ドクターダーリン【完結】

桃華れい

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第2部

フェーズ8-14

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 遠くで雷鳴が聞こえる。冬の雷は珍しい。私はベランダに続くテラス戸から、空に広がる黒い雲をぼんやりと眺めていた。
 もう夕方だ。そろそろ晩ご飯の準備を始めようとキッチンへ向かおうとしたとき、リビングの明かりが消えた。
「停電?」
 部屋を見まわす。テレビの電源ランプや電話機のディスプレイも消えている。本当に停電のようだ。まだ外が薄っすらと明るいから、ライトがなくても周囲は見える。
 長引くと困る。懐中電灯を用意しておこう。どこにあったかな。記憶をめぐりながら探そうとしたとき、明かりが点いた。
 すぐに復旧してくれたおかげで冷蔵庫の食材への影響はなく、普段通りに食事の準備ができた。涼から連絡があるまで、しばし休憩だ。
 いつも病院を出る前に連絡をくれる。今日は二十時を過ぎてもまだ連絡がない。緊急手術でも入ったのかもしれない。今までも何度かあった。だから多少心配ではあるものの、あまり気にしてはいなかった。手術中なら連絡ができないのは当然だ。むしろ連絡がないことで手術中だろうと考えていた。
 リビングでテレビを見ながら待っていたら、二十一時近くになって電話が鳴った。携帯電話ではなく固定電話、それもこの時間だ。嫌な予感がして、すぐに私は手元のリモコンでテレビを消して電話を取った。
「はい、神河です」
「もしもし、彩ちゃん? 臨海総合病院の澄です」
 涼なら携帯電話のほうにかけてくるはずだから、違うとは予想はしていた。だからといって澄先生からかかってくるなんて。涼に何かあったということだ。胸がざわつき始めるのを感じていると、先生が続けた。
「実は、神河先生が怪我しちゃったんだ」
「怪我!?」
 最悪な事態も含めて、一瞬の間にいろいろな可能性が頭をよぎる。
「階段から落ちて頭を打ったみたいで。CT撮ったら軽い脳震とうってことなんだけど、大事を取って一泊入院させるから、着替えとかタオルとか持ってきてやってくれる? こんな時間に悪いんだけど」
「すぐに行きます。彼は大丈夫なんですか?」
「さっきまで少し朦朧もうろうとしてたんだけど、今は大丈夫そう。ふらつくといけないから、俺が代わりに彩ちゃんに連絡したんだ」
「ありがとうございます」
 澄先生から病室の番号を教えてもらって電話を切ると、私はすぐに必要なものを大きめの鞄に詰め始めた。手が震える。動揺していて何を用意したらいいのかわからない。とりあえず思いつくものを入れて、足りなかったらあとで取りに帰ってこよう。
 軽い脳震とうということだから深刻な容態ではないはずだ。澄先生の話し方も落ち着いていた。いや、医者は深刻な告知をするときでさえ落ち着いているものだ。とにかく涼の顔を見るまでは安心できない。そんなことになっていることも知らずに、今までのん気にしていた自分を責めた。

 よくドラマなどで頭を打って記憶喪失になる場合がある。まさか私のことを忘れちゃったりなんてことは。そんなことを考えながら、消灯後の薄暗い廊下を急ぎ足で歩いて病室に向かった。
 教えてもらった病室の目の前まできたとき、中から女の人の声が漏れ聞こえてきた。
「申し訳ありませんでした」
 誰かいるようだけど涼の状態が気になる。私は遠慮がちにドアをノックして病室に入った。謝っていたのはナース服姿の看護師さんだった。ベッドの上では頭に包帯を巻いた涼が上体を起こしている。私を見るなり、看護師さんが一瞬戸惑ったような表情をした。
「もしかして、奥様、ですか?」
 若い看護師さんだ。私とあまり変わらないように見える。
「はい」
「結婚、してらしたんですよね」
 伏し目がちになってそう言った彼女は、あきらかにがっかりしている。
 この看護師さんはなぜここにいるのだろう。なぜ謝っていたのだろう。不思議に思っていると、彼女のほうから説明してくれた。
「停電が起きたときに、私が階段を踏み外して神河先生を巻き込んでしまったんです。すぐに非常電源に切り替わって明かりはついたんですが、その数秒の間に驚いて慌ててしまって。それで先生が怪我を……。本当にごめんなさい」
 あの停電が原因だったのか。
「看護師さんは、大丈夫でした?」
 見たところどこにも包帯は巻いていないようだ。
「神河先生が私を抱き止めてかばってくださったので、かすり傷ひとつありません」
 少し胸がチクリと痛んだ。抱き止めてあげたんだ、ふうん。こんなときに嫉妬してる場合ではない。二人して怪我をせずに済んだのは幸いなことだ。病院にとっても、患者にとっても。
「俺は大丈夫だから、君はもう仕事に戻って」
「はい。本当に申し訳ありませんでした。お大事になさってください」
 深々と頭を下げて、彼女は病室を出ていった。私はすぐに涼に駆け寄った。
「大丈夫? 私のことわかる?」
 涼はふっと笑った。
「俺の愛する奥さん」
 よかった。その笑顔を見て安心した。記憶も無事のようだ。ほっとしたのも束の間、涼が右手にギプスをしていることに気がついた。
「腕も怪我したの!?」
「ああ、手首をな。亀裂骨折、つまりひび割れ」
 外科医が手を骨折なんて。それも利き手を。
「しばらくはオペには入れない。全治一カ月ってところか。あとはリハビリ次第かな」
 そんなに休んだら涼の腕が鈍ってしまいそうだ。
 一大事だというのに、涼が何やらうれしそうに私の顔を眺めている。
「何?」
「俺を巻き込んだ看護師のことまで心配してて、やっぱりいい女だなって」
「だって、わざと落ちたわけじゃないだろうし。停電が原因なんだから、誰が悪いわけでもないよ。看護師さんにとっても災難だったはず。私もあの停電には驚いたから」
 もしかしたら、涼にかばってもらった点については、多少うれしく思っているかもしれない。
「とりあえず着替えとかタオルとかは持ってきた。他にも必要なものがあったら取ってくるね」
「明日には帰れるから大丈夫だ」
「いつも働きすぎなんだから、いい機会だと思ってゆっくり休んで」
「そうだな」
 利き手が使えなくては、しばらくは日常生活も不便だろう。私が支えなきゃ。
「ご飯は食べた?」
「ついさっき、軽く。彩は? ずっと待ってたんじゃないのか」
「うん。帰ってから何か食べる」
 こんな時間なのに不思議とお腹は空いていなかった。心配でそれどころではなかった。
「連絡できなくて悪かった。今日なんだった?」
「しょうが焼き」
「食いたかったな」
「明日食べよ。下味漬け込んであるから、きっと明日のほうがおいしいよ」
 ドアが二回、ノックされた。涼が返事をすると、ドアが開いて澄先生が顔を覗かせた。
「お、彩ちゃん、きてたか」
「連絡ありがとうございました」
 私は澄先生にお辞儀をした。
「うん。まあ、この通り利き手がしばらく使えないからさ、大変だと思うけど世話してやって」
「はい」
「ギプスは三週間くらいですか」
 涼が澄先生に確認する。
「だろうね。よかったなあ、彩ちゃんがいてくれて。結婚する前だったらいろいろ不便で大変だったろうよ」
 そう言ってもらえると、私も役に立ってるようでうれしい。
「もうこんな時間だから、俺の車で送ってくよ」
 澄先生が私を見て言った。
「でも、すぐそこですから」
「いやいや、危ないよ。本当はきてもらうときも心配だったんだ。なあ、神河先生?」
「ええ、すみませんがお願いします」
「じゃあ、支度してくるからここで待っててね」
 言い残して、澄先生はせわしなく病室を出ていった。涼が重ねて言う。
「送ってもらいな。こんな時間に一人で歩かせるわけにはいかない。澄先生なら安心だから」
「うん、わかった」
 余計な心配をかけるわけにはいかない。素直に甘えよう。
「心配かけたな。ごめんな」
「今もまだ心配だよ。もし頭の中に血が溜まってたりして、夜中に急変したらどうしようって」
 涼は私を安心させるように柔和な笑みを浮かべた。
「ちゃんと検査したから心配ないよ」
 今ごろになって涙腺が緩んできた。
「涼に何かあったら生きていけない……」
 怪我したと聞いたとき、怖くてたまらなかった。きっと無事だと思いながらも、顔を見るまでは不安で仕方なかったの。
「大丈夫だ。ずっと一緒にいるって約束したろ?」
 結婚したときにそう言ってくれたことを思い出して、私は笑顔を作った。
「そうだね」
 涼が怪我をしていない左腕を広げた。私はその腕の中に収まり、頭には触れないようにしながら彼の首に腕を回した。あったかい。涼が私の胸に顔を埋めて、ゆっくりと大きく息を吐いた。
「世界で一番安心する場所だ」
 胸がきゅっと締めつけられる。そうだよね。階段から転落して頭を打ったんだもの。痛かったし、怖かったはず。朦朧とするくらいだったんから、命の危険も感じたかもしれない。
「よしよし、怖かったね」
 子どもをあやすように涼の背中を撫でた。彼がくすっと笑った。
「ごわごわしてる。夏だったらよかったな」
 寒いから重ね着をしてニットを着てきた。胸の感触が伝わりづらいことをぼやいているのか。こんなときに何を言ってるんだか。でもいつもと変わらなくてちょっと安心した。
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