彼らはニアズ・マリアーノ・マティアスを英雄だと思っている 〜悪役貴族に転生したが、なぜか誰も見捨ててくれない〜

小林一咲

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 噂というものは、止めようとすればするほど加速する。

 マティアス領で起きた賊討伐と少女救出の一件は、当初こそ「領内の英雄譚」として消費されるはずだった。だが現実は違った。

 話は、街道を伝い、酒場を経由し、商人の荷と共に広がっていった。

 やがて――領地の外へ。

 王都近郊の宿場町では、吟遊詩人が竪琴を鳴らしながら歌っていた。

「虹が架かりし時、覚醒する若き貴族
 民のために剣を取り、悪を討ち滅ぼす――」

 歌詞はすでに原型を留めていない。

 剣の本数が増え、賊の数が百倍になり、最後はなぜか空を割っていた。

 その名だけが、妙に正確だった。

「ニアズ・マリアーノ・マティアス」

 名が知られれば、次に起きるのは人の流入である。

 最初に異変が起きたのは、マティアス領の若者たちだった。

「ニアズ様の下で騎士になりたい!」

「御用騎士にしてください!」

「士官として仕えさせてください!」

 屋敷の門前に並んだのは、農民の次男、商人の三男、鍛冶屋の弟子、狩人、元傭兵崩れ――年齢も出自もばらばらな若者たちだった。

 その数、百名余り。

 執事は名簿を持つ手を震わせていた。

「……三桁です」

「……三桁だな」

 ニアズは、遠い目をしていた。

 目立たない人生のはずが、気づけば人材募集の中心人物である。

「どうしてこうなった」

「理由は明白です」

 執事は即答した。

「ニアズ様が、英雄だからです」

「違う」

 だが否定は、誰にも届かなかった。

 若者たちは口々に言う。

「ニアズ様のような方に仕えたい!」

「命を賭して民を守る姿に憧れました!」

「強くて、優しくて、しかも謙虚!」

「最後のは誤解だ」

 屋敷の前は、ちょっとした祭りの様相だった。

 さらに事態を悪化させたのは、領外からの来訪者だった。

 噂を聞きつけ、街道を越え、わざわざやって来た者たち。

 元冒険者。
 流浪の剣士。
 他領でくすぶっていた兵士。
 中には、明らかに場違いな豪腕の男や、やたら目つきの鋭い女までいる。

「腕には自信がある」

「本物の実力者の下で戦いたい」

「ニアズ様なら、俺を見抜いてくれると思ってな」

 なぜそんな信頼があるのか、本人が一番理解していない。

 門番は悲鳴を上げていた。

「もう敷地に入りきりません!」

「順番に並んでください!」

「順番が増え続けてます!」

 屋敷内では、緊急会議が開かれていた。

「どうしますか」

「どうもこうもない」

 ニアズは机を見つめたまま答える。

「俺は、何も募集していない」

「ですが、志願者が」

「返せ」

「全員ですか?」

「全員だ」

 執事は、静かに首を振った。

「それはできません」

「なぜだ」

「既に領内外で、『マティアス家が人材を集めている』と認識されています」

「していない」

「していることになっています」

 この世界では、事実より噂の方が強い。

「しかも、王都にも話が届いています」

 その一言で、部屋の空気が変わった。

「……王都?」

「はい。若き英雄が私兵を集めている、と」

「やめろ」

「既に止まりません」

 ニアズは、椅子に深く座り込んだ。

 最悪の方向に、最短距離で進んでいる。

 その日の午後。

 騎士団長代理が、正式に屋敷を訪れた。

「志願者の整理を」

「拒否だ」

「受理を前提に、選抜を」

「拒否だ」

「では、推薦という形で」

「拒否だ」

 しかし、書類は積み上がる。

 人は増える。

 期待は膨らむ。

 屋敷の外では、若者たちが自主的に訓練を始めていた。

「ニアズ様に見られていると思え!」

「背筋を伸ばせ!」

「いつか声をかけてもらえるぞ!」

 誰も見ていないのに、全力だった。

 ニアズは、窓からその光景を見下ろしていた。

「……誰も、見捨ててくれない」

 執事は、穏やかに答える。

「それが、英雄というものです」

「いらない称号だ」

「ですが」

 執事は、静かに続けた。

「ニアズ様がいなければ、ここまで人は集まりません」

「それは……」

「恐怖ではなく、信頼で人が集まるのは、稀有なことです」

 ニアズは、返事をしなかった。

 賊討伐から、わずか三ヶ月。

 たった一度の事件で、世界は大きく変わった。

 目立たず、静かに生きるという目標は、もう視界にすら入らない。

 彼の周囲には、人が集まり続けている。

 本人の意思とは、無関係に。

 そしてこの流れは、まだ始まったばかりだった。

◇◆◇◆

 事態がここまで膨れ上がった以上、放置という選択肢は消えていた。

 屋敷の会議室には、マティアス家の主要な家臣、騎士団の代表、そして冒険者ギルドから派遣された幹部が顔を揃えている。

 机の上には、紙の山。

 志願書だ。

「……最終集計が出ました」

 執事が淡々と告げる。

「騎士希望者、六百三十四名。士官志望者、三百二十一名。合計、九百五十五名です」

 一瞬、沈黙が落ちた。

 千名に届かなかったことを、誰も喜んでいない。

「どうしてこうなった」

 ニアズが呟くと、全員が一斉に視線を逸らした。

 誰も答えを言わない。
 言えないのではない。
 全員、同じ答えを思い浮かべているからだ。

「選抜は、不可避です」

 騎士団代表が口を開いた。

「全員を雇うことは現実的ではありません」

「最初から雇う気はない」

「ですが、志願を受けた以上、ふるいにかける必要があります」

 ニアズは深く息を吐いた。

「……方法は」

「二本立てでいきましょう」

 冒険者ギルドの幹部が、地図を広げる。

「騎士希望者は闘技大会形式。個の力量と実戦適性を見ます」

「士官志望者は?」

「筆記、戦術、指揮、判断力を問う試験です。国家最高峰レベルで」

「重いな」

「軽くすると、質が落ちます」

 誰も否定しなかった。

 数日後。

 マティアス領最大規模の催しが開催されることになった。

 場所は、領内冒険者ギルド本部とその周辺施設。

 闘技場、訓練場、会議棟、仮設テント――ありとあらゆる設備が動員された。

 冒険者ギルドは全面協力を申し出た。

「ここまで話題になっている人物と関われるのは、こちらとしても利益ですから」

 利害は一致していた。

 当日。

 領内外から集まった志願者たちで、街は埋め尽くされた。

「人、多すぎじゃないか」

 ニアズが呟くと、隣にいた騎士団長が頷く。

「正直、想定の三倍です」

 騎士希望者の闘技大会は、予選からして激戦だった。

 木剣、模擬槍、素手――形式は様々。

 元冒険者が圧倒する試合もあれば、農民上がりの若者が執念で勝ち上がる場面もあった。

「すげぇ……」

 観客席は熱狂している。

「ニアズ様が見てるぞ!」

「気合入れろ!」

 肝心のニアズは、観戦席の隅で縮こまっていた。

「見られてるのは俺じゃない」

 だが、誰も聞いていない。

 一方、士官志望者の試験会場は、別の地獄だった。

 配布された問題用紙を見た瞬間、数十名が固まった。

「……これ、軍学校の上級課程だ」

「いや、それ以上だぞ」

 戦況図を見て、限られた兵力でどう動くか。

 補給線が切れた場合の判断。

 民を巻き込む可能性がある場合の決断。

 単なる知識ではなく、人間性まで問われる内容だった。

 結果、初日の時点で半数以上が脱落した。

 三日間に及ぶ選抜の末。

 残った者たちが、中央広場に集められた。

 数は――約二百名。

 騎士候補が百二十名。
 士官候補が八十名。

 選抜結果は、誰が見ても妥当だった。

「よくやった」

 ニアズは、台の上から彼らを見渡した。

 視線を向けられただけで、背筋を伸ばす者たち。

「これで終わりだ」

 ニアズはそう思っていた。

 だが、現実はそこから始まる。

 解散後、屋敷に戻ったニアズは、執事と向き合っていた。

「……で」

「はい」

「雇えるのか」

 執事は、はっきりと答えた。

「雇えません」

 即答だった。

「……どれくらい足りない」

「全員分の装備、給金、訓練費、宿舎。最低でも、現在の領収入の三倍は必要です」

「三倍」

「控えめに見積もって、です」

 部屋に沈黙が落ちる。

「……つまり」

「はい」

 執事は、冷静に告げた。

「合格者は出ましたが、雇う資金がありません」

 完璧な選抜。
 完璧な人材。
 そして、完璧な資金不足。

 ニアズは、椅子の背にもたれた。

「……次は、金か」

 問題は解決していない。

 形を変えただけで、さらに重くなった。

 屋敷の外では、選ばれた二百名が希望に満ちた顔で待っている。

 その期待を、どう処理するか。

 英雄扱いされる男の、次の試練は――剣でも戦術でもなかった。

 金である。

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