フローライト

藤谷 郁

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寒稽古

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土曜日の朝。

彩子は今日、空手の寒稽古を見学する。

父は早朝から釣りに出かけ、母は町内の行事で不在。弟は仕事が休みなのでまだ寝ている。

そわそわしながら一人で待っていると、8時ちょうどに原田が迎えにきた。


「おはようございます」


彩子が表に出ると、原田は明るく挨拶をして、着ているジャケットの前を開いて見せた。


「いかがです、彩子さん。リクエストにお応えして、空手着ですよ」


なるほどジャケットの下は空手着だ。

原田は随分嬉しそうだ。さては、この前の電話にまだウケているなと彩子は気が付き、横目で睨んだ。


「原田さんって、あんがい意地悪なんですね」

「アッハハ……それで、どうです。ご感想は」

「えっ」


正直、彩子は感動している。これほど似合うとは思わなかった。

それに、裸に直接着ているので、意外にも逞しい胸板が覗かれて困ってしまう。でも、それを悟られるとまたからかわれそうで、


「やっぱり黒帯だったのですね」


と、別のことを言ってごまかした。


「そりゃ10年もやってますから……」

「押忍!」

「おはようございまっス」


突然、雷のような大声が聞こえて彩子はビクッとする。

声のした方を見ると、長髪を後ろで縛った背がやたらに高い男と、短髪で背は低めだが、がっしりとした体格の男が、原田の車の前に立っていた。


「お前達、車の中にいろと言っただろう」


彼らもジャケットの下に空手着を着ている。

昨夜、道場の人と乗り合わせて行くと連絡があったが、雰囲気からすると原田の後輩かもしれない。


「そういえば家の人達は?」


原田は彩子に向き直って訊いた。


「今日は両親は留守で、弟はまだ寝てます」

「そうか。じゃ、また帰りに挨拶しよう」


そう言うと、後輩達の方に歩み寄った。


「そんな大声で、近所迷惑だろ。さあ、乗った乗った」


原田は二人の腰の辺りをバシッと叩いて車に押し込む。荒っぽい扱いだが、彩子の目には新鮮に映った。


「道場の後輩です。大学からの付き合いで……すごいでしょう」


原田はすまなそうに言うが、彩子はかえって嬉しい。今日は彼の違う一面を見ることができそうだ。


彩子が助手席に乗り、後輩達が後部席に乗り込んだ。彼らの重さで、車が一瞬大きく沈む。

同乗者がこんなにも猛者だったとは……彩子にとって、初めて見るタイプの男達である。


「30分ほどで河原に着きます」


原田はそう言うとアクセルを踏み込んだ。

今日は天気が良いが、気温は低い。河原はなおさら寒いだろうと予測し、彩子は何枚も重ね着をしている。

それに比べて原田と後輩らは、空手着にジャケットを羽織っただけ。三人ともまったく平気そうな顔なので、彩子は自分がかなり軟弱な人間に思えてきた。


「あの!」


突然、後部席から声が飛び、彩子はまたもやビクッと震える。振り返ってみると、声をかけたのは長身の青年だ。


「俺……いや僕は、木村きむら陽一郎よういちろうといいます。原田先輩とは二つ違いの大学の後輩です」

「俺は平田ひらたかおるです。同じくです!」


もう一人の青年も横から続けた。

『かおる』という名前を聞いて彩子は動揺する。こんないかつい男性が、女性のような名前とは……


「笑っていいですよ、彩子さん。平田は気にするような小さな男ではありませんから」

「押忍、恐縮です!」


原田の言葉が、平田青年は嬉しそうである。木村青年も隣でニコニコしている。


「わ、私は山辺彩子といいます。年齢は、ええと、木村さん達より一つ下になりますね」


「えっ、25歳ですか」


木村は意外そうな顔をする。


「はい。2月に25歳になります」

「へえ、彩子さんは2月生まれですか」


そう言う原田は8月生まれだ。彩子は彼の釣書を思い出す。

後輩達はまだ何か聞きたそうだが、原田に遠慮したのか、あとはシートにもたれていた。



20分ほど走ると、宮野川の堤防に出た。


「風はなさそうだな。よかった」


原田は川沿いの清々しい風景を、眩しそうに見渡す。


「あの! すみません、彩子さん」


また急に木村が彩子に話しかけた。


「はい」


彩子は今度は驚かず、後ろを向く。木村は真顔で、なぜかもじもじしている。


「なんでしょうか」

「すみません、僕ら、お邪魔してしまって」

「え?」


ぽかんとする彩子に、平田が野太い声で言った。


「二人きりの方が、良かったですよねえ!」

「なっ……」


ようやくわかった。原田と二人きりのほうが……ということだ。

彩子は慌てて、しどろもどろになる。


「そんなこと……大勢の方が楽しいですし、大丈夫ですよ」

「俺は二人きりが良かった」

「!?」


ふいに原田が口を出し、彩子は驚きのあまり飛び上がった。しかし原田は当然といった顔で、落ち着き払っている。


「やっぱりそうッスよね!」

「先輩サイコーッス!」


彩子は困惑した。このノリは、わけが分からない。

しかし、もしかしたらと推測する。これは多分、男同士の世界なのだ。よくわからないながらも、原田が二人の後輩に慕われているというのは理解できる。


(今日の原田さんは、なんだか違う)


彩子は困惑しつつ、ドキドキする胸を押さえた。


「彩子さん、もうすぐですよ」


原田は彩子の気持ちを知ってか知らずか、寒稽古の会場に到着することを教えた。いつもの穏やかな微笑みが、横顔に浮かんでいる。


(原田さん……)


彩子も今、彼と二人きりになりたいと思った。
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