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白衣の天使編
急変 3
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ノックもせず病室のドアを開けると、ベッドの上で背中を丸めて肩で息をする百合と、その背中を擦りながら酸素マスクを口元に押し当てる真理亜の姿があった。
真っ白な顔で胸を押え苦しげに喘いでいる百合に、雛子は必死に動揺しそうな心を鎮める。
「雛子ちゃん、すぐにベッドサイドモニターの準備して。それからバイタルお願い」
「はいっ!」
言われた通りすぐにモニター装着とバイタルサインを測る。血中酸素濃度が低い。
「恐らく薬剤性の肺水腫よ。雛子ちゃん、点滴を見て」
「これはっ……」
愕然とした。
先程繋いだばかりの抗がん剤が、既にほとんどなくなっていたのだ。
「どうしてっ……私ちゃんと、」
「先生到着しましたっ!」
他にも数名のスタッフが駆けつけ、血液内科の主治医も到着し現場は慌ただしくなる。医師が診察し、応急処置を終えるとすぐにICUへ転棟の運びとなった。
「良かったわ、すぐに気付く事が出来て」
雛子の付き添いで百合がICUに降りた後、残ったスタッフでベッド移動や片付けを終えた。一段落付き他のスタッフがそれぞれ持ち場に戻った後、真理亜は安堵の表情でそう告げた。
「お前は……何も、やってないよな?」
恭平の訝しむような不安そうな言葉に、真理亜は心外とばかりに首を横に振り肩を竦める。
「でも、現に抗がん剤の流量が変更されていたのは事実だ。ダブルチェックで俺も確認したから雨宮のミスじゃない」
尚も疑いの目を向ける恭平に、真理亜は些か焦ったように否定する。
「疑われても仕方ないと思うけど……でも、本当に私じゃないわよ?」
前科がある分、説得力に乏しい自覚は真理亜にもある。しかしやっていないものはやっていないと言うしかない。恭平は恭平で、真理亜のその言葉を信じきる事が出来ない。
「そうです、真理亜さんのせいなんかじゃありませんっ」
張り詰めた二人の空気を裂くように割って入ったのは、今しがたICUから戻ってきた雨宮雛子の声だった。
雛子は真理亜を疑う恭平をきっ、と睨む。
「真理亜さんじゃありませんっ」
まるで真理亜を守ろうとするかのように恭平の前に立ちはだかる雛子。そんな雛子を、二人は虚をつかれたかのようにただ見つめる。
しかし最初こそ威勢が良かったものの、雛子は次第にその勢いを失い悲しげに目を伏せた。
「……自分でやったんです」
ぽつりと呟かれた言葉。それがどういう意味か、二人が理解するのにそう時間はかからなかった。
「百合ちゃんは、自分でやったんです……」
重い沈黙が場を支配する。
「……どういう事だ」
恭平が雛子に問う。雛子はやや迷った様子を見せながらも、百合に抱いていた違和感の正体を語る。
「おかしいと思っていたんです。何か変だなって……。百合ちゃん、最初の頃はベッドの上でガーグルベースンを抱えて嘔吐していました」
雛子の言葉を、二人は黙って聞く。
「そのうちいつの間にかトイレに篭りきりになって……誰も、百合ちゃんが吐く姿を見ていません」
それだけじゃない、と雛子は続ける。
「右手の中指に貼ってあった絆創膏、雑誌で切って血が止まらなくなったって本人は言っていたんですけど……」
雛子は自分の中指の根元を示す。
「場所も変ですし、絆創膏には血が滲んでいませんでした。それでさっきICUに降りた時、剥がしてみたんです」
ここまで来れば、二人にも話の真相が嫌でも理解出来た。
「タコ、でした……。吐きダコです。百合ちゃん、トイレに篭って自分で吐いていたんです。恐らく点滴も、トイレに行っている間に自分でポンプを開けて操作していた……だから早くなくなることが多かったんです」
「何で自分でそんなこと……」
不可解そうな顔をする恭平とは裏腹に、真理亜は腑に落ちたという表情で溜息を吐いた。
「雛子ちゃん、ありがとう。よく分かったわ……」
「真理亜さん……?」
悲しげに、けれどどこか慈しむように笑みを見せた真理亜に、雛子は首を傾げる。
私と一緒だったのに……気付いてあげられなくて、ごめんなさい。
小さくそう呟いた真理亜の言葉は、恭平の耳にだけ僅かに届いた。
目を開ける。
いつもの白い天井と、似ているけど、何か違う。
覗き込む二人の女性。
(お母さん……)
目に涙をたくさん溜めた母親が、百合の手を握っていた。
「ああっ、良かったわ、目が覚めたのねっ!」
そう言って、母親はまたポロポロと涙を零した。
「お父さんに電話してくるわっ……!」
急いでどこかへ行く母親を目だけで追う。
先程より随分マシだが、今もまだ呼吸が苦しい。
(やり過ぎちゃった……)
反省はしている。でも母親のあんな顔が見れたのだから、後悔はない。
(本当に……?)
「良かったわ、目が覚めて」
もう一人の女性が、鈴の音のような可憐な声でそう告げた。
「清瀬、さん……」
声を出すと、また一段と苦しくなる。口に取り付けられた酸素マスクの中で、百合は必死に呼吸をする。
「ごめんなさい、私……」
気が付くと、勝手に謝罪の言葉が口をついた。
(後悔してないなんて、嘘だなぁ……)
死ななくて良かった。そう思う自分が、何だか情けない。
「生きていてくれて良かった……」
そう言って、真理亜は百合をそっと抱き締めた。
あたたかい。
身体も、心も、何だかとても心地良い感覚に満たされた。
ああ、自分が求めていたのはこれかもしれない、百合はそう思った。
ずっとずっと、妹に取られていた母親。病気になった事で、自分だけに気を引きたかった。
「私も同じよ、あなたとおんなじ」
真理亜は百合を抱き締めたまま、まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。
「自分も他人も大切にするの。あなたもよ、もっと自分を愛してあげて」
真理亜の腕に力が篭もる。
「だってあなたは、ちゃんと愛されてるんだから」
真っ白な顔で胸を押え苦しげに喘いでいる百合に、雛子は必死に動揺しそうな心を鎮める。
「雛子ちゃん、すぐにベッドサイドモニターの準備して。それからバイタルお願い」
「はいっ!」
言われた通りすぐにモニター装着とバイタルサインを測る。血中酸素濃度が低い。
「恐らく薬剤性の肺水腫よ。雛子ちゃん、点滴を見て」
「これはっ……」
愕然とした。
先程繋いだばかりの抗がん剤が、既にほとんどなくなっていたのだ。
「どうしてっ……私ちゃんと、」
「先生到着しましたっ!」
他にも数名のスタッフが駆けつけ、血液内科の主治医も到着し現場は慌ただしくなる。医師が診察し、応急処置を終えるとすぐにICUへ転棟の運びとなった。
「良かったわ、すぐに気付く事が出来て」
雛子の付き添いで百合がICUに降りた後、残ったスタッフでベッド移動や片付けを終えた。一段落付き他のスタッフがそれぞれ持ち場に戻った後、真理亜は安堵の表情でそう告げた。
「お前は……何も、やってないよな?」
恭平の訝しむような不安そうな言葉に、真理亜は心外とばかりに首を横に振り肩を竦める。
「でも、現に抗がん剤の流量が変更されていたのは事実だ。ダブルチェックで俺も確認したから雨宮のミスじゃない」
尚も疑いの目を向ける恭平に、真理亜は些か焦ったように否定する。
「疑われても仕方ないと思うけど……でも、本当に私じゃないわよ?」
前科がある分、説得力に乏しい自覚は真理亜にもある。しかしやっていないものはやっていないと言うしかない。恭平は恭平で、真理亜のその言葉を信じきる事が出来ない。
「そうです、真理亜さんのせいなんかじゃありませんっ」
張り詰めた二人の空気を裂くように割って入ったのは、今しがたICUから戻ってきた雨宮雛子の声だった。
雛子は真理亜を疑う恭平をきっ、と睨む。
「真理亜さんじゃありませんっ」
まるで真理亜を守ろうとするかのように恭平の前に立ちはだかる雛子。そんな雛子を、二人は虚をつかれたかのようにただ見つめる。
しかし最初こそ威勢が良かったものの、雛子は次第にその勢いを失い悲しげに目を伏せた。
「……自分でやったんです」
ぽつりと呟かれた言葉。それがどういう意味か、二人が理解するのにそう時間はかからなかった。
「百合ちゃんは、自分でやったんです……」
重い沈黙が場を支配する。
「……どういう事だ」
恭平が雛子に問う。雛子はやや迷った様子を見せながらも、百合に抱いていた違和感の正体を語る。
「おかしいと思っていたんです。何か変だなって……。百合ちゃん、最初の頃はベッドの上でガーグルベースンを抱えて嘔吐していました」
雛子の言葉を、二人は黙って聞く。
「そのうちいつの間にかトイレに篭りきりになって……誰も、百合ちゃんが吐く姿を見ていません」
それだけじゃない、と雛子は続ける。
「右手の中指に貼ってあった絆創膏、雑誌で切って血が止まらなくなったって本人は言っていたんですけど……」
雛子は自分の中指の根元を示す。
「場所も変ですし、絆創膏には血が滲んでいませんでした。それでさっきICUに降りた時、剥がしてみたんです」
ここまで来れば、二人にも話の真相が嫌でも理解出来た。
「タコ、でした……。吐きダコです。百合ちゃん、トイレに篭って自分で吐いていたんです。恐らく点滴も、トイレに行っている間に自分でポンプを開けて操作していた……だから早くなくなることが多かったんです」
「何で自分でそんなこと……」
不可解そうな顔をする恭平とは裏腹に、真理亜は腑に落ちたという表情で溜息を吐いた。
「雛子ちゃん、ありがとう。よく分かったわ……」
「真理亜さん……?」
悲しげに、けれどどこか慈しむように笑みを見せた真理亜に、雛子は首を傾げる。
私と一緒だったのに……気付いてあげられなくて、ごめんなさい。
小さくそう呟いた真理亜の言葉は、恭平の耳にだけ僅かに届いた。
目を開ける。
いつもの白い天井と、似ているけど、何か違う。
覗き込む二人の女性。
(お母さん……)
目に涙をたくさん溜めた母親が、百合の手を握っていた。
「ああっ、良かったわ、目が覚めたのねっ!」
そう言って、母親はまたポロポロと涙を零した。
「お父さんに電話してくるわっ……!」
急いでどこかへ行く母親を目だけで追う。
先程より随分マシだが、今もまだ呼吸が苦しい。
(やり過ぎちゃった……)
反省はしている。でも母親のあんな顔が見れたのだから、後悔はない。
(本当に……?)
「良かったわ、目が覚めて」
もう一人の女性が、鈴の音のような可憐な声でそう告げた。
「清瀬、さん……」
声を出すと、また一段と苦しくなる。口に取り付けられた酸素マスクの中で、百合は必死に呼吸をする。
「ごめんなさい、私……」
気が付くと、勝手に謝罪の言葉が口をついた。
(後悔してないなんて、嘘だなぁ……)
死ななくて良かった。そう思う自分が、何だか情けない。
「生きていてくれて良かった……」
そう言って、真理亜は百合をそっと抱き締めた。
あたたかい。
身体も、心も、何だかとても心地良い感覚に満たされた。
ああ、自分が求めていたのはこれかもしれない、百合はそう思った。
ずっとずっと、妹に取られていた母親。病気になった事で、自分だけに気を引きたかった。
「私も同じよ、あなたとおんなじ」
真理亜は百合を抱き締めたまま、まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。
「自分も他人も大切にするの。あなたもよ、もっと自分を愛してあげて」
真理亜の腕に力が篭もる。
「だってあなたは、ちゃんと愛されてるんだから」
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