お飾りの妃をやめたら、文官様の溺愛が始まりました 【完結】

日下奈緒

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第2章 追放の噂 ④

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それは、きっと喜びなんかじゃない。

ようやく訪れた“寵愛”の機会。

でも、それは愛される妃としての証ではなく――

ただ、返されぬための一夜。

そんなもの、私が本当に望んでいた関係ではなかった。

その夜。

私は、皇帝陛下の夜伽を務めるために、湯殿へと向かった。

湯気の立ちこめる室内に、静かな湯音だけが響く。

「皇帝陛下は、**茉莉花(まつりか)**の香りをお好みですので。」

そう言った侍女が、白い布に包まれた花びらを湯の中へそっと浮かべた。

瞬く間に、ふわりと甘く、清らかな香りが広がる。

その香りが、湯気とともに私の肌に染み込んでいく。

「……」

私の指先は震えていなかった。

けれど、心はまるで深い水底に沈んでいくように、静かに落ちていった。

「お綺麗ですよ、お妃様。」

侍女の言葉に、私はただ小さく笑ってみせた。

それは、お世辞にもなぐさめにもならなかった。

湯から上がり、肌を整え、髪を梳かれる。

そして私は、自分の部屋に戻ると、そっと引き出しを開けた。

そこにあったのは――

妃になった日に、皇帝から授けられた一本の簪(かんざし)。

金細工に、淡い青玉があしらわれた繊細な意匠。
私はそれを、静かに髪に挿した。

たった一晩のために。

けれど、それでも。

私は――

“皇帝の妃”として、今夜を生きるのだと、そう決めた。

その時だった。

衣を整え、薄紅を差し、鏡に向き合っていた私の目に――

窓辺に立つひとつの影が映った。

「……おや。」

涼しげな声が風とともに届く。

「今宵は、たいそうおめかししてますね。」

「――周景文!」

私は思わず立ち上がり、周囲を見渡した。

戸も開けていないのに、彼はいつの間にかそこにいた。

「どこから入ったのですか……!」

「どうしたのですか?」

彼はおどけたような口調で、けれどその目は笑っていなかった。

「まさか……皇帝からの夜伽の晩を仰せつかったとでも」

「……その通りです」

私は、うつむくようにそう答えた。

まるで罪を認めるような声音になってしまったのが、悔しかった。

すると、景文はそっと立ち上がり、すっと手を伸ばして――私の頬に触れた。

「……それは、よかったですね。」

指先が優しくも寂しく、私の肌をなぞる。

その言葉がどうしても、胸に突き刺さった。

よかった、なんて――

嘘を言わないで。

景文は手を離し、背を向けた。

まるでこれ以上、感情を見せたくないかのように。

「――違うの!!」

思わず、叫んでいた。

私は景文の背中に向かって、言葉を投げた。

「本当は……!」

声が震えながら、私の喉からあふれ出す。

「本当は……今夜限りだって、そう言われてるの!」

景文の背に向かって叫んだその瞬間、頬に、涙がつっと伝った。
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