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五月・菖蒲の湯

膝に、矢を受けてしまってな

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 「オレも、小学生の頃は野球やってたんだよ。もともと身体が小さくて向いてなかったし、事故でこんなんなってやめちまったけどさ」

 こどもの日は過ぎているけど、五月は定期的に菖蒲湯を続けているらしい。心なし、銭湯にも子どもたちの姿を多く見かけるような。菖蒲は、この爽やかな香りで邪気を払うんだと。苦手って人も多いけど、オレは好きだな。
 潤くんが、湯船から片足を上げて出した。やだそんな、はしたない…と思ったが。恐る恐る目を向けると、膝あたりにうっすらと傷跡が残っていた。乙女の珠の肌についた傷と言うのか、以前から気にはなっていたんだ。
 「膝に、矢を受けてしまってな。歩くくらいは問題ないけど、全力疾走は未だにちょいと厳しいかな…」
 「事故って…。そういや、気になってたんだけど。潤くんのご両親て、もしかしてその事故で?」
 「勝手に殺すなよ。ピンピン生きて、今も富山で暮らしてらぁ。まぁでも死者は出なかったけど、結構な事故だったのも事実。エアバッグ、ぱっかー開いてたしな。オレも含めて、みんな大なり小なり後遺症が残ってる…」
 雨の日の、高速道路での玉突き事故。潤くんが小学生の時、家族でお婆ちゃんのいる東京に向かう際の出来事だったらしい。自動車が5台も絡むくらいの事故だったそうで、多分ニュースで見た事はあるのかな?最後尾は、とある有名な運送業者のトラックだったんですと。
 「どの車が最初だったかみたいな順番で、揉めに揉めやがってさ。そん時力になってくれたのが、弁護士先生だよ。格好良かったなぁ。あっという間に、決着つけてくれてさ…。慰謝料も、山ほどせしめたしな」
 その時のお金と、実家の富山からの仕送りで生活自体は苦しくないらしい。ただ、お婆ちゃんは頑として銭湯の経営にはお金を受け取らない。全部、潤くんの学費に回すよう言っているのだって。実際、これから大学行って司法試験受けて…。アホみたいに、金がかかりそうだ。医者とかよりは、マシなのかな?知らんけどさぁ。
 「弁護士の先生も、仕事として金もらったんで助けてくれたんだ。そんな事ぁ、言われなくても分かってる。だけどオレも、いつかあんな男になりたいなぁ。こう…困ってる人がいたら全力で力になる、みたいな」
 潤くん…。オレよりも一日しか長く生きてないのに、色んな事を考えていたんだなぁ。こんな、女の子みたいな顔してさぁ。オレ、自分の事しか考えてなかった。毎日毎日、ゆるく楽しく生きていればそれでいいやみたいな。
 今更ながら、自分が恥ずかしい。そして、学力がどうとか置いておいても…。何だか、住む世界が違うんじゃないかって思った。潤くんの歩む立派な人生に、オレなんて相応しくないよ。それにどんな可愛くたって、相手は男なんだし…。
 よし。この気持ちは、スッパリ諦めよう。銭湯の経営的には申し訳ないけど、「はたの湯」に通うのもこれっきりにする。毎月の変わり湯がどうなって行くか、それだけが心残りだけど…。
 「なれるよ、潤くんなら。そうか。弁護士志望とは聞いてたけど、それが潤くんの夢だったんだね…」
 「おう。でも、今となってはもう一つ夢が出来ちゃったかな」
 「そうなんだ。どんな?」
 「あと三百日ほど経過すれば、オレの誕生日である三月三十一日が訪れる」
 「うん」
 「そうすりゃ17歳になって、この日だけお前との年齢差は1歳になる」
 「うん?」
 「この日だけは、思いっ切り年上として振る舞ってやるからな。覚悟しとけ。にひひっ」



 うっわぁぁぁぁ。何この、可愛い生き物!
 しかも今、さり気に誕生日まで一緒にいてくれるアピールされた?
 アカン。これ、明日からも通うわ。むしろ、毎日でも通っちゃうもんね…。
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