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差し戻された報告書
窓から差し込む陽光が、執務室の絨毯に四角い模様を描いていた。
私は定位置の丸テーブルに座り、王都の流行を取り入れた新しい刺繍の図案に目を通している。
針を動かす手つきは軽く、心なしかいつもより鮮やかな色が選ばれていた。
静かで、心地よい午後の時間だ。
一方、部屋の反対側からは、頻繁に舌打ちや深いため息が聞こえてくる。
フェリクスの執務机の上には、未処理の書類が小さな山を作っていた。
私が実務の手引きをやめてから数日。彼の手元に残された仕事は、一向に減る気配がない。
「……くそっ、なぜここが合わないんだ」
彼がペンを乱暴に置き、頭を抱え込んだ。
彼が睨みつけているのは、領地の税収に関する集計表だ。
これまでは私が事前に下調べをし、過去の記録と照らし合わせて数字を整えていた。だが、今の彼は膨大な資料を自力でひっくり返し、一から計算をやり直さなければならない。
すると控えめなノックの音が響いた。
入ってきたのは、アッシュフォード家に長年仕える初老の家宰だった。
その手には、見覚えのある分厚い封筒が握られている。
「フェリクス様、お仕事中に申し訳ございません」
「なんだ、いま立て込んでいるんだが」
彼が不機嫌そうに顔を上げると、家宰は静かに、しかし厳しい声で告げた。
「先週提出された東部農地の税収報告書ですが、先方から差し戻しがございました」
その言葉に、彼の顔からスッと血の気が引くのが分かった。
私は手元の刺繍から視線を外し、その様子を静かに見つめる。
「差し戻し、だと? バカな、きちんと期限内に提出したはずだ」
「ええ。ですが、初歩的な計算ミスが多発しており、報告も要領を得ないと。担当の役人から、至急修正して再提出するよう苦言を呈されました」
家宰は容赦なく、分厚い封筒を机の上に置いた。
「次期当主として、このようなずさんな書類を提出することは、アッシュフォード家の信用に関わります。早急にご対応ください」
「うっ……わ、わかった。すぐに見直す」
彼は顔を赤くし、声を震わせて頷いた。
家宰が一礼して退出すると、執務室には重苦しい沈黙が降りた。
彼が提出したのは、私が突き返したあの報告書だ。
私が手を引いた途端に、この有様である。彼がいかに私に依存し、自分の仕事に対して無責任だったかがよく分かる。
彼は差し戻された書類を広げ、絶望したような顔で天を仰いだ。
そして、すがるような目をこちらに向けてくる。
「クレア……」
「なんでしょうか」
私は刺繍枠を下ろし、感情の乗らない声で応じた。
「この報告書なんだけど。どこが間違っているのか、少しだけ見てくれないか?」
「お断りいたします」
即答すると、彼は信じられないというように目を見開いた。
「どうしてだ! このままじゃ、俺は父上にも役人にも愛想を尽かされてしまう。少し手伝ってくれるだけでいいんだ」
「それは、ご自身の責任です」
私は彼から視線を逸らさず、淡々と紡ぐ。
「先日も申し上げた通り、私は他家の娘です。アッシュフォード家の信用に関わる重要な書類に、ただの婚約者である私が、安易に手をつけるべきではないでしょう」
「そんな固いことを言わなくても! 今までだって、君が完璧にやってくれていたじゃないか」
「私が完璧にやっていたから、ご自身の計算ミスに気付かなかったのではありませんか?」
静かに、けれど明確に突きつけると、フェリクス様はうっと言葉に詰まった。
整った顔が、悔しさと気まずさに歪んでいる。
反論しようと口を開きかけるが、何も言えずに再び書類へと視線を落とした。
私は再び刺繍針を手に取り、自分のための時間を静かに進め始めた。
机にかじりついていた彼が、ふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば、明後日は王宮の春の夜会だね」
唐突な話題の転換だった。
彼の声には、先ほどまでの苛立ちを無理に隠したような、空々しい明るさが張り付いている。
「君のエスコートは、俺がしっかり務めるよ」
「……」
「新しいドレスを仕立てたんだったね。きっと似合うだろうな。その時に、君の機嫌が直ってくれると嬉しいんだけど」
彼は甘く微笑みながら、私に視線を送ってくる。
なるほど。
彼はまだ、私が誕生日のことで拗ねているだけだと思っているのだ。
夜会でエスコートをし、ドレスを褒め、適当な甘い言葉をかければ、また私が機嫌を直して実務を手伝ってくれると信じている。
どれだけ無自覚で、底の浅い算段なのだろう。
自分が提出した書類すらまともに計算できない男が、どうして他人の心を簡単に計算できると思っているのか。
「……ええ。そうなるといいですわね」
私は短く答え、手元の糸を小さく切った。
彼がどんな態度をとろうと、私の心が動くことはもうない。
私は定位置の丸テーブルに座り、王都の流行を取り入れた新しい刺繍の図案に目を通している。
針を動かす手つきは軽く、心なしかいつもより鮮やかな色が選ばれていた。
静かで、心地よい午後の時間だ。
一方、部屋の反対側からは、頻繁に舌打ちや深いため息が聞こえてくる。
フェリクスの執務机の上には、未処理の書類が小さな山を作っていた。
私が実務の手引きをやめてから数日。彼の手元に残された仕事は、一向に減る気配がない。
「……くそっ、なぜここが合わないんだ」
彼がペンを乱暴に置き、頭を抱え込んだ。
彼が睨みつけているのは、領地の税収に関する集計表だ。
これまでは私が事前に下調べをし、過去の記録と照らし合わせて数字を整えていた。だが、今の彼は膨大な資料を自力でひっくり返し、一から計算をやり直さなければならない。
すると控えめなノックの音が響いた。
入ってきたのは、アッシュフォード家に長年仕える初老の家宰だった。
その手には、見覚えのある分厚い封筒が握られている。
「フェリクス様、お仕事中に申し訳ございません」
「なんだ、いま立て込んでいるんだが」
彼が不機嫌そうに顔を上げると、家宰は静かに、しかし厳しい声で告げた。
「先週提出された東部農地の税収報告書ですが、先方から差し戻しがございました」
その言葉に、彼の顔からスッと血の気が引くのが分かった。
私は手元の刺繍から視線を外し、その様子を静かに見つめる。
「差し戻し、だと? バカな、きちんと期限内に提出したはずだ」
「ええ。ですが、初歩的な計算ミスが多発しており、報告も要領を得ないと。担当の役人から、至急修正して再提出するよう苦言を呈されました」
家宰は容赦なく、分厚い封筒を机の上に置いた。
「次期当主として、このようなずさんな書類を提出することは、アッシュフォード家の信用に関わります。早急にご対応ください」
「うっ……わ、わかった。すぐに見直す」
彼は顔を赤くし、声を震わせて頷いた。
家宰が一礼して退出すると、執務室には重苦しい沈黙が降りた。
彼が提出したのは、私が突き返したあの報告書だ。
私が手を引いた途端に、この有様である。彼がいかに私に依存し、自分の仕事に対して無責任だったかがよく分かる。
彼は差し戻された書類を広げ、絶望したような顔で天を仰いだ。
そして、すがるような目をこちらに向けてくる。
「クレア……」
「なんでしょうか」
私は刺繍枠を下ろし、感情の乗らない声で応じた。
「この報告書なんだけど。どこが間違っているのか、少しだけ見てくれないか?」
「お断りいたします」
即答すると、彼は信じられないというように目を見開いた。
「どうしてだ! このままじゃ、俺は父上にも役人にも愛想を尽かされてしまう。少し手伝ってくれるだけでいいんだ」
「それは、ご自身の責任です」
私は彼から視線を逸らさず、淡々と紡ぐ。
「先日も申し上げた通り、私は他家の娘です。アッシュフォード家の信用に関わる重要な書類に、ただの婚約者である私が、安易に手をつけるべきではないでしょう」
「そんな固いことを言わなくても! 今までだって、君が完璧にやってくれていたじゃないか」
「私が完璧にやっていたから、ご自身の計算ミスに気付かなかったのではありませんか?」
静かに、けれど明確に突きつけると、フェリクス様はうっと言葉に詰まった。
整った顔が、悔しさと気まずさに歪んでいる。
反論しようと口を開きかけるが、何も言えずに再び書類へと視線を落とした。
私は再び刺繍針を手に取り、自分のための時間を静かに進め始めた。
机にかじりついていた彼が、ふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば、明後日は王宮の春の夜会だね」
唐突な話題の転換だった。
彼の声には、先ほどまでの苛立ちを無理に隠したような、空々しい明るさが張り付いている。
「君のエスコートは、俺がしっかり務めるよ」
「……」
「新しいドレスを仕立てたんだったね。きっと似合うだろうな。その時に、君の機嫌が直ってくれると嬉しいんだけど」
彼は甘く微笑みながら、私に視線を送ってくる。
なるほど。
彼はまだ、私が誕生日のことで拗ねているだけだと思っているのだ。
夜会でエスコートをし、ドレスを褒め、適当な甘い言葉をかければ、また私が機嫌を直して実務を手伝ってくれると信じている。
どれだけ無自覚で、底の浅い算段なのだろう。
自分が提出した書類すらまともに計算できない男が、どうして他人の心を簡単に計算できると思っているのか。
「……ええ。そうなるといいですわね」
私は短く答え、手元の糸を小さく切った。
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