歪んだ日常の片隅で

暁基朋也

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替えのシャツ

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駅前の雑居ビルにある小さな事務所で、佐野正雄は事務職として働いていた。
業務内容は地味で、特にやりがいを感じることもないが、静かで人との衝突も少ない。
定年まであと数年。波風の立たない毎日に、彼はそれなりの安らぎを感じていた。

朝は6時に起き、パンと缶コーヒーの朝食を取り、7時40分には最寄駅のホームに立つ。
事務所では書類の整理や簡単な入力作業を淡々とこなし、17時ちょうどに退社。
スーパーで割引の弁当を買い、家に帰ってテレビを見ながら晩酌をする。
風呂に入って、ニュースを見て、23時には床につく。

平凡で、何の変哲もない日常。
だが、その“変わらないはず”の生活の中に、ある日を境に奇妙な違和感が入り込んだ。

洗濯カゴの中に、見覚えのない白いYシャツが混じっていたのだ。

アイロンがけされたシャツは、形こそ正雄がいつも着ているものに似ていたが、サイズが合わない。
タグには「S」の文字。首元が明らかに細い。
「俺はLのはずだが……」
最初は、自分のものではないと思って捨てた。誰かの洗濯物が風で飛んできたのかもしれない、と。

だが、それは一度きりではなかった。
数日後、また同じようなSサイズのYシャツが洗濯カゴに入っていた。
それから、毎週1枚ずつ、知らないシャツが紛れ込むようになった。

最初の数回は、何かの偶然だろうと流していた。
だが、それが三度、四度と続き、合計で7枚を数えるころには、さすがに不気味さが勝っていた。

ある日、帰宅して物干し竿を確認すると、乾いたYシャツの襟元に赤黒いシミがついていた。
乾いてこびりついたそれは、血のようにも見える。
思わず顔を背け、胸の奥に重いものが沈んだ。

「誰かが――俺の家に入り込んでいるのか?」

正雄はひとり暮らしだ。
妻は3年前に病で亡くなり、娘は結婚して都内で暮らしている。
合鍵は渡していないし、業者が出入りする予定もなかった。

あまりにも気味が悪くなり、正雄はふと思い出した。
――妻が生前、使っていた押し入れの小さな木箱。
いつの頃からか鍵がかけられ、彼は中を見たことがない。
だが、その夜、衝動に駆られるように、針金を使って鍵をこじ開けた。

中には、何十枚ものYシャツのタグが無造作に詰め込まれていた。
どれも「S」の文字が印字されている。
いくつかは端が焦げたように黒ずみ、他のものには赤い染みが浮かんでいた。

ぞっとして、正雄は箱を元に戻し、押し入れを閉めた。
何かを見てはいけないものを見てしまった気がした。

翌朝、クローゼットを開けて、彼は言葉を失った。
中にかかっていた自分のYシャツが、すべてSサイズに変わっていたのだ。

Lサイズのシャツは一枚もない。
慌てて1枚を羽織ってみると、なぜかぴったりと身体にフィットした。

「……おかしいな……」

だがその感覚が本当におかしいのか、正雄自身にも分からなくなってきていた。

その日、会社に出勤すると、妙なことに気づいた。
誰も彼に声をかけない。
朝の挨拶も、昼の雑談もない。
コピー機の列に並んでも、誰も正雄に気づかないように素通りしていく。

まるで、自分だけが“別の世界に取り残された”ような孤独感。

「……俺は……ここにいるのか?」

帰宅後、正雄は洗面所の鏡をのぞき込んだ。
そこには、どこか見覚えのない男の顔が映っていた。
額のしわが深くなり、目の下にクマができている。
だが何よりも――首が、以前よりも明らかに細くなっていた。

シャツの襟が、吸い付くように首を締めていた。
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