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猛り狂う風に長い黒髪をなぶるに任せたまま、黒衣の魔女は呪文を唱え続けていた。
彼女の放つ言霊は周囲のエーテルを振動させ、エーテルの振動は次元を越えて精霊を導く。常人の目には何も見えないこの漆黒の虚空にあっても、彼女の操る魔法は歴然として効力を発揮しつつあった。
彼女の背後には、圧倒的な大きさで、円く、紅い月が迫る。風は、その月の中心付近の一点から吹きつけ、彼女の眼前の、彼女から月と点対称の位置にある地球に吹き降ろす。そして、地球からは、己の渇望する何かを月から毟り取ろうとする腕とも、飢えをしのぐ為に月をむさぼろうとする口ともつかない何かが、太平洋から湧き上がりつつあった。
「何故、抗うのです?」
その沸き立つ異形の先端から、声がする。
「あなた方と私たちには、協力する理由こそあれ、敵対する理由はないと、思っていたのですがねぇ……」
仕立てのいい麻のスーツを着込んだ、麻黒い肌の男が、風に飛ばされないようパナマ帽を気障に押さえたまま、訊く。
黒衣の魔女は答えない。ただひたすら、呪文の詠唱を続ける。この男が無理やりこじ開けた扉を閉めるために。
「……なるほど、どうあっても通廊を閉めようというのですね。でも、そうすると、あなたも通廊の外に取り残されますよ?よろしいのですか?」
呪文を唱える魔女の口元が、わずかに歪んだ。微笑、などという優しいものではない、それは諦めか、あるいは自嘲の笑みであったのか。
鈍く輝く銀の短剣を眼前にかざした魔女の詠唱の声が、ひときわ大きくなる。
「……偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子たる我、この魔女リュールカの名において。精霊よ、遅れることなく速やかに現れ出でて、我の求めるところを成し遂げよ!精霊よ!今一度、この扉を封じよ!」
リュールカと名乗った魔女の背後で、ぐにゃり、月が歪む。見る見るうちにそれは本来あったはずの大きさに縮み、あるべきはずの遠き彼方に戻る。吹き荒れていた暴風が、急激に弱まる。同時に、眼下に広がる暗い海の底からそそり立つ異形の柱も、急速にしぼみ、四散してゆく。
「やれやれ、とんだ無駄骨折りになってしまいましたか。……まあ、あなたが出てきた時点でこうなる気はしていたのですがね……仕方ない、御大には今一度、眠りについていただきますか」
男は、足元で霧散して行くその「何か」を一瞥し、すぐに視線を魔女に戻す。
「それで、あなたはどうするのですか?今更、月に戻るにしても、精霊を使役するに足る源始力もお持ちではないでしょうに?」
その言葉は、もはや魔女の耳には届いていない。力を使い果たした魔女は、ただひたすら、地球の重力に引かれて落ちてゆく。ゆっくりと。まだ残るいくばくかの風に、黒衣と黒髪をなびかせながら。
「……まあ、そんなところでしょうねぇ……まあ、いいでしょう。まあまあ楽しめましたから、私は満足です。それでは、私もそろそろお暇いたしましょう。ここは、生ける者が居るには、少々酷な所のようですから。」
軽く空を一蹴りし、男もスーツの裾をはためかせながら地球に下りてゆく。魔女を追うわけでもなく、あくまで気障に、帽子を押さえながら。
この日、二つの流星が欧州に落ちた。
彼女の放つ言霊は周囲のエーテルを振動させ、エーテルの振動は次元を越えて精霊を導く。常人の目には何も見えないこの漆黒の虚空にあっても、彼女の操る魔法は歴然として効力を発揮しつつあった。
彼女の背後には、圧倒的な大きさで、円く、紅い月が迫る。風は、その月の中心付近の一点から吹きつけ、彼女の眼前の、彼女から月と点対称の位置にある地球に吹き降ろす。そして、地球からは、己の渇望する何かを月から毟り取ろうとする腕とも、飢えをしのぐ為に月をむさぼろうとする口ともつかない何かが、太平洋から湧き上がりつつあった。
「何故、抗うのです?」
その沸き立つ異形の先端から、声がする。
「あなた方と私たちには、協力する理由こそあれ、敵対する理由はないと、思っていたのですがねぇ……」
仕立てのいい麻のスーツを着込んだ、麻黒い肌の男が、風に飛ばされないようパナマ帽を気障に押さえたまま、訊く。
黒衣の魔女は答えない。ただひたすら、呪文の詠唱を続ける。この男が無理やりこじ開けた扉を閉めるために。
「……なるほど、どうあっても通廊を閉めようというのですね。でも、そうすると、あなたも通廊の外に取り残されますよ?よろしいのですか?」
呪文を唱える魔女の口元が、わずかに歪んだ。微笑、などという優しいものではない、それは諦めか、あるいは自嘲の笑みであったのか。
鈍く輝く銀の短剣を眼前にかざした魔女の詠唱の声が、ひときわ大きくなる。
「……偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子たる我、この魔女リュールカの名において。精霊よ、遅れることなく速やかに現れ出でて、我の求めるところを成し遂げよ!精霊よ!今一度、この扉を封じよ!」
リュールカと名乗った魔女の背後で、ぐにゃり、月が歪む。見る見るうちにそれは本来あったはずの大きさに縮み、あるべきはずの遠き彼方に戻る。吹き荒れていた暴風が、急激に弱まる。同時に、眼下に広がる暗い海の底からそそり立つ異形の柱も、急速にしぼみ、四散してゆく。
「やれやれ、とんだ無駄骨折りになってしまいましたか。……まあ、あなたが出てきた時点でこうなる気はしていたのですがね……仕方ない、御大には今一度、眠りについていただきますか」
男は、足元で霧散して行くその「何か」を一瞥し、すぐに視線を魔女に戻す。
「それで、あなたはどうするのですか?今更、月に戻るにしても、精霊を使役するに足る源始力もお持ちではないでしょうに?」
その言葉は、もはや魔女の耳には届いていない。力を使い果たした魔女は、ただひたすら、地球の重力に引かれて落ちてゆく。ゆっくりと。まだ残るいくばくかの風に、黒衣と黒髪をなびかせながら。
「……まあ、そんなところでしょうねぇ……まあ、いいでしょう。まあまあ楽しめましたから、私は満足です。それでは、私もそろそろお暇いたしましょう。ここは、生ける者が居るには、少々酷な所のようですから。」
軽く空を一蹴りし、男もスーツの裾をはためかせながら地球に下りてゆく。魔女を追うわけでもなく、あくまで気障に、帽子を押さえながら。
この日、二つの流星が欧州に落ちた。
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