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4章 渡り鳥
4_①
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花薄荷の香りは完全に消えた。添花は扇状に広がる緩やかな坂を下っている。道はそのうち竜鱗の谷底と同じ高さになるだろう。左手は森、右手は草原で腰の高さまで細い草が茂り、歩きやすい範囲は狭い。竜鱗は観光向きの町ではないから、人の往来といえば商人と珍しい旅人くらいのもの。荷馬車の轍もおぼろげだ。
(商人といえば。利き腕は使えないけど……そろそろ、稼いだほうがいいよね)
添花は時々、商人の護衛に雇われることで旅の資金を得ていた。地区によって生息する様々な猛獣や盗賊が、商いの邪魔をする。その撃退を請け負うのだ。
先の事を考えて早く進もうと思うのに、歩みは遅い。坂を下りきった辺りの川にかかる橋を渡ってすぐ、日の光が夕方の色に変わり始めた。野宿のために枯れ枝を集めながら進む。町はまだ影も見えなかった。
(ん、何か聞こえる)
よく耳にする、遠くから「助けて」と訴える声と重なり、草原のざわつきに言葉が混じる。霊の呼び声だ。
ふたつの声のうち、近い方の主はすぐ姿を現した。道端に転がる、腰掛けに具合のいい石に、老いた男性の霊があぐらをかいている。
「おぬし、旅の者か」
ぶつぶつ言っていた彼は、添花に気付くと無表情で話しかけてきた。
「ええ。私に何か用ですか?」
声の届く範囲に生きた人間はいない。添花は人目をはばからず老人に答えた。
「間もなく日が落ちる。よければ、この老人の話し相手になってくれぬか」
言葉は落ち着いたものでも、老人の表情はぱっと輝いた。
(おじいちゃん、案外子供っぽい顔するね)
きっと、ずっと誰かを待っていたのだ。一体何を思い残しているのだろう。未練を晴らすべく、添花は彼の側に行き、野宿の準備を始めた。
本当に、どこへ行っても霊に出会うものだ。悔いの残らぬ人生を送るのは、それほど難しい。しみじみと思いを巡らせながら、添花は心の中で渋い顔をした。
「……と、一族の者は、儂の話に全く耳を傾けなんだ。ついには儂を置いて去りおったよ」
老人は延々と話し続けている。添花が発した言葉は、ここしばらく「はい」か「いいえ」、もしくは短い感嘆詞だった。野宿の話し相手がいるのは具合がいいと老人の話に乗ったものの、これではひとりで黙っているのと変わらない。
「それからは、ひとり、ここで過ごしておる。行く人も来る人も、老人の声など聞かん。まるで聞こえぬかのように通り過ぎる。聞いてくれたのは、お前さんが初めてだ」
(霊だって自覚、なし? どれだけの間ここにいるんだろう)
彼の服に刺繍されているのは、三羽の鳥を模した紋、記憶にないものだ。旅の中で聞いた情報から推し量り、老人が何者か見当を付ける。
「鷸族の語りも、儂の代でおしまいか」
(やっぱり。喋ることが未練というより、鷸族の語りを守りたかったのか)
鷸族の現在について教えようかと考えたが、老人は時の流れを正しく自覚していないはずなので、やめた。彼の一族は天幕を住まいとする移動民族で、渡り鳥の名をとって鷸族と呼ばれた。現在は六洞に落ち着き、各地を転々とする生活を終えていた。
(じゃあ、魂だけになって何十年も、ここに? こういう、話を聞いてもらえないことって、そんなに強い未練になるんだ)
ひとりに慣れた添花にとっては、理解を超える感情だ。ひとつわかるのは、話に飽きて舟漕ぎでもしたら、彼は成仏しないということ。考えごとはここまでにして、つらつらと続く鷸族の語りを、真剣に聞こうと背筋を伸ばした。
日は落ちて、焚き火による仄かな明かりが添花を照らしている。石の上の虚空に向かって、しきりに頷く彼女の姿を、背後の森から見つめる者がいた。
(あれは……誰かの話を、聞いてる?)
眇めた目に、老人の霊は映らない。頭巾に隠れた表情は、舌打ちから想像できた。その目は恨みに燃えているが、機を見極める冷静さは残している。
(今、隙を突けば簡単だわ。でも、そうしたらあの霊は成仏できないわけか)
頭巾の女は、水芳地区で添花を襲った霖だった。彼女は添花をよく知っているらしい──霊が見えることや、彼らを成仏させる旅を続けていることを。
一方、添花は霖が何者なのか知らずにいる。添花を狙う理由も、今、離れた背後から隙をうかがっていることも。右腕をかばう仕草に気付き、ほくそ笑んでいることにも。
(ふうん、竜をけしかけたのは無駄じゃなかったようね)
霊の成仏を待ってからでも、勝機は自分にある。殺気に気付かれぬよう、睨む代わりに耳を澄ませ、霖は待った。
「え? あの辺りって晴れるんですね」
添花が久しぶりに相づち以外の言葉を発した時、老人は水芳の晴天と呼ばれる天候の話をしていた。滞在中ずっと雨だった地区を思い、添花の声には笑いが混じる。老人もまた微笑んでいる。関心を持って話を聴いてもらえるのが、大層嬉しいらしい。
「それはそうだとも。冬も雪深い地区だが、晴れると雪の中から、一気に虫が孵化するのだ。それから二十日ほどで成虫になると毒を持つ。だから、冬に水芳に行くのは危険なんだよ」
「わぁ……そうなんですか」
虫が平気な質でも、真っ白な雪を割って虫が湧く様は気持ちのいい想像ではない。添花の口元が引きつった。
「まあ、幼虫を集めて燃料を作っている以上、害虫とも言い切れんがね」
「なるほど、そういう使い道が」
水芳地区の燃料が何なのか知れたし、訪れるのを避けるべき時期も勉強になった。この老人の話はこうしてためにもなるが、つまらなく感じる者の気持ちも理解できる。各地の毒虫や猛獣の話が多いのだ。京以上の竜は岩龍地区にいる、駆龍地区には竜の他に虎や熊といった猛獣に注意すべき、など、添花が元々知っている情報が半分を占めた。物語風に工夫されているものがあっても、いつも聞かされていては飽きてしまうだろう。
「お前さん、よく聞いてくれているが旅人だろう? 各地の危険も知らないで旅をしていたのかね」
既知のことも心がけてよく聴いていたところ、けしからんという目で見られた添花は、少しむっとしながら言葉を返す。
「行く先々で、それなりに情報は集めています」
「ほう……感心だな、若いのに」
若者はダメな奴らだと、固定観念が出来上がっているのかもしれない。まともな発言をするごとに、白い髭を撫でて微笑む。こんな孫でもいればよかったと目で語った。
添花にしてみれば、初めて聞いたふりをして全てをきちんと聞くのは、苦痛に他ならない。それでもひたすら我慢した。もう真夜中は過ぎただろうか。宵の口から聞き役に徹していたので、さすがに辛くなってくる。暇だから腕の痛みを忘れられない。つられて関係ない古傷まで疼く瞬間がある。凝って来た腰をほぐすふりをして、少し腿をさすった。
(商人といえば。利き腕は使えないけど……そろそろ、稼いだほうがいいよね)
添花は時々、商人の護衛に雇われることで旅の資金を得ていた。地区によって生息する様々な猛獣や盗賊が、商いの邪魔をする。その撃退を請け負うのだ。
先の事を考えて早く進もうと思うのに、歩みは遅い。坂を下りきった辺りの川にかかる橋を渡ってすぐ、日の光が夕方の色に変わり始めた。野宿のために枯れ枝を集めながら進む。町はまだ影も見えなかった。
(ん、何か聞こえる)
よく耳にする、遠くから「助けて」と訴える声と重なり、草原のざわつきに言葉が混じる。霊の呼び声だ。
ふたつの声のうち、近い方の主はすぐ姿を現した。道端に転がる、腰掛けに具合のいい石に、老いた男性の霊があぐらをかいている。
「おぬし、旅の者か」
ぶつぶつ言っていた彼は、添花に気付くと無表情で話しかけてきた。
「ええ。私に何か用ですか?」
声の届く範囲に生きた人間はいない。添花は人目をはばからず老人に答えた。
「間もなく日が落ちる。よければ、この老人の話し相手になってくれぬか」
言葉は落ち着いたものでも、老人の表情はぱっと輝いた。
(おじいちゃん、案外子供っぽい顔するね)
きっと、ずっと誰かを待っていたのだ。一体何を思い残しているのだろう。未練を晴らすべく、添花は彼の側に行き、野宿の準備を始めた。
本当に、どこへ行っても霊に出会うものだ。悔いの残らぬ人生を送るのは、それほど難しい。しみじみと思いを巡らせながら、添花は心の中で渋い顔をした。
「……と、一族の者は、儂の話に全く耳を傾けなんだ。ついには儂を置いて去りおったよ」
老人は延々と話し続けている。添花が発した言葉は、ここしばらく「はい」か「いいえ」、もしくは短い感嘆詞だった。野宿の話し相手がいるのは具合がいいと老人の話に乗ったものの、これではひとりで黙っているのと変わらない。
「それからは、ひとり、ここで過ごしておる。行く人も来る人も、老人の声など聞かん。まるで聞こえぬかのように通り過ぎる。聞いてくれたのは、お前さんが初めてだ」
(霊だって自覚、なし? どれだけの間ここにいるんだろう)
彼の服に刺繍されているのは、三羽の鳥を模した紋、記憶にないものだ。旅の中で聞いた情報から推し量り、老人が何者か見当を付ける。
「鷸族の語りも、儂の代でおしまいか」
(やっぱり。喋ることが未練というより、鷸族の語りを守りたかったのか)
鷸族の現在について教えようかと考えたが、老人は時の流れを正しく自覚していないはずなので、やめた。彼の一族は天幕を住まいとする移動民族で、渡り鳥の名をとって鷸族と呼ばれた。現在は六洞に落ち着き、各地を転々とする生活を終えていた。
(じゃあ、魂だけになって何十年も、ここに? こういう、話を聞いてもらえないことって、そんなに強い未練になるんだ)
ひとりに慣れた添花にとっては、理解を超える感情だ。ひとつわかるのは、話に飽きて舟漕ぎでもしたら、彼は成仏しないということ。考えごとはここまでにして、つらつらと続く鷸族の語りを、真剣に聞こうと背筋を伸ばした。
日は落ちて、焚き火による仄かな明かりが添花を照らしている。石の上の虚空に向かって、しきりに頷く彼女の姿を、背後の森から見つめる者がいた。
(あれは……誰かの話を、聞いてる?)
眇めた目に、老人の霊は映らない。頭巾に隠れた表情は、舌打ちから想像できた。その目は恨みに燃えているが、機を見極める冷静さは残している。
(今、隙を突けば簡単だわ。でも、そうしたらあの霊は成仏できないわけか)
頭巾の女は、水芳地区で添花を襲った霖だった。彼女は添花をよく知っているらしい──霊が見えることや、彼らを成仏させる旅を続けていることを。
一方、添花は霖が何者なのか知らずにいる。添花を狙う理由も、今、離れた背後から隙をうかがっていることも。右腕をかばう仕草に気付き、ほくそ笑んでいることにも。
(ふうん、竜をけしかけたのは無駄じゃなかったようね)
霊の成仏を待ってからでも、勝機は自分にある。殺気に気付かれぬよう、睨む代わりに耳を澄ませ、霖は待った。
「え? あの辺りって晴れるんですね」
添花が久しぶりに相づち以外の言葉を発した時、老人は水芳の晴天と呼ばれる天候の話をしていた。滞在中ずっと雨だった地区を思い、添花の声には笑いが混じる。老人もまた微笑んでいる。関心を持って話を聴いてもらえるのが、大層嬉しいらしい。
「それはそうだとも。冬も雪深い地区だが、晴れると雪の中から、一気に虫が孵化するのだ。それから二十日ほどで成虫になると毒を持つ。だから、冬に水芳に行くのは危険なんだよ」
「わぁ……そうなんですか」
虫が平気な質でも、真っ白な雪を割って虫が湧く様は気持ちのいい想像ではない。添花の口元が引きつった。
「まあ、幼虫を集めて燃料を作っている以上、害虫とも言い切れんがね」
「なるほど、そういう使い道が」
水芳地区の燃料が何なのか知れたし、訪れるのを避けるべき時期も勉強になった。この老人の話はこうしてためにもなるが、つまらなく感じる者の気持ちも理解できる。各地の毒虫や猛獣の話が多いのだ。京以上の竜は岩龍地区にいる、駆龍地区には竜の他に虎や熊といった猛獣に注意すべき、など、添花が元々知っている情報が半分を占めた。物語風に工夫されているものがあっても、いつも聞かされていては飽きてしまうだろう。
「お前さん、よく聞いてくれているが旅人だろう? 各地の危険も知らないで旅をしていたのかね」
既知のことも心がけてよく聴いていたところ、けしからんという目で見られた添花は、少しむっとしながら言葉を返す。
「行く先々で、それなりに情報は集めています」
「ほう……感心だな、若いのに」
若者はダメな奴らだと、固定観念が出来上がっているのかもしれない。まともな発言をするごとに、白い髭を撫でて微笑む。こんな孫でもいればよかったと目で語った。
添花にしてみれば、初めて聞いたふりをして全てをきちんと聞くのは、苦痛に他ならない。それでもひたすら我慢した。もう真夜中は過ぎただろうか。宵の口から聞き役に徹していたので、さすがに辛くなってくる。暇だから腕の痛みを忘れられない。つられて関係ない古傷まで疼く瞬間がある。凝って来た腰をほぐすふりをして、少し腿をさすった。
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