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第一話:午前0時の「10億円」
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23時50分。
アパートの一室に響くのは、壁一枚隔てた隣人の無遠慮ないびきと、空調の低いうなりだけだった。
宮代直樹は、いわゆる「報われない」側の男だ。
29歳、広告代理店の営業職。と言えば聞こえはいいが、現実は厳しい。
「宮代、まだノルマ届いてねえのか?お前、やる気あるの?」
上司に皆の前で公開処刑されるのは恒例行事。
努力はしているつもりだ。だが、どれだけ足を棒にして走り回っても、ライバル大手企業のネームバリューの前に門前払い。ようやく話を聞いて貰えたと思っても、最後には「君、真面目でいい人なんだけど……ごめんね」という断り文句と共に断られる。その繰り返し。
そんな屈辱に耐えて得ることが出来る報酬は、手取りで17万円ほど。ボーナスで大きく年収が変わる会社だが、その金額を決定する基準は営業成績のみ。つまり、直樹にとっては期待するだけ無駄なもの。
毎月の家賃と光熱費を払い、そこから奨学金の返済を済ませたら、自由にできるお金はほとんど残らない。
ランチは激安スーパーに売っている一番安い弁当。同僚たちが「今日、あそこのランチ行こうぜ」と談笑しながら外へ出るのを横目に、自席でスマートフォンの画面を眺めるのが日課だった。
預金残高は12万円と少し。
これが社会に出てから積み上げた人生の総量だと思うと、乾いた笑いが出る。将来の展望なんて、どこにもない。
結婚?マイホーム?冗談はやめてくれ。
自分一人が食べていくので精一杯の男が、そんな夢を見ること自体、不相応な贅沢に思えた。
「……いつまで、こんな生活が続くんだよ」
いつも夜遅くに帰宅し、薄暗い部屋で一人、天井を仰ぐ。
明日の仕事も、どうせ頭を下げて終わるだけだ。
ベッドに潜り込んでも、脳裏をよぎるのは仕事のミスと、来月の支払日のこと。
そんなことを考えているうちに午前0時をまわる。
その時だった。
充電器に接続したままのスマートフォンが、枕元で短く振動した。どうせ大した通知じゃない。そう思いながらも手を伸ばす。
暗い部屋の中で、スマートフォンの画面がまぶしく発光した。そこに表示されていたのは、心当たりのないシステム通知だった。
[データ同期開始:外部接続元 - β]
データ同期なんて操作した心当たりは無い。勝手に同期なんて始めないでくれ。そう思った直樹は、睡魔でまどろむ目でそのまま通知をタップした。そこに表示されたのは、見慣れない不気味なシステムメッセージだ。
PARALLEL UPDATE – Synchronization Start
同期先:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・デルタ
同期元:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・ベータ
同期内容:個人データ、金融情報、行動情報
「パラレル……アップデート……?」
意味不明で怪しい通知であることは確か。だが、たしかに自分の名前が記されているそれを、直樹は無視することは出来なかった。思わず「続行」と書かれたボタンをタップする。
[続行確認。インストールを開始します]
は?インストール?おいおい、意図せず勝手にインストールされているアプリなんて大抵ロクなもんじゃない。それくらいの知識はある。
だが、インストール完了の通知と同時にアプリは自動的に起動されてしまった。
そんなふざけたアプリの名前は『Beta Log』。そしてスマートフォンの画面上に映し出されたのは、まるで意味の分からない文字の羅列だった。
[ようこそ、あなたの『Beta Log』へ]
[私たちは、あなたの人生をより輝かせるためのパートナーです。別世界のあなた(β世界)が到達した『成功の軌跡』を、現在のあなたに最適化して提供します]
[目標設定:資産10億円以上の達成。社会的地位の獲得]
[準備はよろしいですか?]
「なんだこれ……?」
思わずそう口に出してしまう。どう考えても怪しい。そう思っていた直樹だったが、画面上の「10億円以上の達成」という甘い誘惑には正直惹かれてしまう。次に示されたのは、目を疑うような内容だった。
明日発表される、大規模な企業合併の情報。そしてその結果、急騰する銘柄の株価と売買シミュレーション、その最適なタイミング。他にも、誰もが知るような大企業との大型契約を取るための営業戦略や、それを可能にするシチュエーション。それらすべてが詳細なタイムスタンプ付きで記録されているのだ。
何よりも理解を超えていたのが、全ての行動に「記録対象:宮代直樹」と、自分の名前が記されていた点だ。
直樹はゴクリと唾を飲み込んだ。紛れもなく自分を指している。詐欺の類いにしては、いくらなんでも詳細すぎる内容。だが、すべて身に覚えのない出来事だ。しかも、未来の出来事ばかりが記されている。
もしかしてこれは、彼の知る「宮代直樹」ではないのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
さっきアプリを起動した際に表示された「別世界のあなた」という言葉から、一つの仮定。この行動記録は、別世界線の──アプリの言葉にならうならβ世界に存在する「宮代直樹」の行動記録だとでも言うのだろうか。
もしそうだとするならば……。
当然、この記録に書かれていることがデタラメだと切り捨てるのは簡単だ。だが、あまりにも詳細なこの記録内容に、直樹の心臓は、静かに、しかし熱を帯びて高鳴っていた。
どうせこのままの生活を続けても大した人生になどなりはしない。これが人生を変えられる最後のチャンスかもしれない。
もちろん、失敗すれば来月の家賃すら払えなくなる。だが、今の泥水をすするような生活を続けて、一体何が手に入るというのか。
俺もいよいよ頭がおかしくなっちまったかな。
やっぱりやめておくべきなんじゃないか。
いや、どうせ詰んでる人生だ、試す価値はある。
そんな葛藤を幾度も繰り返しながら、直樹は眠れない夜を過ごしていく。いま目の前にある情報が、彼の平凡な人生を最高の状態へと『アップデート』するための、完璧な「攻略本」だと信じるべきか否か。
そして直樹は、覚悟を決めた。
アパートの一室に響くのは、壁一枚隔てた隣人の無遠慮ないびきと、空調の低いうなりだけだった。
宮代直樹は、いわゆる「報われない」側の男だ。
29歳、広告代理店の営業職。と言えば聞こえはいいが、現実は厳しい。
「宮代、まだノルマ届いてねえのか?お前、やる気あるの?」
上司に皆の前で公開処刑されるのは恒例行事。
努力はしているつもりだ。だが、どれだけ足を棒にして走り回っても、ライバル大手企業のネームバリューの前に門前払い。ようやく話を聞いて貰えたと思っても、最後には「君、真面目でいい人なんだけど……ごめんね」という断り文句と共に断られる。その繰り返し。
そんな屈辱に耐えて得ることが出来る報酬は、手取りで17万円ほど。ボーナスで大きく年収が変わる会社だが、その金額を決定する基準は営業成績のみ。つまり、直樹にとっては期待するだけ無駄なもの。
毎月の家賃と光熱費を払い、そこから奨学金の返済を済ませたら、自由にできるお金はほとんど残らない。
ランチは激安スーパーに売っている一番安い弁当。同僚たちが「今日、あそこのランチ行こうぜ」と談笑しながら外へ出るのを横目に、自席でスマートフォンの画面を眺めるのが日課だった。
預金残高は12万円と少し。
これが社会に出てから積み上げた人生の総量だと思うと、乾いた笑いが出る。将来の展望なんて、どこにもない。
結婚?マイホーム?冗談はやめてくれ。
自分一人が食べていくので精一杯の男が、そんな夢を見ること自体、不相応な贅沢に思えた。
「……いつまで、こんな生活が続くんだよ」
いつも夜遅くに帰宅し、薄暗い部屋で一人、天井を仰ぐ。
明日の仕事も、どうせ頭を下げて終わるだけだ。
ベッドに潜り込んでも、脳裏をよぎるのは仕事のミスと、来月の支払日のこと。
そんなことを考えているうちに午前0時をまわる。
その時だった。
充電器に接続したままのスマートフォンが、枕元で短く振動した。どうせ大した通知じゃない。そう思いながらも手を伸ばす。
暗い部屋の中で、スマートフォンの画面がまぶしく発光した。そこに表示されていたのは、心当たりのないシステム通知だった。
[データ同期開始:外部接続元 - β]
データ同期なんて操作した心当たりは無い。勝手に同期なんて始めないでくれ。そう思った直樹は、睡魔でまどろむ目でそのまま通知をタップした。そこに表示されたのは、見慣れない不気味なシステムメッセージだ。
PARALLEL UPDATE – Synchronization Start
同期先:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・デルタ
同期元:ミヤシロ・ナオキ/ユニバース・ベータ
同期内容:個人データ、金融情報、行動情報
「パラレル……アップデート……?」
意味不明で怪しい通知であることは確か。だが、たしかに自分の名前が記されているそれを、直樹は無視することは出来なかった。思わず「続行」と書かれたボタンをタップする。
[続行確認。インストールを開始します]
は?インストール?おいおい、意図せず勝手にインストールされているアプリなんて大抵ロクなもんじゃない。それくらいの知識はある。
だが、インストール完了の通知と同時にアプリは自動的に起動されてしまった。
そんなふざけたアプリの名前は『Beta Log』。そしてスマートフォンの画面上に映し出されたのは、まるで意味の分からない文字の羅列だった。
[ようこそ、あなたの『Beta Log』へ]
[私たちは、あなたの人生をより輝かせるためのパートナーです。別世界のあなた(β世界)が到達した『成功の軌跡』を、現在のあなたに最適化して提供します]
[目標設定:資産10億円以上の達成。社会的地位の獲得]
[準備はよろしいですか?]
「なんだこれ……?」
思わずそう口に出してしまう。どう考えても怪しい。そう思っていた直樹だったが、画面上の「10億円以上の達成」という甘い誘惑には正直惹かれてしまう。次に示されたのは、目を疑うような内容だった。
明日発表される、大規模な企業合併の情報。そしてその結果、急騰する銘柄の株価と売買シミュレーション、その最適なタイミング。他にも、誰もが知るような大企業との大型契約を取るための営業戦略や、それを可能にするシチュエーション。それらすべてが詳細なタイムスタンプ付きで記録されているのだ。
何よりも理解を超えていたのが、全ての行動に「記録対象:宮代直樹」と、自分の名前が記されていた点だ。
直樹はゴクリと唾を飲み込んだ。紛れもなく自分を指している。詐欺の類いにしては、いくらなんでも詳細すぎる内容。だが、すべて身に覚えのない出来事だ。しかも、未来の出来事ばかりが記されている。
もしかしてこれは、彼の知る「宮代直樹」ではないのではないか。そんな考えが脳裏をよぎる。
さっきアプリを起動した際に表示された「別世界のあなた」という言葉から、一つの仮定。この行動記録は、別世界線の──アプリの言葉にならうならβ世界に存在する「宮代直樹」の行動記録だとでも言うのだろうか。
もしそうだとするならば……。
当然、この記録に書かれていることがデタラメだと切り捨てるのは簡単だ。だが、あまりにも詳細なこの記録内容に、直樹の心臓は、静かに、しかし熱を帯びて高鳴っていた。
どうせこのままの生活を続けても大した人生になどなりはしない。これが人生を変えられる最後のチャンスかもしれない。
もちろん、失敗すれば来月の家賃すら払えなくなる。だが、今の泥水をすするような生活を続けて、一体何が手に入るというのか。
俺もいよいよ頭がおかしくなっちまったかな。
やっぱりやめておくべきなんじゃないか。
いや、どうせ詰んでる人生だ、試す価値はある。
そんな葛藤を幾度も繰り返しながら、直樹は眠れない夜を過ごしていく。いま目の前にある情報が、彼の平凡な人生を最高の状態へと『アップデート』するための、完璧な「攻略本」だと信じるべきか否か。
そして直樹は、覚悟を決めた。
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