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4章 轗軻不遇の輪舞曲

それでも、彼と彼女は優しく

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「おや? ファラク先生、もうお帰りですかい?」
「ああ、もう『終わった』よ。自宅まで頼む」

 ファラクの運転手を勤めるステブは、その『終わった』の言い方に違和感を覚えていた。

 ステブもまた獣人である。
 メリットのスラム街の一角で多数の手下を引き連れ悪行の限りを尽くしていた彼は、ファラクと出会い真っ当な人生を歩むことが出来たのである。
 勿論ファラク側も、リーダーを抑えてスラム浄化を推し進める作戦の一環であったが、それを知っても尚、仕事と家庭を持てたステブはファラクに全幅の信頼を置いていた。

 そんなファラクの見たことのない顔ーー
 会議がうまくいかない、新型クライドンの進捗が芳しくないなど、ここ数年ファラクの心情をずっと見てきた男からすると、それがまるで『この世の終わり』かのような印象を与えた。

「何かあったのですかい?」
「…………すまんな」

 言えない、言わないではなく、言いたくないような返答をするファラクに、ステブはその嫌な予感が的中していると確信に至ったのであった。

 車内には、終末のような重たい空気が漂っている。

 ステブはこの恩人に何を言えば、何をしたら良いかをずっと運転中考えているが、自分の頭では答えが出ないのは自分自身が1番分かっていた。
 なので彼は、しようと思っていた話題をする事にした。

「ファラク先生、うちにねぇ、二人目が出来たんですよ」
「おお、そうかおめでとうステブ。名前はもう決まってるのか?」

「いえ、決めてねえです。ファラク先生に決めてもらおうと思いましてね」
「そんな大役、私なんかでは……」

「それでも、ファラク先生に決めて貰いてえんですよ」
「そうか、うーむ、確か一人目は『ギラース』だったな」

「そうです。元はメリットにある小さい花の名前なんですがね、花言葉が『希望』っていうのが妙にしっくりきましてね」
「ああ、なら、『ロウブ』なんかはどうだ? 私の星の花だが、花言葉が『勇気』なんだ」

「ロウブ……ロウブで『希望』ですかい。うん、いいじゃあねえですかッ! ありがとうございます先生。うちの二人目はロウブです」
「そんなあっさり決めていいのか?」

「いいんですよ先生。先生に決めて貰う事に意義があるんです」

 ………………
 …………
 ……

「だからですねーー」

 そこまで言うと、色々な思いがステブにおしよせてきた。
 生まれながらにスラムで生きるか死ぬかの生活から救ってもらった恩人への愛情に、何も出来ない自分を恥じたのである。

「だから……だからです……ね、先生。頼むからッ! そんな顔せんで下さい!」

 そこでファラクは、車に乗ってから今に至るまで、言うなればこの子供の名前を付ける間も、一回もステブを見てない事に気付いた。
 フロントガラスの映り込むステブと言う獣人は、その白いたてがみをぐしゃぐしゃに濡らしながら、ファラクに懇願した。

「ファラク先生、頭の悪い俺らには、先生が何をしたのかは分かりません。
 でもね、それでも、先生は俺ら獣人の希望であり勇気の象徴なんです!
 俺はあなたのおかげで、あのスラムでクズに堕ちるのを踏みとどまった奴を何人も知ってます。
 俺も、母ちゃんも、ギラースも、ロウブだって、その1人なんです!
 だから、頼みます。そんな、情けねえ顔するのはやめてください」

「……すまない。私はーー」

 『なんて、情けない男なんだ』
 そう思わざるを得なかった。
 なんのために今まで戦ってきたのかを、ファラクは
決して見失った訳では無い。

 しかし今、何年も付き合いのあるステブという獣人が、男泣きする程に心配をかけている事実が、ファラクにはとても恥ずかしく情けない事だと、そう思わざるを得なかったのだ。
 これ以上恥の上塗りを重ねたくないと思ったファラクは、ステブに胸中を告白する。

「ステブ、実はなーー」

 国家機密に関わることなので、ファラクは詳細はクライドン計画やMP撤廃などの説明は避けた。
 ただ、自身の過去の失敗が元で失脚した事。
 近い内にメリットで隠居をしなければならなくなった事実などを淡々と話した。
 それを、ステブはじっくりと噛み砕くように聞き終えた。

「先生、メリットでの運転手は必要ですかい?」
「勿論だ。ステブ、一緒に来てくれるか?」

「あたりめーっすヨ。先生の運転手の座は誰にも渡さないです」
「フフっありがとうステブ。ただ、訛りが出ているぞ」
「こりゃいけねぇ」

 ステブは、逆に家が近くなって都合が良いなどと言いファラクを励ます。
 ファラクもようやく周りが見える余裕が出てきたところで、ステブは急に車を止めた。

「先生、病院に寄りますかい?」

 そこで、自分の手を見たファラクは血塗れになって腫れている事実に気付く。

 『ああ、これすらもステブは見抜いていたのか』
 気付くと同時に少し痛みが襲っては来るが、ファラクは家に帰る事を優先した。

「いや、帰るよ」
「了解しました」

 やがて車はファラク邸の前にとまると、ステブは恩人の怪我を想い、わざわざと外に出て後部座席のドアを開けた。
 公人の運転手であれば当然の行為だが、ファラクは「開ける手ぐらいある」との理由で初回以降断っていたのである。

 懐かしさを感じるその行為をファラクは少し笑みを浮かべ受け入れた。
 ファラクはまた連絡を入れるとステブに告げると、そのままステブは車に乗り込み去っていった。

「さて、カタリナは……許さんだろうな」

 ファラクは思わず不安を口にする。
 2人で住むにはそこそこに大きい一軒家の扉の前で、自宅にも関わらず緊張しているのをファラクは感じていた。

ーーーーーーーーーーーー

「ただいま」
「ふむ、帰って来たか。今行く」

 玄関でファラクは待っていると、いつものパンツスタイルに、ジャケットでは無くエプロンをしたカタリナが、パタパタと台所から香ばしい匂いを引き連れ現れた。
 とっとと中に入れば良いのだが、夫婦生活においてカタリナが迎え入れてから入室するルールが二人の間で設けられている。

「カタリナ、今帰ったぞ」
「ふむ、お帰りファラク。どうする? もうすぐ食事……」

 言い終える前にカタリナはワナワナと怒りの感情のオーラを放つ。
 それは誰にも見えないが、ファラクだけはその雰囲気で察していた。

「ふむ、誰にやられた? リベンジマッチだ。行くぞ、然るべきデスコンを叩きつけてやらねばな」
「いや、違うんだ。これはなーー」

 カタリナは盛大な勘違いをしていたが、ファラクは簡単にそれを否定すると、溜息ひとつ、ファラクを迎え入れた。
 
 カタリナは鍋につけていた火を止めると、居間の端にある引き出しから救急箱を取り出す。
 テレビの前にある二人がけのソファーにお互い腰をかけると、少し不器用にカタリナはファラクの手当をし、ファラクが語るのを待っていた。

 そして、ファラクは語りだしたーー

 ファラクは、カタリナが自分を好いている理由が『MP撤廃にひた走る自分』であると思っている。
 それが出来なくなった今、愛想を尽かされるであろうと確信していた。
 それでも、感謝を込め『今までありがとう』と話を締めくくった。

 それをじっくりと聞き終えたカタリナは、先程より強めの溜息をこぼした。

「なんだ、ただの引っ越しではないか。てっきり暗殺者に狙われたのだと心配したぞ」
「引っ越し……いや、言い換えればそうなんだが、カタリナ、私に失望していないのか?」

 カタリナはファラクの質問に、とっても深い溜息をつく。

「守る家が変わるだけであろう? 何を失望するのだ?」
「いやな、私はもうお前が求めるファラクにはなれないからな、そう聞いたんだ」

 カタリナの溜息は止まらない。
 まるで、お使いが出来ない子供を見るかのような表情で、ファラクを見つめている。

「ふむ、もしかしてファラクよ、ステブにも同じような事をしなかったか?」
「う、なぜそれを!?」

 カタリナの溜息は、終着点へ向かう。
 そのキリっとした目でファラクに視線を向けると、カタリナはファラクの上着を雑に掴み引き寄せる。
 お互いに今にもくっつきそうな顔の距離になったあと、カタリナは優しく諭す。

「ファラクよ、救った者の顔ぐらい覚えておけ」

 ファラクの次句をカタリナは許さず、優しく口付けをする事で、ファラクを許した。
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