御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】

日下奈緒

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第1章 0日婚の申し込みととまどい

エレベーターホールまで来ると、彼がボタンを押し、扉が開くと私を先に乗せてくれた。

誰もいない空間に、わずかな緊張が走る。

──そういえば。

ふと、思い出してしまう。

元カレは、こういうことをしてくれる人じゃなかった。

駅まで見送ることもなく、「帰るなら気をつけて」とLINEで済ませるような人だった。

でもそれでいいと思ってた。

恋人なんだから、そんなことは形式的で、必要ないって──

……違う。私は、彼のことが好きだったから、そう自分に言い聞かせてただけなんだ。

10年も一緒にいられた理由はただひとつ。

彼を、純粋に好きだったから。

──けれど、それだけじゃ結婚はできなかった。

そんな思考に沈んでいると、途中の階でエレベーターが開いた。

「あ……」

数名の社員が乗り込んできて、私と神楽木さんの姿を見た瞬間、ほんのわずかに空気が変わった。

「部長、お疲れさまです。」

「ああ。」

神楽木さんは軽く頷き、私にも目を向ける。

そして、次の階でもまた扉が開き、今度は数人が一斉に乗り込んできた。

さすがは一流企業──出入りする人の数も、スーツの質感も、どこか漂う空気感さえ違う。

私は自然と身体をすぼめ、他の人にぶつからないように立ち位置を調整する。

──その時だった。

「……狭くないですか?」

低く抑えた声が、耳元に落ちてきた。

ドキッとする。

反射的に振り返りそうになって、けれど横を向けない。

距離が近すぎて、顔を向けたら頬が触れてしまいそうだから。

神楽木さんは、ほんの僅かに私の前へと身体をずらしていた。

そして、彼の手がそっと壁に添えられている。

まるでガードするように。──他の人が、私に近づけないように。

誰にも気づかれないように、自然に。

でも、確実に“守られている”と感じられる距離感。

胸がじわっと熱くなった。

──こういうところなんだ。

誰にも媚びない。けれど、誰かを守る強さがある。

御曹司という立場に甘えず、実力で“部長”に就いている理由が、ほんの少しだけわかった気がした。

一言も声を上げず、何も言わないその仕草に、

私はまた、心を静かにかき乱されていた。

ふと、視線を感じて顔を上げると、神楽木さんと目が合った。

その瞳は、まっすぐで真剣で──でも、どこか優しさを含んでいた。

まるで、そっと見守ってくれるような、そんな眼差し。

心臓が、また跳ねた。

こんな人だったら、もしかして……

結婚しても、いいのかもしれない──

……って、私はなにを考えてるの?

我に返って、ぐっと目を伏せた。

相手は、神楽木律。

一流企業の御曹司で、会社の部長。

私とは住む世界が違う。

たまたま今、偶然仕事で関わっただけで、私なんかが結婚の対象になるなんて、あるわけない。
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