犬の独り言

ぼうっとした犬

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短編詰合せ・壱

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 明朝の雲

 今宵はやけに眠りの浅かったものだから、私は寝床から抜け出して煙草の箱とライターを手に、ベランダの掃き出し窓を開けた。もう師走だからか、ひゅう、と勢い良く入り込んだ風が冷たい。思わず身を縮めて閉め直すが、中で吸う訳にもいかない。せめてもの防寒として私は掛けてあった外套を一枚羽織って再び窓を引く。未だ足元の冷えが残るが、もう戻るのも面倒だったので、無造作に落ちていたサンダルを履き外へ。
 上を見れば、星の欠片も見えない真っ暗な空だ。唯一つ、一面覆う朧雲を通して見える月を除いては。あれを朧月なんて云って風情を語る者も居るが、全く私には分からない。霞んで輪郭のはっきりとしないものを見て何が善いのか。どうせ見るのならば、もっと綺麗に見たいだろうに。なんてことを考えながら煙草を咥えて、火をつける。肺に回る煙草が、私の身体を暖める。其れを惜しむように私はゆったりとけむを吐いた。
 この時期は吸わずとも勝手に息は白くなるが、其れとは別に私はこの煙が好きだ。常に周りを漂う大気とは違う独特のうねりを見ると、つい目で追ってしまう。私は其れを見たいが為に、又た肺へと深く流し込み、一瞬息を止めて、吐く。異なる気体と混ざり合い溶け込んだ瞬間、最早煙草とは呼べなくなる。いや、ひょっとすると、もうこの世の空気全ては煙草なのかもしれない。そうあって欲しい。当分、少なくとも生きている内には叶わぬであろうことを、私は。──
 そんなことを考えている間に、もう月は夜の役目を終えようとしていた。右を向けば、今日も私達を照らそうと光る恒星が顔を出している。漸く眠気も来たので、すっかり吸い終わった煙草を捨て部屋に戻る。明けの空に浮かぶ雲は低く、夜の影を乗せて消えた。



 
 爪先

 学生の頃は、服も髪もらしくあれと揃えられたもので、歩く姿を見かければ、皆体躯で見分けたものです。私はと言えば、勿論云われた通りに短く切って、買わされた学服に袖を通して、何でもはいはいと頷いてました。
 けれども、私は羨ましくも思う時がありました。風に揺れる女袴が、三つ編みに結われた長い髪が、私には憬れるものでありました。しかし、それと同時に、私と彼女らでは交われぬ一線がある。そいつをひしひしと感じたのです。
 ある日私は、母に云われ夕飯の買出しに行きました。今夜は鰤大根だそうで、鰤を三切れ買うついでに醤油を一本。其れが入った袋を片手にもう帰ろうとしていた時、不図、路上で化粧品を売っているのが目に入ったのでございます。いつもなら、寄りたい気持ちを我慢して、家に帰っては後悔していたのでしょう。然し、何を思ったか、私は少ない小遣いを確認して、気が付けば、爪紅を手に帰路についておりました。其れから家に着くまでは、これを何処に隠そうか、叱られやしないか等と冷や汗をかきながら考えました。けれども帰ってみれば母も父も出掛けていて、私は急いで頼まれたものを仕舞い自室に戻り、早速、爪紅の瓶を開けたのです。ツンとした臭いが辺りへ広まり、私は又た気分が上がりました。いつも母がしていたように、見たままを真似て、足の先に、ゆっくりと、塗りました。親指から小指まで塗り終わった時、何だか私は急に自分がいけないことをしているような心持になったのでございます。急いで落とそうとしましたが、乾いた爪紅の落とし方も判りません。兎に角私は足袋を履き、何食わぬ顔で過ごそうと思いました。バレぬなら、このまま。何せこんな足先なのだから。
 今日もまた、爪先へ私の哀しみを。




 いき

人通りの多い道路の脇。いつか此処で、鳩が死んでいたことを私は思い出した。あれはそう、今朝から腹が痛むと医者に診せに行く途中。頭を失くし、肉は抉れ、首の骨は剥き出しに。それでも胸から下は未だ生きているのではと思わせる様な綺麗な身体で落ちていた。道行く者は皆気味悪がって避けていたのを憶えている。其れに私は、何故か強く惹かれた。二三歩誘われるように寄ればしゃがみ込んでじっと観察する。この抉れ方は、鴉にでも突かれたか。誰かに心臓を取られてしまったようにも見える。そうして見るうちに、不図私は違和感を感じた。何かゞ足りぬ。私は又た死骸の全体を仔細に眺める。そして気付いた。この死骸の周りには血溜まりどころか其の血が落ちた跡さえ無いのだ。ひょっとすると、この鳩は別の場所で死んだのかもしれない。では何処で? 誰か親切な者が運んだのだろうか、だとすればもっと人目のつかぬ場所に置く。其れ共、鳥という種族は血が少ないのか。虫には血でなく体液が流れていることは知っている。……そういえば、生き物は皆赤い血が流れているのだと、私は勝手に思っている時期があった。
 小さな頃である。無垢な私は善悪を知らず、虫を見掛けては潰していた。その時は未だ、血がどうだのとは何も思わなかった。ある時、一匹の蟻を潰そうと手に持つ枝を真っ直ぐ下ろした。すると、おかしな潰し方をしたのだろう、腹の皮が綺麗に破れ、中から橙色をした腹が顔を見せたのだ。その時私は初めて、漸く、「生き物」を意識した。動かなくなった其の命から、暫く目を離すことが出来なかった。
 きっとこれも、同じ感覚なのだろう。出会った生命の神秘、其れを賞賛はしないが、感謝はしよう。私はその時に撮った寫眞を眺めながら、心で合掌をした。
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