「君なら平気だろう」と私を後回しにし続けた婚約者はもう捨てます

茶2

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差し戻された報告書

 窓から差し込む陽光が、執務室の絨毯に四角い模様を描いていた。

 私は定位置の丸テーブルに座り、王都の流行を取り入れた新しい刺繍の図案に目を通している。
 針を動かす手つきは軽く、心なしかいつもより鮮やかな色が選ばれていた。
 静かで、心地よい午後の時間だ。

 一方、部屋の反対側からは、頻繁に舌打ちや深いため息が聞こえてくる。
 フェリクスの執務机の上には、未処理の書類が小さな山を作っていた。
 私が実務の手引きをやめてから数日。彼の手元に残された仕事は、一向に減る気配がない。

「……くそっ、なぜここが合わないんだ」

 彼がペンを乱暴に置き、頭を抱え込んだ。
 彼が睨みつけているのは、領地の税収に関する集計表だ。
 これまでは私が事前に下調べをし、過去の記録と照らし合わせて数字を整えていた。だが、今の彼は膨大な資料を自力でひっくり返し、一から計算をやり直さなければならない。

 すると控えめなノックの音が響いた。
 入ってきたのは、アッシュフォード家に長年仕える初老の家宰だった。
 その手には、見覚えのある分厚い封筒が握られている。

「フェリクス様、お仕事中に申し訳ございません」

「なんだ、いま立て込んでいるんだが」

 彼が不機嫌そうに顔を上げると、家宰は静かに、しかし厳しい声で告げた。

「先週提出された東部農地の税収報告書ですが、先方から差し戻しがございました」

 その言葉に、彼の顔からスッと血の気が引くのが分かった。
 私は手元の刺繍から視線を外し、その様子を静かに見つめる。

「差し戻し、だと? バカな、きちんと期限内に提出したはずだ」

「ええ。ですが、初歩的な計算ミスが多発しており、報告も要領を得ないと。担当の役人から、至急修正して再提出するよう苦言を呈されました」

 家宰は容赦なく、分厚い封筒を机の上に置いた。

「次期当主として、このようなずさんな書類を提出することは、アッシュフォード家の信用に関わります。早急にご対応ください」

「うっ……わ、わかった。すぐに見直す」

 彼は顔を赤くし、声を震わせて頷いた。
 家宰が一礼して退出すると、執務室には重苦しい沈黙が降りた。

 彼が提出したのは、私が突き返したあの報告書だ。
 私が手を引いた途端に、この有様である。彼がいかに私に依存し、自分の仕事に対して無責任だったかがよく分かる。

 彼は差し戻された書類を広げ、絶望したような顔で天を仰いだ。
 そして、すがるような目をこちらに向けてくる。

「クレア……」

「なんでしょうか」

 私は刺繍枠を下ろし、感情の乗らない声で応じた。

「この報告書なんだけど。どこが間違っているのか、少しだけ見てくれないか?」

「お断りいたします」

 即答すると、彼は信じられないというように目を見開いた。

「どうしてだ! このままじゃ、俺は父上にも役人にも愛想を尽かされてしまう。少し手伝ってくれるだけでいいんだ」

「それは、ご自身の責任です」

 私は彼から視線を逸らさず、淡々と紡ぐ。

「先日も申し上げた通り、私は他家の娘です。アッシュフォード家の信用に関わる重要な書類に、ただの婚約者である私が、安易に手をつけるべきではないでしょう」

「そんな固いことを言わなくても! 今までだって、君が完璧にやってくれていたじゃないか」

「私が完璧にやっていたから、ご自身の計算ミスに気付かなかったのではありませんか?」

 静かに、けれど明確に突きつけると、フェリクス様はうっと言葉に詰まった。
 整った顔が、悔しさと気まずさに歪んでいる。
 反論しようと口を開きかけるが、何も言えずに再び書類へと視線を落とした。

 私は再び刺繍針を手に取り、自分のための時間を静かに進め始めた。

 机にかじりついていた彼が、ふと思いついたように顔を上げた。

「そういえば、明後日は王宮の春の夜会だね」

 唐突な話題の転換だった。
 彼の声には、先ほどまでの苛立ちを無理に隠したような、空々しい明るさが張り付いている。

「君のエスコートは、俺がしっかり務めるよ」

「……」

「新しいドレスを仕立てたんだったね。きっと似合うだろうな。その時に、君の機嫌が直ってくれると嬉しいんだけど」

 彼は甘く微笑みながら、私に視線を送ってくる。

 なるほど。
 彼はまだ、私が誕生日のことで拗ねているだけだと思っているのだ。
 夜会でエスコートをし、ドレスを褒め、適当な甘い言葉をかければ、また私が機嫌を直して実務を手伝ってくれると信じている。

 どれだけ無自覚で、底の浅い算段なのだろう。
 自分が提出した書類すらまともに計算できない男が、どうして他人の心を簡単に計算できると思っているのか。

「……ええ。そうなるといいですわね」

 私は短く答え、手元の糸を小さく切った。
 彼がどんな態度をとろうと、私の心が動くことはもうない。

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