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第3章 拾われた妃 ①
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気づけば、私は――
景文の手を取っていた。
「……はぁ、はぁ……」
夜の風を切るように走った。
宮殿の外れを抜け、人目を避け、ただ黙って走った。
静まり返った道の先、やがて目に入ったのは、灯のともる立派な屋敷だった。
「ここが……あなたの屋敷?」
「……ああ」
息を切らしながら答えた景文は、私の体を迷いなく抱きかかえるようにして門をくぐった。
「旦那様、お帰りなさいませ。」
使用人の男が深く頭を下げたあと、私に気づいて目を見開く。
「旦那様……その方は……?」
「――翠蘭だ。」
景文は、私を見下ろすように優しく言った。
「……翠蘭様?」
使用人が思わず息を呑んだ。
その響きが、初めて“妃”ではなく“私”を呼んだ声のように思えて――
胸が、少しだけ温かくなった。
この夜、私は拾われた妃になった。
誰かの命令でも、義務でもない。
自分の足で選び、自分の意思で逃げた女として――
そして、やっと一人の“女”として、誰かの胸に抱かれようとしていた。
「……どうぞ。」
そう言って景文に案内されたのは、屋敷の奥の静かな部屋だった。
「ここは?」
私は戸惑いながら尋ねる。
「――俺の寝所だ。」
その言葉に、胸がドクンと跳ねた。
寝所。
男の、寝所。
まさか……私は今夜……?
頭では理解しきれないほどの速度で、思考が渦を巻く。
体がふるふると震えだした。
その揺れに気づいたのか、景文がそっと私の肩を抱いた。
「安心していい。今夜は、何もしない。」
その声は優しく、まるで母が子を寝かしつけるようだった。
「ゆっくり休むといい。」
そう言い残し、彼はすぐに部屋をあとにした。
ぽつんと残された寝所に、私はひとり横たわった。
部屋の天井を見つめる。
目を閉じても、心臓の音が大きく響いていた。
「……やってしまった。」
私は、小さく声に出して言った。
逃げてきてしまったのだ。
宮殿を、皇帝を、義務を、妃という立場を――
全部投げ出して、この場所に来てしまった。
けれど同時に、胸のどこかが安堵しているのも確かだった。
茉莉花の香りはもう、肌から薄れていた。
そして初めて、私は“女”ではなく、“ただの私”として眠りに落ちていった。
翌朝。
私は、目を開けてすぐに――自分のしたことを反省した。
何も、逃げることはなかったのではないか。
嫌だったなら、きちんと「嫌です」と言えばよかっただけ。
寵愛を望まないのなら、そう言えばよかった。
でも私は……何も言えずに、ただ逃げた。
「……宮殿、騒ぎになってるかしら。」
景文の手を取っていた。
「……はぁ、はぁ……」
夜の風を切るように走った。
宮殿の外れを抜け、人目を避け、ただ黙って走った。
静まり返った道の先、やがて目に入ったのは、灯のともる立派な屋敷だった。
「ここが……あなたの屋敷?」
「……ああ」
息を切らしながら答えた景文は、私の体を迷いなく抱きかかえるようにして門をくぐった。
「旦那様、お帰りなさいませ。」
使用人の男が深く頭を下げたあと、私に気づいて目を見開く。
「旦那様……その方は……?」
「――翠蘭だ。」
景文は、私を見下ろすように優しく言った。
「……翠蘭様?」
使用人が思わず息を呑んだ。
その響きが、初めて“妃”ではなく“私”を呼んだ声のように思えて――
胸が、少しだけ温かくなった。
この夜、私は拾われた妃になった。
誰かの命令でも、義務でもない。
自分の足で選び、自分の意思で逃げた女として――
そして、やっと一人の“女”として、誰かの胸に抱かれようとしていた。
「……どうぞ。」
そう言って景文に案内されたのは、屋敷の奥の静かな部屋だった。
「ここは?」
私は戸惑いながら尋ねる。
「――俺の寝所だ。」
その言葉に、胸がドクンと跳ねた。
寝所。
男の、寝所。
まさか……私は今夜……?
頭では理解しきれないほどの速度で、思考が渦を巻く。
体がふるふると震えだした。
その揺れに気づいたのか、景文がそっと私の肩を抱いた。
「安心していい。今夜は、何もしない。」
その声は優しく、まるで母が子を寝かしつけるようだった。
「ゆっくり休むといい。」
そう言い残し、彼はすぐに部屋をあとにした。
ぽつんと残された寝所に、私はひとり横たわった。
部屋の天井を見つめる。
目を閉じても、心臓の音が大きく響いていた。
「……やってしまった。」
私は、小さく声に出して言った。
逃げてきてしまったのだ。
宮殿を、皇帝を、義務を、妃という立場を――
全部投げ出して、この場所に来てしまった。
けれど同時に、胸のどこかが安堵しているのも確かだった。
茉莉花の香りはもう、肌から薄れていた。
そして初めて、私は“女”ではなく、“ただの私”として眠りに落ちていった。
翌朝。
私は、目を開けてすぐに――自分のしたことを反省した。
何も、逃げることはなかったのではないか。
嫌だったなら、きちんと「嫌です」と言えばよかっただけ。
寵愛を望まないのなら、そう言えばよかった。
でも私は……何も言えずに、ただ逃げた。
「……宮殿、騒ぎになってるかしら。」
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