白衣とブラックチョコレート

宇佐田琴美

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出会いと別れ編

インシデント 5

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 点滴過剰についてのインシデントレポートも重なり、結局業務を終えたのは定時を三時間ほど過ぎた頃だった。

 疲れ切っていたためか最後の方は頭が回らなくなり、なかなか言いたい事が文章化できず時間ばかりが過ぎてしまっていた。

「お先に失礼します……」

 夜勤のスタッフに挨拶して、雛子はふらつく足取りのまま更衣室に向かう。

 日中の精神的ダメージが、身体全体にも重くのしかかっているように感じた。

(なんか……頭がぼんやりする……)

 緩慢な動作でやっと着替えを終え、更衣室を後にする。目を瞬かせたり首を振ったりしてみるものの、そんな事くらいで疲労は吹き飛びそうになかった。

 足を引きずるようにしてスタッフ用出入口から外に出たところで、雛子は見知った背中を見つける。

「桜井さん……?」

 ああ、今は、会いたくないな。

 業務終わりに少しだけ緩んでいた緊張の糸が、一気にピンと張り詰める感覚。

 このまま恭平が気付かなければ良い。そう思ったが、神様はまだ雛子に休息の時間など与えてくれないようだ。

「……ああ、やっと終わったか」

 人の気配に振り返った恭平が、雛子の姿を捉える。

「どうして……」

 何故、恭平はここに居るのだろう。雛子は疑問に思う。彼は平素、勤務時間内に仕事を終えて定時に帰宅してしまう。本日は雛子のレポート記入に付き合わせてしまったため三十分ほど残業が発生したものの、彼自身の業務は既に終えていたはずだ。

「お前が終わるの待ってた。まぁ、なかなか終わんなそうだったから先帰ろうとしてたとこ」

 恭平の声音は、昼間と同様に感情が読めずどこか素っ気ない。表情も能面のように冷たい。その仮面の下から漏れる本音が、今は手に取るように分かってしまう。

(怒ってる……)

 雛子は直感でそう感じ取った。

「最近ちょっと酷いぞ」

 起伏のない物言いの中にも、トゲがチラつく。

「ハッキリ言って弛んでる。プライベートまで干渉する気はないが、仕事に支障を来たすな」

 恭平の言葉が、ナイフのように脳内を抉った。目の奥がジワジワと熱くなって、雛子は慌てて顔に力を込める。

(泣くな! 泣いちゃダメっ……!!)

 必死の抵抗も虚しく、みるみるうちに溢れた涙が頬に伝う。それを見た恭平は鬱陶しそうに溜息を吐く。

「はぁ……あのさ、泣けばなんか解決する?」

平坦だった言葉にも、如実にイラつきが現れ始めていた。

「『頑張ります』『私なりに努力します』そうやって言ってりゃ評価してもらえんのはガキの頃だけだ。結果の実らない努力で患者が救えるのか?」

 恭平は続ける。

「『ちゃんとやったつもりでした』これも一緒だ。やったつもり、見たつもり、その結果出来てなかったら意味がない、それはしていないのと一緒だ」

「はいっ……す、すみませっ……」

 一度溢れてしまったら、もう涙を止める事は困難だった。雛子は今度は嗚咽が漏れないよう必死に喉に力を入れた。

(私の行動は全部結果が伴ってない……それじゃ無駄なんだ……)

 悔しい、悲しい、苦しい。

 涙で視界が歪む。硬いアスファルトを踏んでいるはずなのに、足元がぐにゃぐにゃとトランポリンのように揺らぎ始める。

(全部桜井さんの言う通りだ……それなのに……私……)

 歪んだ視界の端から、徐々にサイケデリックな模様が踊り出す。上手くまとまらない思考の中で、雛子はこの期に及んでまだ幼稚な感情に振り回されている自分に心底呆れた。

(私……昼間と一緒だ……桜井さんに怒られてる事自体に一番ショックを受けちゃってる……)


 本当、馬鹿だな。


 サイケデリックな模様は、遂に視界全てを覆ってしまっていた。赤や緑にチカチカとしていたそれが、徐々に大きな砂嵐を鳴らして灰色に変わっていった。

「……とにかく、明日は休みだからしっかり休息取って……雨宮?」

『はい』と『すみません』を小さな声で何度も繰り返していた雛子が、やがて何の相槌も打たなくなった事で恭平はようやく彼女の顔を覗き込む。

 雛子は虚ろな表情のまま一度大きく揺らいだかと思うと、そのまま糸の切れたマリオネットのようにアスファルトの地面へ崩れていった。

「雨宮っ……!? おいっ、しっかりしろっ! 雨宮……! 雨宮っ!!」
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