金懐花を竜に

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幕間【6章~終章の間のお話】

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 二日後の夜は風が強かった。決してカラリナにそそのかされたわけじゃないが、たまたま仕事が早く片付き身体が空いたので、餌係、もとい世話役を代わることにした。
 そもそも北部基地で起こった問題だ。南部の人間に対応してもらっていたこと自体が特例で、正しい人員に配置が戻るだけである。断られることはないだろうと先方の執務室に向かえば、コーネリアはすでに任地に向かったとのことだった。
 ずいぶんと早い出立だな。
 嫌な予感がして、ジーグエは新しい騎竜――キギラスを駆った。
 飛んでる途中から雨が降り始めた。雷釘のうえは、八日前と何も変わっていなかった。大粒の雨にぬかるむ地面を踏みしめて、入り口の布を跳ね上げる。
 物の輪郭ばかりが浮かび上がる暗い室内に、ミスミはいなかった。
 雨の音が消える。心臓がねじられるような、嫌な感覚に冷や汗が噴き出る。
 飛び降りた?
 いや、あいつに限って、まさか。
 なら、誰かが連れだしたのか。
 誰が?
 頭を振る。周囲は飛竜隊が交代で見張っている。雷がひどいときは近寄れないが、それは協力者にとっても同じなはずだ。
 カカカ、と乾いた木を打ち鳴らすような音が響いた。警告音。キギラスのだ。
慌てて外に飛び出す。降りしきる雨のなか、目の前で一匹の白い飛竜が、まるで綿毛のように優雅に着地した。
「おや、ジーグエ殿」
 背中から降りたコーネリアは不思議そうに首を傾げながら、その長い前髪を手で払うと、ちょうど降りようとしていた同乗者に手を差し伸べる。その手を取って隣に立った男――ミスミの肩に引っかかった髪を、男の指がつまんだのを見て、ぷちんと何かが崩れた。
 黙って近寄り、ミスミの肘を掴む。跳ねのけるような抵抗を許さず、もう一方の手であごを捕らえると、いまにも反抗しようとするくちびるを塞いだ。文句が吐き出されるはずだった口内に舌をねじ込み縮こまった舌を引きずり出すと、つかんでいた身体がちょっと驚くほど大きく震えた。その反応を怯えと判断し、さらに深く口づける。
 あごをつかむ腕に立てられた爪が、ゆっくりと倒れ離れたのを確認してから、顔を放す。ふらついた身体を抱き留めながら視線を流すと、コーネリアはまだそこにいた。嫌悪も好奇もなく、たまたま遭遇した野生動物の縄張り争いを眺めるような凪いだ顔に、つい「まだいたのかよ」と本音がすべり出る。
「本来、いるべきでないのは貴殿のほうでは?」
「……任務を代わっていただいたことは、感謝します。遅くなってしまいましたが、通常業務に戻っていただいて結構です」
 最終日にいまさらなにを、と呆れられるかと思ったが、コーネリアは特に反応もなく、ふむとあごに手をあてた。
雨粒が肩を、腕を、額を叩く。ときおり雲が白っぽく光り、遠くで大鳥が黒い翼を広げている。いったい何をしているんだろう、という理性を、ジーグエは努力して手放した。両足はもう、地から離れた。あとは身一つで落ちていくだけだ。
「人たらし」という前評判からは想像できないほど相手は意外にも冷静で、ゆえに何が飛び出てくるかわからない藪を覗いているような感覚があった。その底知れなさはかえってジーグエを煽り、迷いやためらいはそぎ落とされ、ひとつのことしか考えられなくなる。
「『英雄』殿といえど、職務的には私の方が上である、そう認識しているが、ちがうか?」
「おっしゃる通りです」
「では、不名誉な除隊処分となることも覚悟のうえというわけだな」
 は、と嘲笑が転がり出た。覚悟なんて、すこしもある訳がない。ミスミが裏切ったときも、それを追いかけたときも、谷に落ちた時だって、いつもいつもただの衝動だ。でもバカみたいな単純さだって悪くないことを、ジーグエはもう知っている。
「ごちゃごちゃうるせえな」
 濡れた服が肌に張り付いて煩わしい。けれど、黒い髪が張り付いた首筋は悪くない。指を差し込んで髪を梳き、あらわになった白い耳朶にくちびるで触れてから、ジーグエはコーネリアをにらんだ。
「邪魔だって言ってるのがわからないのか?」
 勝算も戦略も見通しだって何もなかった。ただ、奇跡的にきょうまで生きていたこの男を、もう手の届かないところに置くのは嫌だった。後先考えるのは、こいつを手元に収めてからで十分だ。それが自分の本音だと、ようやく認めた。
 コーネリアはようやく遊び人らしく首をすくめて、「お幸せに」と片手を上げると背を向けた。「お幸せに」。なんて皮肉だろう。先ほどまでの煮えるような嫉妬は消え、代わりに悪友に向けるような笑いがこみ上げる。次の瞬間にも死ぬかもしれない、たとえ無事に夜が明けたとしても、処分は免れない、そんな状況で「お幸せに」と言えるあの男なら、本当に南部の女たちくらい抱き尽くしているのかもしれない。
 笑いをかみ殺しながらジーグエはキギラスを呼ぶと、片手一本で鞍を外した。女の下着より外しなれたそれは、ひとりでに剥がれるように落ちる。
「俺はここに残る。おまえは帰って、明日の朝また来てくれ。死体は食ってもいい」
 腕のなかの身体がこわばる。ぐっと首を持ち上げたキギラスは、価値を推し量るようにじっとこちらを見つめてから、大人しく基地の方角に向かって飛び去っていった。死体を食ってもいいと言ったのが効いたのか、それとも別の理由があるのかはわからない。
 いつまでも雨に打たれる趣味はないので、右手に鞍を、左手にミスミを抱えたまま、ジーグエは家のなかに押し入った。
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