白衣とブラックチョコレート

宇佐田琴美

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トラウマ編

あの日の記憶

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 身体が、動かない。




 お父さん、お母さん……誰か、助けて……。



 おじいちゃん……おばあちゃん……。




 耳にこびりついた、誰かの叫び声。



 流れ続ける赤。人形のように動かなくなった家族達。その姿は、九年経った今も雛子の脳裏から離れる事はない。




『はぁっ……はっ……』




 お腹が熱い。息が上手く出来ない。




『キミっ! 大丈夫かっ!?』




 遠くにサイレンの音が聞こえる。近寄ってくる人もたくさんいるけれど、それ以上に多くの人が少し離れたところからこちらの様子を伺っている。





『まずいっ! 皆離れろっ!!!!』





 誰のものかも分からない、そんな叫び声が聞こえた瞬間。





 物凄い爆発音と共に、辺りが炎に包まれた。







「いやあああああぁぁぁっ!!!!」



 勢いよく身体を起こす。


 ここが何処か分からない。


 息が苦しい。



「はぁっ……はぁっ……、ゆめっ……?」



 顔を上げる。

 両側から鷹峯、そして恭平が雛子の顔を覗き込んでいた。


「……大丈夫か?」


「あ……は、はい……」


 恭平が雛子の頬に触れる。親指でそっと撫でられ、涙を拭われたのだと気付く。


「なかなか戻ってこないので心配したんですよ」

 鷹峯の言葉に、雛子はようやく意識が現実に戻る。

 そうだ。今皆で旅行中で、自分は確か部屋の露天風呂に行っていたはずだ。恭平以外のメンバーはまだ戻ってきていないようだった。

「外から声を掛けても返事がなかったので脱衣所に入ってみたら、そこで貴女が倒れていたんです」

「え゛っ……」

 雛子は反射的に自分の身体を見下ろす。着た覚えのない浴衣を身に付けている自分に絶望する。

「み、見たんですかっ……!?」

 泣きたくなった。よりによって恭平に見られるなど、頼むから嘘であってくれ。しかし雛子の願いは一瞬にして打ち砕かれる。

「ああ、心配するな。女子の裸など見飽きる程見ているので非常時など何も思わない」

 淡々とした恭平の言葉に、鷹峯も至極当然と言った様子で頷く。

「ですねぇ。プライベートでも仕事でも女性の身体は見慣れていますのでご安心を」

「何サラッと凄いことを……!?  じゃなくて、そのっ……」

 素っ裸ももちろん見られたくはない。だがそれ以上に。

「お腹の、傷……」

 消え入るような声で呟くのが精一杯だ。

「傷?」

 恭平が首を傾げる。

「何だ、それ?」

 恭平が困惑した表情で鷹峯を見遣る。

「……一応怪我がないか全身診察しましたが」

 鷹峯と恭平が顔を見合わせる。

「傷なんて……そんなものなかったぞ」

「えっ!?」

 信じられない。雛子はそんな思いで一度彼らに背を向け、恐る恐る自身の浴衣をはだけさせる。



「あ、あれ……?」




 そこには傷一つない、つるりとした腹部があるだけだった。

 


「そんな、私……?」



「どうした?」



 混乱した様子の雛子に、恭平が心配げな様子を見せる。



「あ……いえ……さっき、夢見て……」



 夢、だったのだろうか。



「ああ、そういえばかなり魘されてたな」



 では一体、何処からが夢で、何処からが現実なのだろうか。



「生々しい夢を見て記憶が混乱しているんでしょう。それとも頭でも打ちましたか? やはり今からでも病院で画像診断します?」


 雛子は慌てて首を横に振る。頭痛や身体の痛みなどはない。前回の海でも同じような迷惑を掛けたというのに、また自分のせいで楽しい旅行を台無しにする訳にはいかない。


「いや、大丈夫です! そっか、夢見たんだ私……。リアルな夢だったからちょっとパニックになってしまって……迷惑かけてごめんなさい」

 ちょうどその時、玄関の扉が開き女性陣と悠貴が一緒に帰ってきた。

「雛子っ、大丈夫!?」

 駆け寄ってきた夏帆の様子を見るに、どうやら雛子が倒れたことを知っているようだった。

「ちょうど売店で悠貴君に会ってね、雛子ちゃんが逆上せたみたいだって聞いて、心配して戻って来たのよ」

 真理亜が綺麗な眉を八の字に寄せる。

「ほら、これ」

 悠貴はビニール袋の中からミネラルウォーターを取り出して雛子に手渡す。

「この部屋冷蔵庫なくてさ、慌てて買ってきたわ」

 ぶっきらぼうな物言いだが、悠貴なりに雛子を心配してくれたのだろう。

「入山はひなっちの裸を見ないように、目をつぶったまま慌てて部屋を飛び出して行った」

「い、言わなくて良いっすよ!!」

 一先ず悠貴にはあられもない姿を晒した訳ではないらしく、雛子はほっとする。礼を言い受け取ったペットボトルを開け水を流し込むと、身体の中からひんやりとして頭も冷静になれた。

「皆さんありがとうございます。もう大丈夫です」

 雛子の笑みに、一同も釣られて安心したように笑う。

「全く、人騒がせな子ねぇ。夕飯までまだ時間もあるし、私達は温泉巡りに戻りましょ」

 舞が呆れた様子で皆を促すと、また連れ立ってぞろぞろと部屋を出て行こうとする。

「あ、あの!」

 そんな一同に、雛子は慌てて声を掛けた。

「今度は私も行きたいです!」

「はぁ!? アンタはやめときなさいよ!」

 置いていかれまいと慌てて布団から這い出した雛子を、舞がぎょっとして制止する。皆も一様に顔を見合せた。

「気持ちは分かるけど、無理しない方が良いんじゃないかしら?」

 真理亜も止めるが、雛子は頑なに首を縦に振らなかった。

「大丈夫です。せっかく温泉に来たんだし、私も皆と行きたいんです」

 お願いします、と頭を下げられれば、鷹峯が仕方ないと言うように溜息をつく。

「水分摂取はしっかりして下さい。あと、長湯はしないこと。清瀬さんと市ヶ谷さんが着いていますし、二人にお任せしますよ」
 
 そう言って鷹峯が肩を竦める。

「雛子、本当に無理しないでよ? 具合悪くなったらすぐに言ってね?」

「もちろんだよ。ありがとう」

 夏帆に念を押され、 雛子はにこりと頷くと女性陣は今度こそ本館へと向かっていった。

「ったくほんとーに人騒がせな奴だな……。鷹峯先生と恭平さんはどうします?」

悠貴が残った二人に顔を向ける。

「俺はちょっと寝る」

「私もまだ良いです」

 その返事を聞いて、一人で温泉を回る羽目になった悠貴もまた少しだけつまらなそうな顔をしながら部屋をあとにした。








「……」

 二人だけになると、恭平は何か言いたそうな顔で鷹峯を見遣る。

「何ですか、その目は?」

 鷹峯が訊ねる。

「……誰だ、あれは?」

 恭平が問う。

「さぁ、誰でしょうねぇ?」

 鷹峯が答える。

「雨宮雛子だ」

「雨宮雛子さんですねぇ」

「……」

「何が言いたいんですか?」

 不毛な問答。そのまま再び考え込んでしまった恭平に、鷹峯は可笑しそうに笑う。

「よく分からん。ただ、傷が……」

 粗雑に頭をかく恭平は、どこか納得いっていないという様子だ。

「傷、ですか。雨宮さんも同じようなことを言っていましたねぇ」

 何かが不自然な気がした。まるで雛子が雛子ではないような、微かな違和感。しかしそれを証明するすべはないし、本人じゃないとして一体誰なのかと問われれば答えは出ない。

「……いや、やっぱり何でもない」

「そうですかぁ。ま、良いですけど」

 考え込む恭平を後目に、鷹峯はようやく席を立つ。

「どこ行くんだよ?」

「私もせっかくなので専用露天風呂、行ってきます」

 鷹峯はそう言って入浴の準備を始める。

「ん。ちょっと寝るから、戻ったら起こして」

「はいはい」

 手荷物の用意ができると、鷹峯はさっさと扉の向こうへと消えていった。

 部屋で一人取り残された恭平は、さっきまで雛子が寝ていた布団にゴロリと寝転がる。

 古民家風の高い天井は吸い込まれそうなほど暗く、ぼんやり見つめているだけで眠りの世界に意識が落ちていきそうだ。

 恭平は重くなった瞼を閉じる。脳裏に浮かぶのは、とある夏の日─────。












 あれは雛子が倒れて、部屋まで運んだ時のことだ。

(あの時……)

 体調不良に気付かず、勤務終わりに雛子をきつく叱りつけた。その直後彼女は意識を失い、慌てて部屋に運んでベッドに寝かせ、結局心配で朝まで居座った。

 その時、彼女の服が少しだけ捲れていることに気が付いた。それを直そうとした時。

(腹部に……傷痕、のようなものが……)

 そこだけ他の皮膚と違うように見えた。気になって少しだけ見てみたくなり、服を捲ろうとしたところで彼女が目を覚ましたのだ。

(それに……)

 あの日、雛子が薬箱から取り出して内服した薬を恭平は記憶していた。数種類の鎮痛薬と抗不安薬。

 本人は人目につかないところでこっそり飲んでいるつもりかもしれないが、やはり一緒にいる時間が多かった恭平は時々内服している姿を目撃することがあった。

 前にそれとなく訪ねた時「頭痛持ちなんです」と彼女は言っていたが、あの薬は一般的な頭痛で飲むものではない。

 酷い頭痛で抗不安薬などを処方する事も無きにしも非ずだが、ただの頭痛であれほどの種類と量を処方されるとは到底考えられない。

(何なんだ……この違和感と、胸騒ぎは……)

 そう思いながらも、入浴後の心地好い気怠さと眠気に次第に思考も奪われていく。

(ん……何だ?)

 微睡みの中、すぐ近くで誰かが動く気配。

 鷹峯が戻ってきたのだろうか。先程出ていったばかりのような気もするし、もう長いこと経っているような気もする。

 しかしその気配は恭平の傍にただずむばかりで、一向に声をかけてくる様子がない。仕方なく、恭平は重い瞼を薄らと開く。

 そこには。

(は……?)

 恭平を覗き込んでいたのは、浴衣姿をした子どもだった。肌は透けるほど白いのに、髪と瞳は闇を凝縮したように黒い。

 小さな男の子が、無表情のままじっと恭平の顔を見つめていた。

(こど、も……? 何で……)

 その記憶を最後に、恭平は深く深く、眠りの海に沈んでいった。
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