熱が宿っている。舐め回すような視線がひたすら不快だった。
矢田は指についた綾瀬の汗を舐めたあと、不機嫌に舌打ちをした。
「おまえもう中学生だろう。俺もそのごろに変異したから、おまえもそろそろのはずだ」
矢田を無視して、さっさと部屋に逃げたいと思った。
「おい、無視すんな」
手首を捕らえられ、無理矢理に矢田のほうへ向けさせられた。
矢田からお酒のにおいがした。見つめられると、蛇に睨まれた蛙のような気分になった。
「おまえ、ますます理香子さんに似てきてる」
頬を撫でられ、気持ち悪さで肌が粟立つ。「放して」
抵抗を気に食わないのか、矢田はカッとなって下駄箱を蹴った。衝撃で花瓶が落ちた。割れて破片が飛び散る。
逃げようとすると、破片を踏んでしまって体勢を崩し、そのまま倒れた。
矢田はすぐ押さえつけてくる。興奮で紅潮した顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
――怖い。
奥歯がガタガタと震え、声が出ない。
それでも抵抗しようともがくと、地面に落ちた破片で肌にいくつも赤い線ができた。
血を捉えた矢田の眼つきは瞬間、肉食獣のものになった。力任せに綾瀬の制服を引っ張った。ボタンが弾き飛んだ。露わになった鎖骨に、容赦なく嚙みついてくる。
一瞬の空白。
「あああぁぁぁぁ」
嚙まれた衝撃で、綾瀬はなに起こっているかすぐにわからなかった。後からやってきた身を切るような痛みと血のにおいで悲鳴を上げる。
「チッ、やっぱまだか」
不満そうに眼を眇めた矢田は、自分がつくった傷口に指を滑らせる。
「そのときが来たら、おまえを骨まできれいにしゃぶってやるからなあ」
瞬間。
忘れてしまいたかった、あの悪夢のような出来事が脳裏に蘇った。
おまえも理香子さんと同じ死に方をするんだ――そう宣告されたような気分だ。
怖くて、綾瀬は必死に叫んで暴れる。身体のあちこちに鋭い痛みが走った。
涙で視界がぼやけ、駆けつけてきた人は誰なのかもわからない。
「理人、落ち着いて!」
叔母の顔を認めたとたん、綾瀬はまるで糸が切れた人形のようにそのまま意識を失った。
警察にいろいろ訊かれたが、綾瀬は兄弟ケンカの一点張りで大事にしなかった。
入院している間に、矢田は海外にいる知人に預けることになった、と知らされた。
「ほら、アメリカのほうがケーキバースの研究が進んでるでしょう。元々拓真に留学をさせるつもりだったしね。だから……理人が気にすることじゃないのよ」
憔悴した叔母が言う。
綾瀬がフォークだと判明したのは、このときだった。
ケーキの母を持つ綾瀬は元から徴候が出やすいかもしれない。フォークに嚙まれたのがトリガーになったと考えられる。医者はそう述べた。
ごめん、と青ざめた叔母は何度も詫びてきた。綾瀬は口を噤み、首を横に振った。
そもそも叔母が自分を引き取らなかったら、こんなことにならなかったはずだ。謝るべきなのは、こっちのほうだ。
叔母に対する申し訳なさと罪悪感で、綾瀬は押し潰されそうだ。
**********
矢田に襲われた綾瀬はどうなるか……
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扉の向こうから漏れ出たのは矢田拓真――従兄の冷たい声。
何度も頭に浮かんだ自責が、ついに形となって耳に届いた。綾瀬は歩を止め、半開きの扉を見遣る。
「なんてこと言うの! 理人も被害者だよ!」
続いて響いてきたのは、叔母の痛切な叫び。
「でも理人がいい子にしてていれば……」
矢田の声が、まるで凶器のように心を突き刺した。
(僕のせいで……母さんが……)
パジャマの裾を握った。いくら泣いても涙は涸れることなく、また滲み出る。
音を立てずに与えられた部屋に戻る。知らない天井、硬めのベッド、重い掛け布団。すべてが、違う。自分が知っているものじゃない。痛んでいる心に風が吹いた。
事件のあと、「大丈夫だよ」と抱き締めてくれた矢田を、ずっと兄のように慕っていた。
はじめて彼の冷たい一面に触れた。
でも、そうだよな、とすぐに考え直した。矢田にとって、理香子はアイドルで、憧れの存在。彼の憧れを奪ったのは、自分だ。
(拓にいが正しい。わがままを言った僕が悪いんだ……)
「……ごめん……ごめんなさい」
あんなことを言い放ったが、矢田は変わらないやさしさを見せてくれる。
けどふとした瞬間、向けてくる眼が凍ったもののように感じる。
そこにどんな感情が含まれているのか、深く考えないことにした。矢田の本当の気持ちを知るのが怖い。
綾瀬が小学四年に上がったとき、矢田家に大きな変化があった。
矢田はフォークに突然変異したのだ。
「ふたりが一緒に暮らしても本当に大丈夫なの?」
フォークになった息子。フォークにトラウマを植えつけられた甥っ子――どっちかひとりしか選べないというなら、叔母は綾瀬を選ぶつもりだった。
そんな選択を、絶対叔母にさせたくない。
自分は大丈夫だと、綾瀬は強がった。
フォークになっても、矢田きっと変わらない。そう自分に言い聞かせ、信じ込んだ。
けれど、矢田は違った。
フォークだと判明してから、矢田の視線がねちっこくなった。
「理人はきっと理香子さんと同じケーキなんだ。理人の味が楽しみだな。早く俺だけのケーキになって」
それに言葉の意味が、理解できなかった。
事件の直後に、バース検査を受けた。結果はノーマルだ。それを知っているはずの矢田が、それでも綾瀬はケーキだと決めつける。
ケーキは先天性であることを、そのとき知らなかった。矢田の言葉を信じ、そのうち自分もケーキになってしまうと恐れていた。
獲物の味を想像して舌舐めずりする矢田に戦慄を覚えた。
(ケーキになったら、拓にいがきっと僕を食べちゃう)
理香子の死に様が脳裏に浮かび、胃が雑巾をぎゅっと絞られたような痛くなった。
十三歳の夏。綾瀬は矢田に襲われた。最高気温を記録した暑い日だった。
帰宅した綾瀬は額から滴り落ちる汗を拭きながらローファーを脱ぐ。
「理人」
突然に伸びてくる手に、綾瀬は驚いた。
矢田の手だった。大学が休講になっていつもより早く帰ってきたのだ。
一瞬だけ触られ、鳥肌が立った。
この頃矢田の視線に妙な熱が宿っている。舐め回すような視線がひたすら不快だった。
矢田は指についた綾瀬の汗を舐めたあと、不機嫌に舌打ちをした。
「おまえもう中学生だろう。俺もそのごろに変異したから、おまえもそろそろのはずだ」
矢田を無視して、さっさと部屋に逃げたいと思った。
「おい、無視すんな」
手首を捕らえられ、無理矢理に矢田のほうへ向けさせられた。
矢田からお酒のにおいがした。見つめられると、蛇に睨まれた蛙のような気分になった。
「おまえ、ますます理香子さんに似てきてる」
頬を撫でられ、気持ち悪さで肌が粟立つ。「放して」
抵抗を気に食わないのか、矢田はカッとなって下駄箱を蹴った。衝撃で花瓶が落ちた。割れて破片が飛び散る。
逃げようとすると、破片を踏んでしまって体勢を崩し、そのまま倒れた。
矢田はすぐ押さえつけてくる。興奮で紅潮した顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
――怖い。
奥歯がガタガタと震え、声が出ない。
それでも抵抗しようともがくと、地面に落ちた破片で肌にいくつも赤い線ができた。
血を捉えた矢田の眼つきは瞬間、肉食獣のものになった。力任せに綾瀬の制服を引っ張った。ボタンが弾き飛んだ。露わになった鎖骨に、容赦なく嚙みついてくる。
一瞬の空白。
「あああぁぁぁぁ」
嚙まれた衝撃で、綾瀬はなに起こっているかすぐにわからなかった。後からやってきた身を切るような痛みと血のにおいで悲鳴を上げる。
「チッ、やっぱまだか」
不満そうに眼を眇めた矢田は、自分がつくった傷口に指を滑らせる。
「そのときが来たら、おまえを骨まできれいにしゃぶってやるからなあ」
瞬間。
忘れてしまいたかった、あの悪夢のような出来事が脳裏に蘇った。
おまえも理香子さんと同じ死に方をするんだ――そう宣告されたような気分だ。
怖くて、綾瀬は必死に叫んで暴れる。身体のあちこちに鋭い痛みが走った。
涙で視界がぼやけ、駆けつけてきた人は誰なのかもわからない。
「理人、落ち着いて!」
叔母の顔を認めたとたん、綾瀬はまるで糸が切れた人形のようにそのまま意識を失った。
警察にいろいろ訊かれたが、綾瀬は兄弟ケンカの一点張りで大事にしなかった。
入院している間に、矢田は海外にいる知人に預けることになった、と知らされた。
「ほら、アメリカのほうがケーキバースの研究が進んでるでしょう。元々拓真に留学をさせるつもりだったしね。だから……理人が気にすることじゃないのよ」
憔悴した叔母が言う。
綾瀬がフォークだと判明したのは、このときだった。
ケーキの母を持つ綾瀬は元から徴候が出やすいかもしれない。フォークに嚙まれたのがトリガーになったと考えられる。医者はそう述べた。
ごめん、と青ざめた叔母は何度も詫びてきた。綾瀬は口を噤み、首を横に振った。
そもそも叔母が自分を引き取らなかったら、こんなことにならなかったはずだ。謝るべきなのは、こっちのほうだ。
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