白衣とブラックチョコレート

宇佐田琴美

文字の大きさ
30 / 156
出会いと別れ編

インシデント 6

しおりを挟む
(ああ……消えてしまいたいな……)

 雛子は暗い海の底にどんどん沈んでいく夢を見た。

 水面の光が遠く小さくなって、手を伸ばしても二度と這い上がれない。

(全然駄目だ……このままじゃ駄目なのに……)

 足掻きたい。でももう疲れた。このまま誰の目も届かない場所へ消えてしまいたい。それなのに。


 唐突に、遠ざかっていた光が目の前に溢れた。



「んっ……」



 目を開けると、カーテンの隙間から差し込んだ光が朝の訪れを知らせていた。

 そして。

 そこは見慣れた自室だった。その中に、絶対に有り得ない人物の姿。その男が伸ばした手は、何故か雛子の腹部に触れていた。

「あ……ゆ、め……?」

「ん、おはよ、ひなっち」

 それは、あまりにもいつも通りの彼。

「わっ……さっ、桜井さんっ!?!?」

 反射的に飛び起きる。その男、桜井恭平は特に狼狽える事もなく、普段通りの様子でこちらをチラリと見やった。

「別に、服がはだけてたから直してやっただけ」

 その声音に、苛立ちの色は見えない。その事にほっとすると同時に、この状況が理解出来ず雛子は目を瞬かせる。

「あ、ありがとうございます……? いや、そうじゃなくて……」

 何故自分の部屋に恭平がいるのか。

 あのあとどうやって帰ってきたかも思い出せない。

 混乱する雛子をよそに、恭平は徐にベッドの端へと腰をかけた。

「……それにしてもすっげーな、それ」

 一瞬何の事か分からず、雛子は恭平の視線の先へ目をやる。

「……? あ、そ、それはっ」

 テーブルの上に散らかったままの、エナジードリンクの缶が数本。それにエネルギー補給のゼリーやプロテインバーの空き袋。

(やばいっ……! 料理はおろか掃除も出来ないめっちゃズボラな女だと思われてるっ……!)

 まさか恭平が部屋に来る想定などしておらず、頬が羞恥に熱くなる。

「……悪かった」

「えっ……」

 突然ぽつりと呟かれた言葉。何故恭平が謝るのか、理由が見当たらず沈黙していると、彼が言葉を続ける。
 
「……昨日顔色が悪い事は朝から気付いていた。まさか倒れるまでとは思っていなかったが……。気付けなくてすまない。オーバーワークなのは俺の責任でもあるからな」

(倒れた? まさかそれで夜の間看病してくれてたのっ……!?)

 恭平の謝罪の理由に、雛子は慌てて首を振る。

「そ、そんなっ! 桜井さんが謝るような事は全くなくて、私がっ……痛っ……!?」

 激しく首を振った途端、全身に鈍い痛みが走った。

「大丈夫か? 熱はなさそうだが……」

 ふらついてベッドから転げ落ちそうになったところを恭平が抱える。

「すみません……。薬箱、出していただいても良いですか……? そこの、棚の一番上の……」

「これか」

 恭平は雛子が指し示す箱を手に取り、続いてキッチンから持ってきたミネラルウォーターと共に渡してくれた。

 雛子は受け取った箱からいくつかの薬を取り出すと、水で一気に流し込む。

「ずっとあんなもんばっかり食ってたらそりゃ倒れるだろ……」

 飽きれたような口調の恭平。

 それを言われてしまうと、言い返すすべがない。

「だ、だって最近は忙しくて……図書室に入り浸りで食事の時間も取れない事が多くて……」

「……図書室?」

 言い訳を並べてみると、恭平が怪訝な顔をする。

「はい、病院の研修棟併設の図書室です……。あそこなら参考書もたくさん揃ってるし、パソコンでカルテも開けるので……」

 同期にその存在を教えてもらってからと言うものの、雛子は勤務が終わるとすぐに図書室へ行き参考書とカルテに目を走らせていた。

 勤務後から夜遅くまで勉強したあと、一度帰宅すればまだ良い方だ。時には勉強しながら寝落ちし、そのまま朝を迎えてしまう日もあった。

「朝は勉強してから、受け持ちの情報収集までして出勤してたんです」
 
 雛子はここ最近の状況について白状した。

「……彼氏じゃなかったんだ」

「か、彼氏?? 何の話ですか……?」

 私の話聞いてました? と雛子。

「いや、なんでも」

 それだけ言うと恭平はもう一度キッチンへ行き、今度はトレイに器を乗せて戻ってきた。

「少しで良いから胃に入れとけ」

 湯気の立つそれは、出来たての粥だった。

「うわ、お粥……! 美味しそう……! これ、桜井さんが……?」

「おう、勝手にキッチン借りたぞ」

 そういえば昨日は何も食べないまま寝てしまった。

(っていうか、気を失っちゃったみたいだし……)

 久々にまともな食事の匂いを嗅いでいるだけで、少しだけ食欲も湧いてしまうから不思議だ。

「ありがとうございます! お粥なんて自分じゃ作らないから、子どもの時以来かも……」
 
 雛子が感動している間に、恭平はレンゲに一口分を掬い取りふぅふぅと冷ましていた。

「はい、あーん」

「……いや、それは自分で食べられ、むぐっ」

 断る前に口にレンゲを突っ込まれる。

「お、おいひいです……」

  恭平は雛子の飲み込む様子を見ながら、毎回適量をベストタイミングで口に運んでくれる。

  さすがは仕事のできる看護師だ。雛子はまるで自分が入院患者になったような気分を味わう。

(患者さん達はこうやって、体調が悪くて満足に食事も取れない人がたくさんいるんだよね……。私にとっては非日常な事が、もうずっと続いて当たり前になっている人達もいる……)
 
 雛子はふと、翔太の事を思い出していた。

 彼は今も、病院のあの一室の中で点滴に繋がれながら過ごしている。


 嫌だから逃げる、それが出来たら翔太達患者はどれほど良いだろう。


「ほい、食べ終わったから片付けるぞ」

「ん、ご馳走様でした」

 やがて空になった器と飲み終えた薬のシート、棚から取り出した薬箱を恭平がテキパキと片付け、雛子を寝かせて布団まで掛けてくれる。

 環境整備まで抜かりがない。

(至れり尽くせりだなぁ……)
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

ズボラ上司の甘い罠

松田丹子(まつだにこ)
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。 仕事はできる人なのに、あまりにももったいない! かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。 やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか? 上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。

大正浪漫? 夫婦契約致しました ~暗闇の中、契約夫と密やかにはぐくむ愛~

佳乃こはる
キャラ文芸
老舗製糸屋・両口屋家のひとり娘、陽毬(17)は、父の事業失敗の責任を負う形で、成金の物産商・権藤家へ嫁いだ。 それは恋ではなく、家を救うための契約の婚姻。 しかも、夫となる権藤宿禰(26)は病のため人前に出られず、屋敷の地下で暗闇に閉ざされて暮らしているという。 不安と恐れを胸に、初めて対面した夜。 陽毬が出会ったのは、噂とはまるで違う、知的で誰より暖かい心を持つ夫だった。 契約から始まった夫婦は、言葉を交わし、寄り添い、少しずつ心を育んでいく。 これは、温かな闇の中で選び合う、切なくも、けなげな愛の物語。

【完結】曖昧な距離で愛している

山田森湖
恋愛
結婚4年目のアラサー夫婦、拓海と美咲。仲は悪くないが、ときめきは薄れ、日常は「作業」になっていた。夫には可愛い後輩が現れ、妻は昔の恋人と再会する。揺れる心、すれ違う想い。「恋人に戻りたい」――そう願った二人が辿り着いた答えは、意外なものだった。曖昧で、程よい距離。それが、私たちの愛の形。

Blue Bird ―初恋の人に再会したのに奔放な同級生が甘すぎるっ‼【完結】

remo
恋愛
「…溶けろよ」 甘く響くかすれた声と奔放な舌にどこまでも落とされた。 本宮 のい。新社会人1年目。 永遠に出来そうもない彼氏を夢見つつ、目の前の仕事に奮闘中。 なんだけど。 青井 奏。 高校時代の同級生に再会した。 と思う間もなく、 和泉 碧。 初恋の相手らしき人も現れた。 幸せの青い鳥は一体どこに。 【完結】 ありがとうございました‼︎

恋人はメリーゴーランド少年だった。

夏目奈緖
BL
溺愛ドS社長×ツンデレ高校生。年の差恋愛。社長からの告白と束縛に戸惑う高校生。すれ違いばかりの片想いから恋人同士へ。ひねくれもの天使的な高校生と心を閉ざした会社社長との年の差BL。中山夏樹(18)は従姉妹の結婚式の2次会で、倒れてきた酔っ払いの下敷きになり左手に怪我を負った。助けてくれたのが、会場レストラン経営の黒崎ホールディングス代表取締役社長・黒崎圭一(33)。左手の抜糸がすむまで黒崎の車で送迎されることになった。黒崎は誰にも心を開かない。夏樹も同じである。しかしながら、夏樹は黒崎の前だけは自分の意思とは反対に、本音を吐き出す。2人は孤独を抱えており、夏樹は黒崎に惹かれていく。黒崎は夏樹に一目惚れし、執着する。

「君はいらない」と捨てられた夜、天敵の冷徹社長に「なら、俺が貰う」と拾われました。――手を出さない約束でしたが、彼の理性が限界のようです

葉山 乃愛
恋愛
【婚約破棄から始まる、不器用なライオン(冷徹社長)の猛烈な求愛!】 「俺の妻になるなら覚悟しろ。……もう、指一本逃がすつもりはない」 ★あらすじ★ 「美月は完璧すぎて、可愛げがないんだよ」 28歳の誕生日。 一流ホテルのウエディングプランナーである相沢美月(あいざわ みつき)は、婚約者の裏切りにより、結婚目前ですべてを失った。 雨の降る路地裏。 ヒールも折れ、心も折れてうずくまっていた美月の前に現れたのは、かつての高校時代の天敵であり、現在は勤務先の冷徹な社長 一条蓮(いちじょう れん)だった。 「捨て猫以下だな」 そう憎まれ口を叩きながらも、彼は泥だらけの美月を躊躇なく抱き上げ、最高級ペントハウスへと連れ帰る。 そして、彼が突きつけたのは、あまりにも強引な提案だった。 「住む場所がないなら、俺の家に来い。その代わり――俺の『婚約者』役を演じろ」 利害の一致した契約関係。 条件は「お互いに干渉しないこと」、そして「決して手を出さないこと」。 ……のはずだったのに。 「髪、濡れたままだと風邪を引く」 「あんな男のために泣くな。顔が台無しだ」 同居生活で見えてきたのは、冷徹な仮面の下に隠された、不器用すぎるほどの優しさと独占欲。 美月が作った手料理を誰よりも美味しそうに食べ、元婚約者が復縁を迫ってくれば「俺の女に触れるな」と徹底的に排除する。 天敵だったはずの彼に守られ、凍っていた美月の心は次第に溶かされていく。 しかし、ある雷雨の夜。 美月が不用意に彼に触れた瞬間、一条の理性のタガが外れてしまい――。 「……手を出さない約束? 撤回だ」 「そんな無防備な顔で見つめて、何もしないでいられるほど、俺は聖人君子じゃない」 10年越しの片思いをこじらせたハイスペック社長 × 仕事熱心で恋愛に臆病なプランナー。 契約から始まった二人の関係が、本物の愛(溺愛)に変わるまで。 元婚約者への痛快な「ざまぁ」も収録した、極上の大人のシンデレラストーリー! 【登場人物】 ◆相沢 美月(28) ホテルの敏腕ウエディングプランナー。真面目でお人好しな性格が災いし、「つまらない女」と婚約破棄される。実は家事万能で、酔うと少しだけ甘えん坊になる(本人は無自覚)。 ◆一条 蓮(28) ホテルグループの社長。美貌と才覚を併せ持つが、他人に興味を示さないため「氷の貴公子」と呼ばれる。実は高校時代から美月を一途に想い続けており、彼女のこととなると冷静さを失う。

紙の上の空

中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。 容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。 欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。 血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。 公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。

処理中です...