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1. ヤンキー君と優等生ちゃん
11. 重要な事
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いつからだろうか。
理想を叶える手段が目的になってしまったのは。
最初は情景から始まった。
その信念、強さに憧れを抱き、自分もああいう風になりたい、と思った。
そして、少しずつ少しずつ近づくたび、より短く、より簡単に、より楽なゴールを目指すようになった。
いつからだろうか。
他人の評価ばかりを重視するようになったのは。
いつからだろうか。
他人の粗ばかり探すようになったのは。
いつからだろうか。
そういう事をするのがまったく気にならなくなってしまったのは。
このままで本当にいいのだろうか?
本当にこれで理想を叶えられるというのだろうか?
そんな風に自分を考えさせたのが学園一の不良というのだからお笑い種だ。
誰彼構わず噛みつき、気に入らない相手は容赦しない。
その振る舞いに誰もが恐怖し、"狂犬"と呼ばれた男。
どんな相手にも立ち向かっていくその勇気を、願わくば自分にも少しだけ分けてもらいたい。
*
翌日、颯空が登校すると、昨日のように昇降口の前で待ち構えている者はいなかった。別に驚くような事ではない。昨日が異常だっただけでこれが普通なのだ。
下駄箱で靴を履き替え、ダラダラと自分の教室へ歩いて行く。心なしか自分に対して向けられる奇異の目が減ったような気がする。見なりが違うだけでこんなに変わるのか。そんな事を考えながら颯空は教室の扉を開けた。
一瞬だけ集まる視線。そして、何事もなかったかのように皆が談笑を再開する。その中でただ一人、自分を見続けている者がいた。声をかけるべきか少しだけ迷った颯空であったが、目が合うと美琴はすぐに顔をそむけたため、何も言わずに自分の席に着いた。
結局、アルバイトをしていた佐藤武夫について、どうするのか美琴からは聞いていない。あのいけ好かない生徒会長に報告して手柄にするのか、見なかった事にして与えられたミッションを遂行できなかったとするか、颯空にはわからなかった。
どちらにせよ、颯空には何の権利もない以上、静観する事しか出来ない。ただ、今の態度を見る限り、もう彼女は自分に近づいてこないような気がする。それは歓迎するべき話なのだが、問題は自分の秘密に関してだ。こればかりは自分の落ち度であるため、文句を言う事なんて出来ない。
「昨日付き合ったからチャラ、ってわけにはいかねぇよなぁ……」
日当たりのいい席から外を眺めながら、颯空は呟いた。不良というレッテルだけでも勘弁して欲しいのに、『同じ学校の女子生徒の写真を生徒手帳に入れている変態』なんてアタッチメントが付いたら目も当てられない。かと言って、自分が悩めば解決する問題でもない。いっその事、美琴の頭を全力で叩いて記憶を飛ばしてみせるか? それでうまい具合に記憶が飛ぶほど、人間は単純にできてはいない。
とはいえ、美琴が自分に絡んでこなくなるのはいい事だった。昨日みたいに面倒事に巻き込まれてはかなわない。彼女さえいなければ平和な学園生活を送れるのだ。そう、周りから疎ましく思われつつ、孤独で退屈な日々が。
そう思った時、なぜかちくっと胸が痛んだ。それは顕微鏡でも見えないくらいに小さい棘なのだが、確かに自分の心の奥に刺さりこんでいる。
「……寝るか」
その正体不明の僅かな不快感を誤魔化すように、颯空は机の上に突っ伏して静かに目を閉じた。
午前中の授業が終わり、昼休みを迎える。周りから非難の目を向けられながら、然して気にした様子もなく颯空は大きな伸びと共に目を覚ました。ボーっとする頭で昼食をどうするか考えていた颯空だったが、ふと思い出し、ちらりと美琴に視線をやる。どうやら彼女が自分に話しかけてくる気配はないみたいだ。思った通り、もう自分と関わる事を止めたのだろう。元々、優等生の彼女と問題児の自分が一緒に行動していた事自体が間違っていたのだ。これで正常な世界に戻ったといえる。
そんな風に考えられたのは、放課後を迎えるまでだった。
「……起きなさい久我山君。いつまで寝ているの?」
「へっ?」
いつものようにクラスの者達が殆どいなくなるまで昼寝をしようとした颯空だったが、名前を呼ばれ反射的に顔を上げると、そこに立っている人物を見て目を丸くした。
「まったく……授業は子守唄じゃないのよ? どうせ夜遅くまでくだらない事してたんでしょ」
「は? お、お前……」
「早寝早起き! 規則的な生活! そして、よく学ぶ事! それこそが学生の本分だわ! あなたは全然その本分を全うしていない!」
「は、はぁ……」
絶対に話しかけてこないと思っていた美琴が目の前で説教を始めた事に困惑する颯空。そんな彼の様子に気が付き、美琴が怪訝な表情を浮かべる。
「なによ? そんな変な顔して」
「いや……なんで俺に話しかけてきたのかなーって思ってよ」
「はぁ? まだ寝ぼけてんの?」
美琴が心底呆れた様子でやれやれと首を左右に振った。
「さっさと会長室へ行くわよ。依頼を出された以上、私達には報告の義務があるの」
「依頼ってか課題だろ?」
「そんな些細な事はどうでもいいの! とにかく報告しに行くわよ!!」
そう言って美琴は意気揚々と教室から出ていく。報告をしに行く、という事は武夫の事を会長に告げるのだろうか。昨日の感じであれば彼を見逃すのではないかと思っていたが、どうやら当てが外れたらしい。頭を掻きながら小さくため息を吐くと、颯空は仕方なくその後について行った。
「……失礼します」
ノックをしてから、美琴が緊張した面持ちで会長室の扉を開ける。昨日と何も変わらず、眼鏡を掛けた少年がふかふかの椅子に深く腰掛けながら資料に目を通していた。
「……渚か。時間がもったいない。早速報告を聞こうか」
「ちょっと待てよ。それが人の話を聞く」
「久我山君」
資料を見たままこちらに顔を向けずに話を促してくる神宮司誠にカチンときた颯空であったが、美琴に名前を呼ばれ渋々引き下がった。それを確認した美琴は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……報告の前に一つ質問したい事があります」
「質問? なんだ?」
未だにこちらを見ようとしない誠を真っ直ぐに見据えながら、美琴は静かに口を開いた。
「仮定の話ですが、やむを得ない事情により校則を破った場合も同じように処罰の対象となるのでしょうか?」
「……なに?」
ここで初めて誠は顔を上げて美琴の方を見た。その真意を抉り出そうとする鋭い視線を前に、下を向きそうになるのを美琴は必死に堪える。
「どうしてそのような質問が出てくるのか甚だ疑問だな。どんな事情があれど、校則を破っているのだろう? だったら、それ相応の罰を受けるべきではないのか?」
「そ、それはそうですが……!」
「それとも校則は絶対ではない、と?」
口調は穏やかだった。だが、その体から溢れる威圧感はそうではない。半端な回答など許しはしない、という誠の気迫が目に見えるようであった。この感覚は颯空と初めて話した日、教室で彼に睨まれた時と酷似している。だが、決定的な違いがあった。今度の相手は天下の生徒会長であり、自分が最も尊敬する男。幻滅されたくない、という強い思いが恐怖に変わり、美琴の体を雁字搦めに縛り付ける。
理想を見つめなおし、自らを奮い立たせてここまで来たというのに。憧憬が理想を阻害する。彼女の心が折れるのは時間の問題であった。
石膏を塗り固められたかのように口は開かなくなり、重力に引っ張られ段々と顔が下がっていく。だめだ、やはり自分なんかでは……。
バシッ。
突然、何かが背中に当たった。その反動で曲がりかけていた背中がピンッと伸びる。驚いた美琴が自分の背中に目を向けると、そこには颯空の力強い手の平があった。
「しゃきっとしろよ。誰に対して啖呵を切ったと思ってんだ」
真っ直ぐ前を見ながら颯空が告げる。そうだ。二日前、この学園で誰からも恐れられている男に対し、自分はあれだけの事を言ってのけたではないか。何を今更恐れる事がある? 自分の考えは間違っていないはず。それならば、たとえ相手が憧れの人物でも恐れる必要など何もない。
背中に感じるぬくもりが美琴に勇気を与える。大きく深呼吸をすると、彼女は再びまっすぐ前を向いた。
「校則を守る事はとても重要です。守らない事を良しとすれば、たちまち学園は無法地帯と化してしまいます」
「そうだな。そもそも守らなくていいのであれば校則など無価値だ」
「はい。……で、ですが、絶対ではありません」
震えそうになる唇を必死に抑えながら美琴は言い切った。僅かに細められた誠の目から放たれる視線はバリスタのように彼女の体を貫くが、懸命に地面を踏みしめる。
「校則違反した人を考えなしに罰するのは間違っています! 私達は校則を破った理由をもっとよく聞くべきなんです!」
「聞いたところでどうする? 違反者に救いの手を差し伸べるとでも言うのか?」
「その理由によっては、です! やむにやまれぬ事情によって校則を破っている人もいるかもしれません!」
「話にならないな」
呆れたようにそう言うと誠は持っていた資料を机に放り投げ、机に両肘をつき、美琴に向き直った。
「校則を破るたびに詳しく理由など聞いていたら、いつまでたっても生徒会の仕事など終わらないぞ」
「そ、それでは生徒一人一人に寄り添っているとは言えません!」
「寄り添うべき生徒はもっと他にいる。それはしっかりとルールを守る真面目な生徒達だ。そういう者達に対してもまだまだ寄り添えているとは言えない状況で、渚は校則を破った者にも寄り添えと言うのか?」
ギロリと睨まれた美琴は一瞬言葉に詰まる。だが、ここまできたらもう止まることは出来ない。
覚悟を決めるように大きく息を吐き出した美琴は、静かに誠の双眸を見つめ返した。
「そうです。全ての生徒に寄り添う。それこそが私の理想であり、あなたから教わった事です」
凛としているが、どこか温かさを含んだ声。一切の迷いがないその顔に、眼鏡の奥にある誠の瞳が僅かに大きくなる。
「……もういい」
もう十分だ、と言わんばかりに誠は手を前に出した。そのままため息にも近い息を吐き出しながら、高級感あふれる椅子の背もたれに寄りかかる。
「お前の口ぶりから察するに、校則を破っている生徒を見つけたが、その生徒には校則を破る理由があった。だから、手放しに報告することは出来ず、先に予防線を張った……とまぁ、そんなところか?」
「そ、それはっ……!!」
唐突な誠の推察に美琴は思わず口ごもった。その推察は見事に的中している。
「渚。お前の仕事は校則を破った者を俺に報告する事だ。それ以上の事など望んでいない」
「し、しかし……」
「さっさとその生徒を教えてもらおうか? 隠し立てなどしようものなら生徒会役員とて容赦はしないぞ? いや、むしろ生徒会役員だからこそ容赦はしない」
まるで業務連絡をしているかのような淡々とした口調で誠が言った。だが、その目は本気そのものだった。この男に問い詰められれば殆どの生徒が本当の事をぺらぺら話し出す、と聞いたことはあるが大いに納得だ。この目で見られたら言い逃れなどできるわけもない。だが、美琴はどうしても言いたくなかった。昨日の事を報告してしまえば、自分の中で何かが壊れてしまう気がする。
「──聞いてなかったのか? こいつは仮定の話だって言っただろ?」
どうしたらいいのかわからず頭が真っ白になった美琴を守るように、颯空が一歩前に躍り出た。思わず颯空の顔を見た美琴。誠の視線がスーッと美琴から颯空に移動する。
「悪いな。あんたに言われた課題、達成できなかったわ」
だが、まるで気にも留めずにさらっと颯空は答えた。どうやら颯空はこの視線に耐えられる数少ない生徒らしい。
「……いいのか? それでは俺はお前を認めるわけにはいかないぞ?」
「いいも何も、校則違反を見つけられなかった俺達が悪いだろ。今回は会長様のお眼鏡に敵わなかったって話だ」
「今回は?」
「別に一発勝負だなんて言われてねぇよな?」
颯空がニヤリと笑いかけると、誠は眉をピクリと動かした。しばしの間、沈黙が流れる。勝ち誇った笑みを浮かべる颯空をジッと見ていた誠がクイッと人差し指で眼鏡を上げた。
「……ふむ。よかろう、またいずれチャンスをやる」
「相変わらず偉そうな野郎だ。まぁ、物分かりがいいのは褒めてやんよ」
「俺は生徒会長だ。屁理屈をこねる子供が相手でも、ちゃんと対応せねばならん」
誠の言葉に今度は颯空がピクリと反応する番だった。その表情から一瞬で笑みが消える。
「……子供だぁ?」
「そういう手合いはすぐに癇癪を起すから、頭ごなしに否定をしても聞く耳を持たないだろう。面倒だからある程度譲歩するに限る」
「てめぇ……!!」
颯空の怒りのボルテージが順調に上昇してきた。対する誠は冷静沈着、静かなること林のごとし。
「さて、用件は済んだだろう? さっさとお引き取り願えるか?」
「なんだと?」
「悪いがこれ以上お前らに構ってやれるほど暇じゃないんだ。そのままあほ面下げて突っ立っていると言うなら、実力行使も辞さないが?」
「……面白れぇ。その実力行使ってのを見せてくれよ」
口元は笑っているが、額に青筋を浮かべた颯空がバキボキと指を鳴らす。それまで呆気にとられた表情で誠と颯空のやり取りを見ていた美琴がハッとした表情を浮かべると、慌てて颯空の腕を掴んだ。
「お時間取らせて申し訳ありませんでしたっ! し、失礼しますっ!」
「あっ、おい! 俺はまだこの野郎に……!!」
「いいから来なさい!!」
美琴は勢いよく頭を下げると、不満顔の颯空を有無を言わさぬ口調で黙らせ、逃げるように会長室から出ていく。
嵐の前の静けさ、という言葉があるが、この場合は嵐の後の静けさだった。自分以外誰もいなくなり、静寂が戻った会長室で、誠は持っている資料に目をやりながら、僅かに口角を上げる。
「……あの渚が俺に意見するとは驚いたな」
彼女が生徒会に入ったのは去年の五月。入学してから一月しか経たずして生徒会の門戸を叩いた。それから何度も顔を突き合わせて話をしているが、今日のように自分の意見をはっきり出した事は今まで一度もなかった。誠の話に相槌を打つか同意するかの二択。従順な部下、と言えば聞こえはいいが、どちらかと言うと考える事を放棄して誠の判断に身を委ねるイエスマンに近い存在。そんな彼女が誠の発言に真っ向から意見をぶつけてきた。
どうしてそれが出来たのか。原因ははっきりしている。
「久我山颯空、か……実に興味深い」
誠は資料を机に放り投げると、椅子を半分回転させ窓から外に目をやる。彼が見ていた資料は二枚、どちらも生徒のプロフィールが事細かに書かれているものだった。一枚目には『久我山颯空』という名前が入っており、二枚目は紙が重なって名前が見えない。
「……さて。俺も会長の仕事をしなければな」
しばらく窓から見える景色を眺めていた誠はそう呟くと、ゆっくりと椅子から立ち上がり、会長室から出て行った。
理想を叶える手段が目的になってしまったのは。
最初は情景から始まった。
その信念、強さに憧れを抱き、自分もああいう風になりたい、と思った。
そして、少しずつ少しずつ近づくたび、より短く、より簡単に、より楽なゴールを目指すようになった。
いつからだろうか。
他人の評価ばかりを重視するようになったのは。
いつからだろうか。
他人の粗ばかり探すようになったのは。
いつからだろうか。
そういう事をするのがまったく気にならなくなってしまったのは。
このままで本当にいいのだろうか?
本当にこれで理想を叶えられるというのだろうか?
そんな風に自分を考えさせたのが学園一の不良というのだからお笑い種だ。
誰彼構わず噛みつき、気に入らない相手は容赦しない。
その振る舞いに誰もが恐怖し、"狂犬"と呼ばれた男。
どんな相手にも立ち向かっていくその勇気を、願わくば自分にも少しだけ分けてもらいたい。
*
翌日、颯空が登校すると、昨日のように昇降口の前で待ち構えている者はいなかった。別に驚くような事ではない。昨日が異常だっただけでこれが普通なのだ。
下駄箱で靴を履き替え、ダラダラと自分の教室へ歩いて行く。心なしか自分に対して向けられる奇異の目が減ったような気がする。見なりが違うだけでこんなに変わるのか。そんな事を考えながら颯空は教室の扉を開けた。
一瞬だけ集まる視線。そして、何事もなかったかのように皆が談笑を再開する。その中でただ一人、自分を見続けている者がいた。声をかけるべきか少しだけ迷った颯空であったが、目が合うと美琴はすぐに顔をそむけたため、何も言わずに自分の席に着いた。
結局、アルバイトをしていた佐藤武夫について、どうするのか美琴からは聞いていない。あのいけ好かない生徒会長に報告して手柄にするのか、見なかった事にして与えられたミッションを遂行できなかったとするか、颯空にはわからなかった。
どちらにせよ、颯空には何の権利もない以上、静観する事しか出来ない。ただ、今の態度を見る限り、もう彼女は自分に近づいてこないような気がする。それは歓迎するべき話なのだが、問題は自分の秘密に関してだ。こればかりは自分の落ち度であるため、文句を言う事なんて出来ない。
「昨日付き合ったからチャラ、ってわけにはいかねぇよなぁ……」
日当たりのいい席から外を眺めながら、颯空は呟いた。不良というレッテルだけでも勘弁して欲しいのに、『同じ学校の女子生徒の写真を生徒手帳に入れている変態』なんてアタッチメントが付いたら目も当てられない。かと言って、自分が悩めば解決する問題でもない。いっその事、美琴の頭を全力で叩いて記憶を飛ばしてみせるか? それでうまい具合に記憶が飛ぶほど、人間は単純にできてはいない。
とはいえ、美琴が自分に絡んでこなくなるのはいい事だった。昨日みたいに面倒事に巻き込まれてはかなわない。彼女さえいなければ平和な学園生活を送れるのだ。そう、周りから疎ましく思われつつ、孤独で退屈な日々が。
そう思った時、なぜかちくっと胸が痛んだ。それは顕微鏡でも見えないくらいに小さい棘なのだが、確かに自分の心の奥に刺さりこんでいる。
「……寝るか」
その正体不明の僅かな不快感を誤魔化すように、颯空は机の上に突っ伏して静かに目を閉じた。
午前中の授業が終わり、昼休みを迎える。周りから非難の目を向けられながら、然して気にした様子もなく颯空は大きな伸びと共に目を覚ました。ボーっとする頭で昼食をどうするか考えていた颯空だったが、ふと思い出し、ちらりと美琴に視線をやる。どうやら彼女が自分に話しかけてくる気配はないみたいだ。思った通り、もう自分と関わる事を止めたのだろう。元々、優等生の彼女と問題児の自分が一緒に行動していた事自体が間違っていたのだ。これで正常な世界に戻ったといえる。
そんな風に考えられたのは、放課後を迎えるまでだった。
「……起きなさい久我山君。いつまで寝ているの?」
「へっ?」
いつものようにクラスの者達が殆どいなくなるまで昼寝をしようとした颯空だったが、名前を呼ばれ反射的に顔を上げると、そこに立っている人物を見て目を丸くした。
「まったく……授業は子守唄じゃないのよ? どうせ夜遅くまでくだらない事してたんでしょ」
「は? お、お前……」
「早寝早起き! 規則的な生活! そして、よく学ぶ事! それこそが学生の本分だわ! あなたは全然その本分を全うしていない!」
「は、はぁ……」
絶対に話しかけてこないと思っていた美琴が目の前で説教を始めた事に困惑する颯空。そんな彼の様子に気が付き、美琴が怪訝な表情を浮かべる。
「なによ? そんな変な顔して」
「いや……なんで俺に話しかけてきたのかなーって思ってよ」
「はぁ? まだ寝ぼけてんの?」
美琴が心底呆れた様子でやれやれと首を左右に振った。
「さっさと会長室へ行くわよ。依頼を出された以上、私達には報告の義務があるの」
「依頼ってか課題だろ?」
「そんな些細な事はどうでもいいの! とにかく報告しに行くわよ!!」
そう言って美琴は意気揚々と教室から出ていく。報告をしに行く、という事は武夫の事を会長に告げるのだろうか。昨日の感じであれば彼を見逃すのではないかと思っていたが、どうやら当てが外れたらしい。頭を掻きながら小さくため息を吐くと、颯空は仕方なくその後について行った。
「……失礼します」
ノックをしてから、美琴が緊張した面持ちで会長室の扉を開ける。昨日と何も変わらず、眼鏡を掛けた少年がふかふかの椅子に深く腰掛けながら資料に目を通していた。
「……渚か。時間がもったいない。早速報告を聞こうか」
「ちょっと待てよ。それが人の話を聞く」
「久我山君」
資料を見たままこちらに顔を向けずに話を促してくる神宮司誠にカチンときた颯空であったが、美琴に名前を呼ばれ渋々引き下がった。それを確認した美琴は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……報告の前に一つ質問したい事があります」
「質問? なんだ?」
未だにこちらを見ようとしない誠を真っ直ぐに見据えながら、美琴は静かに口を開いた。
「仮定の話ですが、やむを得ない事情により校則を破った場合も同じように処罰の対象となるのでしょうか?」
「……なに?」
ここで初めて誠は顔を上げて美琴の方を見た。その真意を抉り出そうとする鋭い視線を前に、下を向きそうになるのを美琴は必死に堪える。
「どうしてそのような質問が出てくるのか甚だ疑問だな。どんな事情があれど、校則を破っているのだろう? だったら、それ相応の罰を受けるべきではないのか?」
「そ、それはそうですが……!」
「それとも校則は絶対ではない、と?」
口調は穏やかだった。だが、その体から溢れる威圧感はそうではない。半端な回答など許しはしない、という誠の気迫が目に見えるようであった。この感覚は颯空と初めて話した日、教室で彼に睨まれた時と酷似している。だが、決定的な違いがあった。今度の相手は天下の生徒会長であり、自分が最も尊敬する男。幻滅されたくない、という強い思いが恐怖に変わり、美琴の体を雁字搦めに縛り付ける。
理想を見つめなおし、自らを奮い立たせてここまで来たというのに。憧憬が理想を阻害する。彼女の心が折れるのは時間の問題であった。
石膏を塗り固められたかのように口は開かなくなり、重力に引っ張られ段々と顔が下がっていく。だめだ、やはり自分なんかでは……。
バシッ。
突然、何かが背中に当たった。その反動で曲がりかけていた背中がピンッと伸びる。驚いた美琴が自分の背中に目を向けると、そこには颯空の力強い手の平があった。
「しゃきっとしろよ。誰に対して啖呵を切ったと思ってんだ」
真っ直ぐ前を見ながら颯空が告げる。そうだ。二日前、この学園で誰からも恐れられている男に対し、自分はあれだけの事を言ってのけたではないか。何を今更恐れる事がある? 自分の考えは間違っていないはず。それならば、たとえ相手が憧れの人物でも恐れる必要など何もない。
背中に感じるぬくもりが美琴に勇気を与える。大きく深呼吸をすると、彼女は再びまっすぐ前を向いた。
「校則を守る事はとても重要です。守らない事を良しとすれば、たちまち学園は無法地帯と化してしまいます」
「そうだな。そもそも守らなくていいのであれば校則など無価値だ」
「はい。……で、ですが、絶対ではありません」
震えそうになる唇を必死に抑えながら美琴は言い切った。僅かに細められた誠の目から放たれる視線はバリスタのように彼女の体を貫くが、懸命に地面を踏みしめる。
「校則違反した人を考えなしに罰するのは間違っています! 私達は校則を破った理由をもっとよく聞くべきなんです!」
「聞いたところでどうする? 違反者に救いの手を差し伸べるとでも言うのか?」
「その理由によっては、です! やむにやまれぬ事情によって校則を破っている人もいるかもしれません!」
「話にならないな」
呆れたようにそう言うと誠は持っていた資料を机に放り投げ、机に両肘をつき、美琴に向き直った。
「校則を破るたびに詳しく理由など聞いていたら、いつまでたっても生徒会の仕事など終わらないぞ」
「そ、それでは生徒一人一人に寄り添っているとは言えません!」
「寄り添うべき生徒はもっと他にいる。それはしっかりとルールを守る真面目な生徒達だ。そういう者達に対してもまだまだ寄り添えているとは言えない状況で、渚は校則を破った者にも寄り添えと言うのか?」
ギロリと睨まれた美琴は一瞬言葉に詰まる。だが、ここまできたらもう止まることは出来ない。
覚悟を決めるように大きく息を吐き出した美琴は、静かに誠の双眸を見つめ返した。
「そうです。全ての生徒に寄り添う。それこそが私の理想であり、あなたから教わった事です」
凛としているが、どこか温かさを含んだ声。一切の迷いがないその顔に、眼鏡の奥にある誠の瞳が僅かに大きくなる。
「……もういい」
もう十分だ、と言わんばかりに誠は手を前に出した。そのままため息にも近い息を吐き出しながら、高級感あふれる椅子の背もたれに寄りかかる。
「お前の口ぶりから察するに、校則を破っている生徒を見つけたが、その生徒には校則を破る理由があった。だから、手放しに報告することは出来ず、先に予防線を張った……とまぁ、そんなところか?」
「そ、それはっ……!!」
唐突な誠の推察に美琴は思わず口ごもった。その推察は見事に的中している。
「渚。お前の仕事は校則を破った者を俺に報告する事だ。それ以上の事など望んでいない」
「し、しかし……」
「さっさとその生徒を教えてもらおうか? 隠し立てなどしようものなら生徒会役員とて容赦はしないぞ? いや、むしろ生徒会役員だからこそ容赦はしない」
まるで業務連絡をしているかのような淡々とした口調で誠が言った。だが、その目は本気そのものだった。この男に問い詰められれば殆どの生徒が本当の事をぺらぺら話し出す、と聞いたことはあるが大いに納得だ。この目で見られたら言い逃れなどできるわけもない。だが、美琴はどうしても言いたくなかった。昨日の事を報告してしまえば、自分の中で何かが壊れてしまう気がする。
「──聞いてなかったのか? こいつは仮定の話だって言っただろ?」
どうしたらいいのかわからず頭が真っ白になった美琴を守るように、颯空が一歩前に躍り出た。思わず颯空の顔を見た美琴。誠の視線がスーッと美琴から颯空に移動する。
「悪いな。あんたに言われた課題、達成できなかったわ」
だが、まるで気にも留めずにさらっと颯空は答えた。どうやら颯空はこの視線に耐えられる数少ない生徒らしい。
「……いいのか? それでは俺はお前を認めるわけにはいかないぞ?」
「いいも何も、校則違反を見つけられなかった俺達が悪いだろ。今回は会長様のお眼鏡に敵わなかったって話だ」
「今回は?」
「別に一発勝負だなんて言われてねぇよな?」
颯空がニヤリと笑いかけると、誠は眉をピクリと動かした。しばしの間、沈黙が流れる。勝ち誇った笑みを浮かべる颯空をジッと見ていた誠がクイッと人差し指で眼鏡を上げた。
「……ふむ。よかろう、またいずれチャンスをやる」
「相変わらず偉そうな野郎だ。まぁ、物分かりがいいのは褒めてやんよ」
「俺は生徒会長だ。屁理屈をこねる子供が相手でも、ちゃんと対応せねばならん」
誠の言葉に今度は颯空がピクリと反応する番だった。その表情から一瞬で笑みが消える。
「……子供だぁ?」
「そういう手合いはすぐに癇癪を起すから、頭ごなしに否定をしても聞く耳を持たないだろう。面倒だからある程度譲歩するに限る」
「てめぇ……!!」
颯空の怒りのボルテージが順調に上昇してきた。対する誠は冷静沈着、静かなること林のごとし。
「さて、用件は済んだだろう? さっさとお引き取り願えるか?」
「なんだと?」
「悪いがこれ以上お前らに構ってやれるほど暇じゃないんだ。そのままあほ面下げて突っ立っていると言うなら、実力行使も辞さないが?」
「……面白れぇ。その実力行使ってのを見せてくれよ」
口元は笑っているが、額に青筋を浮かべた颯空がバキボキと指を鳴らす。それまで呆気にとられた表情で誠と颯空のやり取りを見ていた美琴がハッとした表情を浮かべると、慌てて颯空の腕を掴んだ。
「お時間取らせて申し訳ありませんでしたっ! し、失礼しますっ!」
「あっ、おい! 俺はまだこの野郎に……!!」
「いいから来なさい!!」
美琴は勢いよく頭を下げると、不満顔の颯空を有無を言わさぬ口調で黙らせ、逃げるように会長室から出ていく。
嵐の前の静けさ、という言葉があるが、この場合は嵐の後の静けさだった。自分以外誰もいなくなり、静寂が戻った会長室で、誠は持っている資料に目をやりながら、僅かに口角を上げる。
「……あの渚が俺に意見するとは驚いたな」
彼女が生徒会に入ったのは去年の五月。入学してから一月しか経たずして生徒会の門戸を叩いた。それから何度も顔を突き合わせて話をしているが、今日のように自分の意見をはっきり出した事は今まで一度もなかった。誠の話に相槌を打つか同意するかの二択。従順な部下、と言えば聞こえはいいが、どちらかと言うと考える事を放棄して誠の判断に身を委ねるイエスマンに近い存在。そんな彼女が誠の発言に真っ向から意見をぶつけてきた。
どうしてそれが出来たのか。原因ははっきりしている。
「久我山颯空、か……実に興味深い」
誠は資料を机に放り投げると、椅子を半分回転させ窓から外に目をやる。彼が見ていた資料は二枚、どちらも生徒のプロフィールが事細かに書かれているものだった。一枚目には『久我山颯空』という名前が入っており、二枚目は紙が重なって名前が見えない。
「……さて。俺も会長の仕事をしなければな」
しばらく窓から見える景色を眺めていた誠はそう呟くと、ゆっくりと椅子から立ち上がり、会長室から出て行った。
応援ありがとうございます!
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