存在証明

チョコタロウ

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美男と野獣

一人の少女

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 朝食の時間が終わると、皆それぞれ荷物をまとめに自室へ戻っていった。
 ムトも朝食の味を思い返しながら、満足そうに自室へ向かう。

「いやー、朝ごはんもおいしかったな。あんなもの生まれて初めて食べたわ。お金持ちって毎日あれを食べてるのかな。うらやましい。」

 軽くベッドに腰かけ、伸びをしながら独り言をつぶやく。
 部屋には、昨日まとめておいたリュックサックが置かれていた。

「水筒、ナイフ、財布……よし、全部入ってるな」

 リュックの中身を確認して背負う。

「またあの森に戻るのかー」

 部屋を出るとき、ムトは名残惜しそうに周囲を見渡した。
 屋敷での一日を思い返す。
 豪華な食事、熱いお風呂、整った寝具――すべてが、英雄であった自分への投資のように思えた。
 今朝、彼女の目がはらしていた表情が、頭から離れない。

「期待に応えないとな……」

 そうつぶやき、戸を閉める。
 その音は、さっきまでよりもずっしりと重く感じられた。


 少し速足で大広間に戻ると、ノイマンが待っていた。その横には、いかにも馬車の騎手といった風貌の男が立っている。短い茶色の髪を持ち、その面持ちは、好青年という感じがするが、そのふるまいにはどこか大人の経験というものが感じられた。

「初めまして。ムトさん、すでにお話は伺っております。騎手のグレイです」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そう言って、ムトとグレイは固く握手を交わした。

 大広間で、軽く談笑しながら待っていると、アミとリエルが現れた。

「お待たせしました。」

 アミがこちらへきて頭を下げる。

「ムト、そちらの方は?」
 リエルはそう言って、グレイの方を見る。

「この方は昨日言っていた俺たちを馬車で送ってくれる方だよ。」

「どうも、騎手のグレイです」

 そういって、グレイは再度自己紹介する。
 二人も深く頭を下げて、自己紹介を返した。

「皆さん、そろいましたかな?馬車は街の入り口に停めてあります」

 ノイマンはそう言うと、ゆっくりと外への戸を開けた。
 昨日の喧騒が嘘のように、明け方の街は静まり返っている。
 商店の扉は固く閉ざされ、通りにはほとんど人影がない。
 港もまた、人影はまばらで、昨日まで停泊していた船は姿を消していた。
 昨日は潮の匂いや魚の生臭さで満ちていた街角も、今はひんやりとした朝の空気だけが漂っている。

「思ったよりも、静かですね……」

 ムトは小声でつぶやき、足元の石畳を見つめる。
 石畳は朝露でわずかに湿っており、踏むたびにかすかに音が響いた。

「まだ皆、出発前でしょう。港も人が少ないようですし」

 ノイマンが落ち着いた声で答え、視線は遠くの港を確かめるように泳いだ。
 朝の光は柔らかく、街全体を薄く包み込むように差し込んでいた。

 馬車は街の入り口に停められていた。

「最近、王都の軍隊の動きが変です。
 ノイマンは声を落とし、周囲を気にするようにして続けた。

「凶悪な指名手配犯が、ムーンベリーの森に逃げ込んだとか……。どうか、お気をつけください。」

「…ご忠告、ありがとうございます。」

 ムトは一瞬、言葉に詰まった。
 だがすぐに表情を整え、短く頭を下げる。
 グレイは馬に向かって軽く声をかける。馬たちは穏やかに鼻を鳴らした。

「さあ、行きましょうか」

 グレイの声に従い、三人は馬車に乗り込む。

「ご無事を祈ります。」

 ノイマンは祈るようなしぐさをこちらに向けてそう言ってくれた。

 パン、と乾いた音がして、
 グレイが馬に鞭を入れた。
 ゆっくりと馬車が揺れ始めた。
 朝の空気とともに、街の静寂が後ろへと遠ざかっていった。

「いやー、やっぱ馬車ってめちゃくちゃ便利だわー」
馬車の上で、ムトは水を取り戻した魚のように力を抜いた。
 椅子の上であおむけなり、体を預ける。

「ムト、そんなところで寝ると危ないぞ。」

「そうですよ。そんな子供見たいに。」

 二人が寝転んでいるムトを注意し、起き上がるように促す。

「仕方ないじゃん、ゆれが心地いんだもん。それに…」

「それに…?」

「屋敷だと、みんな英雄扱いして、みんな上品で、俺、そういうの慣れてなくて…、めっちゃ息苦しかったし。」

 ムトはそう言って、壁のに体の向きを変える。
 今は、外の空気も光も、屋敷では感じられなかった自由を運んでくるようだった。
 体が自然と解放され、肩の力が抜ける。心の中の緊張も、揺れる馬車に合わせてゆっくりと溶けていく。

「はあ……。いっちょ前にそんなこと考えてたんですか? でも、私がいる限り、ムトが英雄本人だって疑われることはありませんから」

 アミは大きなため息をつきながら言い放つ。

「そういうことじゃないんだよな…」
 彼女のずれた返答に少々不満をたれる



「アミにとって、船長はどんな人なんだ?」

 突如、リエルが口を開いた。

「……大切な人なんだろ?」

 その問いは、アミの核心に、そっと触れてくる。

「彼は、私を――一人の人間として、見てくれていました」

 アミは、少しだけ息を整えてから続ける。

「皆さんも、昨日聞いたはずです」

 視線を上げ、はっきりと告げた。

「私の名前は、アミ・グレイスです。
 でも、彼は……」

 そこで、言葉が途切れた。
 胸の奥に沈めていた記憶が、問いかけ一つで浮かび上がってきてしまったからだ。
 甲板のきしむ音。
 潮の匂い。
 不器用に差し出された、少しだけ温いマグカップ。

「……船長は」

 声を出した瞬間、それが震えているのが、自分でもわかった。
 アミは唇を噛み、視線を落とす。

「私を、グレイス嬢ではなく……アミと、一人の女の子として接してくれた方なんです。」

 叱るときも、笑うときも、呼ぶときも
 そこに、特別扱いはなかった。

「命令でも、飾りでもなくて……ただ、一人の人間として」

 思い出すのは、はじめて名前を呼ばれた日のこと。



 始めて船に乗ったとき、彼はアミに、ひとかけらのチョコレートを与えた。
 それは、ご令嬢の身であり、規律に縛られて生きてきたアミからすれば、普段口にすることのない、砂糖の塊だった。

「これ、なんですか」

「お嬢ちゃんなのに、こんなのも知らないのか」

 レイフは少し困惑したように言ってから、続ける。

「これはチョコレートって言ってな。
 甘い菓子だ」

 そう言って、包みを指で器用に開いた。
 中から現れたのは、艶のある、濃い色の欠片だった。
 アミはそれを、じっと見つめる。
 警戒というより、戸惑いに近い沈黙だった。

「……たべもの、ですか?」

「そうだ。船じゃ珍しくもない。
 腹が減ったときに食うと、少しだけ元気が出る」

 差し出された欠片を、アミはすぐには受け取らなかった。
 甘い匂いが、わずかに鼻先をかすめる。
 今まで嗅いだことのない種類の香りだった。

「おさとうは……嗜好品として、制限されています」

 真面目にそう言うと、レイフは思わず苦笑した。

「律儀だな。
 じゃあこれは、“規律の外”ってことでいい」
 一瞬、アミの視線が揺れた。
 それから、ほんのためらいの後、指先でそっと受け取る。
 小さな欠片を口に含んだ瞬間、
 アミは言葉を失った。
 甘さが、遅れて広がる。
 鋭くもなく、重くもない。
 ただ、今まで知らなかった種類の――
「許されていない味」だった。

「……ふしぎです」

 ぽつりと漏れた声に、レイフは満足そうに頷く。

「だろ。
 世界ってのはな、教えられてない味の方が多いんだ」

 アミは何も言わず、もう一度だけ舌の上で甘さを確かめた。
 それは、この船で初めて得た、
 小さな、そして確かな逸脱だった。

「お嬢ちゃん、名前は?」
「わたしの名前は、アミ・グレイスといいます」
「そうか。俺はレイフ・オルカだ。よろしくな、アミ!」
 彼は呼んだ。
 身分でも、肩書きでもなく。
 ただ、「アミ」と。
 それ以降、船に乗るたびに、彼はいろいろな味を彼女に教える。
 白くて甘い菓子。

 止まることなく海を巡り続ける、
 黒い背を持つ巨大な回遊魚。

 火で温めた硬いパンの、素朴な味。

 雲は水の塊であること。
 潮の匂いで天気を読むこと。
 森に入る前に、帰り道を必ず決めておくこと。

 桃から生まれた英雄が、鬼を退治しに行く童話。

 
 そしてーー存在を食らうオオカミの伝承
 お嬢様のままでは知ることができなかったこと。
 それらを教えてくれるレイフはアミにとって、先生、いや、育ての親のようなものであった。
 彼はアミを一人の幼い少女として接していた。
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