御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒

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第6章 千尋の元カレ

「律さん……ごめんね。疲れてるのに夕食まで……」

私は慌てて靴を脱ぎ、急いで着替えてエプロンを手に取る。

「いいんだよ。今日は早く帰れたから、たまには俺がやろうかなって思って。」

振り返った律さんは、いつもの優しい笑顔だった。

その笑顔が、今日の疲れをふわっと溶かしてくれる。

手を洗いながら、ふと胸の奥から込み上げてきた疑問が口を突いた。

「……律さんは、もし私が“神楽木フォールディングスを捨てて”って言ったら、捨てられる?」

律さんは手を止めた。

そして、ゆっくりとフライパンを置いて、私の方を見た。

「何、それ。随分と難しい質問するね。」

でも、笑ってはいなかった。

「たとえば……政略も、跡継ぎも、全部やめて。普通の人として、私だけを選んでくれるかって聞いてるの。」

自分でも驚くほど真剣な声だった。

律さんはしばらく黙ったまま、私の前まで来て、そっと私の頬に触れた。

律さんが、私の頬にそっと触れた。

「全部は捨てられない。でも――」

その声はとても静かだったけれど、胸の奥に響いた。

「それで千尋を捨てたりしない。たぶん……俺なりの“共存”の仕方を選ぶと思う。」

――共存。

その言葉に、張り詰めていたものが一気に崩れていくのが分かった。

「……ううっ……」

こらえきれず、声を漏らしてしまった。

涙が頬を伝い落ちる。

共存の道。

本当は、あの時、悠太ともそれができたのかもしれない。

でも彼は、私に問うこともせずに、自分一人で結論を出してしまった。

私の意志を聞くこともなく――

「千尋……」

律さんが私を、力強く抱きしめてくれる。

その胸に、私は顔をうずめた。

あたたかい。
やさしい。
迷わず、私を守ろうとしてくれる腕の中。

その時、律さんが腕を伸ばして、コンロの火を静かに消した。

「晩ごはんは、後でいいよ。千尋の涙、乾くまで、ずっとこうしてる。」

囁くような声に、胸がじんわりと熱くなった。

「今日……元カレと会ったの。」

食後のテーブル。静かな空間に、私の言葉がぽつりと落ちた。

「……ああ、長く付き合っていたっていう?」

律さんが箸を置いて、私の目を見た。私は、うつむいたまま話し出した。

「彼……ロンドンに行ってたって。そして言われたの。『おまえは、仕事も家族も捨てて俺を選ばなかった』って。」

胸の奥がちくりと痛んだ。

あの言葉が、心に爪を立てる。

「……10年も付き合った相手に、そんな風に思われてたなんて……私、そんな女?」

そう言いながら、涙がポロポロと頬を伝った。

「そんな冷たい女だって、ずっと思われてたのかな……」

恥ずかしいくらい、情けなくて。悔しくて。

でも何よりも、自分の価値が、ぐらぐらと崩れていくような気がして。

その時だった。

律さんが、私の涙をそっと指で拭った。
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