星月夜の恋人

藤谷 郁

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1巻

1-1

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 駅を出ると、さめがぱらついていた。

「午前中は晴れてたのに、やっぱり梅雨つゆね」

 未央みおはため息をつくと、営業用のボストンバッグを肩に掛け直し傘を差した。
 社用車を使うほどの荷物では無いので電車で移動することにしたのだが、製品カタログや見本、販促品などを詰め込んだバッグはずしりと重い。片手に傘を持つとかなりこたえる。

(しょうがない。行こう)

 ラバーローファーを履いた足を前に出し、濡れ始めた歩道を早足はやあしで進んだ。
 今日から七月、週始めの月曜日。梅雨入りして三週間になる。
 毎日毎日、雨が降ったりやんだり、はっきりしない天気が続いている。テンションも下がりがちだが、仕事中は無理にでも上げていかなければならない。
 未央は美術大学を卒業後、美術・デザイン画材の製造販売を業務とする、よし画材株式会社に就職した。神戸に本社を置く老舗しにせメーカーである。
 営業職を希望した未央は、新宿区のビルに事務所を構える東京営業所に配属された。
 就職して八年。街の小さな画材店から、クリエイティブ部門を持つ大企業まで、様々な顧客を担当してきた。
 もしかしたら気が抜けてしまう時期なのかもしれない。さめくらいでゆううつな気分になるなんてこれまではなかった。
 だが、理由はそれだけではないと未央は知っている。
 美術に関わるこの仕事は好きだし、売上に成果があれば充実感を得られる。だから、仕事そのものが問題なのではない。
 朝から晩まで同じスケジュールで、昨日と変わらない一日。
 変わらない私――
 それが、不安なのだ。
 これから先、いつまでこの生活を続けるのか。恋愛も結婚も、夢もないままに。
 今年の秋に三十歳となることが、さらに焦りを生んでいた。今時アラサーで独身なんて珍しくもないけれど、二十代という瑞々みずみずしい響きには未練がある。
 梅雨つゆのはっきりとしない天気に、このどうしようもない焦りと不安が増幅させられていた。

「しっかりしなきゃ」

 気を引き締めるため、声に出しておのれ叱咤しったする。どんな気分であろうと、顧客には常に笑顔で接するのが営業の基本だ。憂鬱な顔などもってのほか。
 これから向かうのは未央にとって初めての訪問先だ。顧客に与える第一印象には、特に配慮しなければならない。

くにえだアート工房……か。なんだか緊張してきた)

 工房主の国枝くにえだ三郎さぶろうは、雑誌やポスター広告のイラストレーションを多数手掛けている有名アーティストだ。和を題材にしたれいなイラストが人気で、未央も画集を持っている。
 少し癖のある人物ということで、通常はベテラン営業部員が担当している。
 病欠の担当営業マンに代わり、画材を届けるよう上司の関根せきね課長に言われたのだが……

『すまない! 本当に悪いんだけど、今日は私も出張で、頼めるのが君しかいないんだよ』

 営業部員は課長を入れて八名いるが、未央の他は勤続十年以上の男性ばかりである。
 助っ人を要請されることは滅多にないものの、今日は未央以外のメンバーに余裕がなかったため指名されたのだ。

『構いませんよ。商品をお届けするだけですから』
『大丈夫だとは思うが……何かあったら、すぐに電話しなさい』
『はい、お任せ下さい』

 おおな仕草で手を合わせる課長とのやり取りを思い出し、未央はぷっと噴き出した。
 未央が美術大学の学生だった頃、〝癖のある人〟や〝ちょっと変わった人〟は周囲を見回せば普通にいた。何かあったらなんて心配しすぎだ。
 それに、どんなに癖のある人物であろうと、会社にとっては大切なお客様である。「すべてのお客様に、心を込めて誠実なサービスを」という吉野画材の社訓は、未央の信条でもあった。

(誠心誠意、誠実に……と)

 呪文のように唱えるうちに、目的地に着いていた。
 大通りに面して構えるモダンな建物が、国枝アート工房だ。入口横の壁面にスチール製の看板が掲げられている。
 未央は軽く息を整えて、腕時計を確認する。約束の時間どおりであることにホッとした。気分はゆううつでも、身体は営業部員としてちゃんと働いているのだ。
 雨足が強くなってきた背後の通りをちらりと見やる。もう少し時間が遅かったら、服もバッグもずぶ濡れになるところだった。

(あ、別のお客さん?)

 通りの向こうから白のワゴンが近付いて来て、事務所横の駐車スペースに入った。国枝は人気アーティストであり、きっとスケジュールもタイトなのだ。

(早く納品しておいとましよう)

 未央は傘を閉じるとくるくると巻いてホックをめ、ポーチに置かれた陶製とうせいの傘立てにした。
 手がいたところで、身だしなみを素早くチェックする。後ろで一束に縛りバレッタで留めた髪は乱れていない。ジャケットについた雨粒を、ハンカチで軽く押さえる。

「よし、頑張ろう」

 気合を入れてからドアホンのボタンを押すと、男性の声が応答した。会社名と名前を告げると、『横のドアからどうぞ』という返事が届く。
 準備を整えた未央はボストンバッグをきちんと持ち直すと、静かにドアを開けた。
 中に入ると受付カウンターがあり、その向こうが事務所のようだ。
 聞いた話では、事務所奥には二階まで吹き抜けになった広いアトリエがあるという。そのためかかすかに絵具の匂いがした。未央はそっと息を吸い込む。未央の好きな匂いだ。
 待ちわびたように受付カウンターに立っていたのは、国枝だった。事務員の姿は見当たらず一人きりのようだ。未央は急いで名刺を取り出して、カウンター越しに挨拶あいさつをした。

「初めまして。吉野画材の中森なかもりと申します。本日は担当村瀬むらせの代わりにうかがいました。よろしくお願いいたします」
「へえ、吉野画材さんって、あなたみたいな若いコもいるんだね。枯れたおじちゃんばかりだと思ってたなあ。まだ二十代でしょ?」
「は、はい……一応」

 国枝は四十代半ばの中年男性で、太り気味の体型をしている。画集に掲載された近影どおりの丸顔は、にこやかで愛想がよかった。たぬきの置物のようなユーモラスな外見は〝癖のあるアーティスト〟という雰囲気ではない。
 それにしても若いコなどと言われて少々居心地が悪い。未央は速やかに納品作業を始める。

「ご指定のアクリル絵具、エアブラシのハンドピースをお持ちいたしました」
「急に悪かったねえ。近所の画材屋さんでも買えるんだけど、おたくに頼んだほうがお値打で便利だから。ほんと、申しわけない」
「いえそんな、とんでもないです。いつもご注文をいただきありがとうございます」

 未央が納品書を取り出すのと、国枝がその手を握ってきたのは同時だった。見かけによらない素早さに、未央はぽかんとする。

「え?」
「ごめんね、中森さん。ちょっと見せてもらえる?」

 国枝は未央の右手を両手で支え持つと、真剣な表情で観察し始めた。

「いやあ、しらうおのように美しい。うーん、イメージが湧いてきたぞ」
「は、はあ」

 カウンターの上に納品書がぱらりと落ちる。未央は驚きながらも、これがアーティスト国枝三郎の癖なのだろうと考える。

「素晴らしい。これこそがボクの求めている女性の素肌だ。ああ、今すぐにでも写し取りたい!」

 国枝の手のひらが汗ばみ始めた。じっとりとした感触は正直不快だが、未央は自分に言い聞かせる。国枝に他意はない、これはアーティストとしてのやむにやまれぬ衝動なのだ。

「悪いんだけど、中森さん。デッサンさせてくれない?」
「デッサン……私の手を、ですか?」

 国枝は満面の笑みで頷くと、事務所の奥をあごで指した。アトリエで、ということだ。

「頼む、助けると思って。芸術アートのためなんだ、協力してくれないかな」
「芸術……」

 ――心を込めて誠実なサービスを。

(どんな癖があろうとこの方はお客様で私は営業部員。きちんとお付き合いしよう)
「分かりました。多くの時間は取れませんが」
「おお、ありがとう! じゃあ早速案内するね。さ、どうぞどうぞ」

 国枝はカウンター内に未央を招くと、あらためて手をとった。
 未央は緊張しながらも、インスピレーションを得たらしい芸術家に、大人しく右手を預けた。


 ピンポーン


 ドアホンの音が割り込んだのは、アトリエに入る直前だった。
 国枝は舌打ちをすると、「ちょっと待っててね」と未央に笑いかけてからドアホンの応答ボタンを押した。片手は未央の手を握ったままである。

「はいはい」
『国枝先生、おはようございます。アド・ブライツの倉本くらもとです』

 やや低めだが、かつぜつのよい男性の声が聞こえてきた。

「えっ、倉本くん? もうそんな時間か」

 モニターで来客を確認した国枝は、しばし考えるように黙りこむ。

「ごめん、事務所に入って待っててくれる? 打ち合わせの準備をしておいてよ」
『分かりました』

 先ほど駐車場に入った白のワゴンでの来客がこの声の主だろうと、未央は気付いた。

(アド・ブライツといえば大手の広告代理店だわ)

 未央は、浜松町に建つ高層ビルを思い浮かべる。広告業界では一、二位を争う大企業だ。
 国枝は一流のアーティストであり、大きな仕事の依頼も多いのだろう。美大生時代、絵描きとして生きる人生を夢見ていた未央にとっては尊敬の対象である。さすがという思いで国枝を見直した。

「では再開しましょうね、中森さん」

 広告会社の人を待たせていいのだろうかと心配して振り返るが、国枝にぐいぐい引っ張られるままアトリエに入った。
 噂どおり、天井が吹き抜けの広々としたスペースだった。窓からの採光や配置されたライトで、部屋は隅々すみずみまで明るい。
 正面の壁には制作途中らしき巨大なキャンバスが立てかけられている。床には絵具、パレットといった基本的な画材の他に、ペットボトル大のスプレーや、筆を束にして投げ込んだバケツなどが置かれていた。
 まさに工房といった豪快な光景に、未央は圧倒された。

「素晴らしいアトリエです!」
「ありがとうね。でも、そんなことより」

 国枝は未央の手を自分の両手で包むと、ぎゅっと握りしめてきた。異様に強い力に、思わず顔をしかめる。

「あ……あの?」

 国枝の顔つきが変わっている。事務所では愛想もよく普通の態度だったが、今はそうではない。ぎらぎらとした目つきで、鼻息も荒い。顔中汗だくになっている。
 未央はびくっとするが、冷静に考えようとした。

(こんな経験は美大生時代にもあった。普段は穏やかでやさしいのに、絵を描き始めると別人のように気短きみじかになる先輩とか。きっと、芸術家モードにチェンジしたのね)

 それにしても、尋常ではなく興奮している。アトリエに入ったことでインスピレーションが高まり、燃えてきたのか、それとも――

「デッサンは後にして、形を確かめさせてもらうね」

 国枝は言うなり五本の指を絡めてきた。ぬるぬるとした感触が指の股まで食い込んできて、未央は小さく悲鳴を上げる。

「大人しくしてて、ね、いい子だから」
「くっ、国枝先生?」
「きれいだなあ。キミ、画材屋なんてやめてボクの専属モデルにならない? 優遇するよ」
「え……」

 今の言葉はどういう意味だろう。理解しかねている未央に、国枝は補足した。

「キミみたいに若くて上品できれいな女性って、どストライクなんだよねえ」
「はあ?」

 突然、課長の言葉を思い出す。

『何かあったら、すぐに電話しなさい』
(何かって、こういうこと? 国枝三郎の癖って『女癖』だったの?)

 唇をすぼめて迫ってきた。もう間違いない。これは芸術家モードではなく、変態モードだ。

「困ります。おやめ下さい!」
「今さら何よォ。ここまでついて来たってことは、ちょっとは気があるんだろう? さっきも憧れの眼差しでボクを見てたじゃない」

 国枝は握力を増して指を締めてくる。未央はもがいたが逃れられず、顔だけやっとそむけた。頬にねっとりとした唇が触れようとしている。

「いやあっ」
「国枝先生、準備が整いました。打ち合わせを始めましょう」

 未央の悲痛な叫びに、静かで落ち着いた声が重なった。

「へ?」

 シンとしたアトリエに、国枝の間の抜けた返事が響いたのは数秒後。
 未央は国枝の力が緩んだ隙に指をほどいて飛び退き、変態の暴走を止めてくれたその人を確かめる。
 上等なスーツを身につけた若い男性。いかにもエリートビジネスマンといった風情。
 この人が、大手広告代理店アド・ブライツの――

「くくっ、倉本くん! 困るなあ、事務所で待っててくれと言ったでしょう」

 取り乱す国枝に、倉本はしごく冷静な様子でこの場に現れた理由を述べる。

「約束の時間です」

 にこりと微笑み、国枝の正面にゆっくりと進んだ。
 年齢は未央より少し年上だろうか。きれいな鼻梁びりょうに、黒目がちの目。顔立ちは優しげだが、凛々りりしい眉が男らしい印象を与えている。
 背が高くバランスの取れたたいも、男性としての魅力に溢れている。物語に出てくる騎士のようなたたずまいのその人に、状況を忘れて未央は見惚みとれてしまった。

「国枝先生」
「な、なんだね。ここはボクのアトリエだぞ。勝手に入って来るなど……」
「本日お持ちしたのは、私どもアド・ブライツ企画営業部が総力を挙げて取り組む重要なプロジェクトです」

 倉本の穏やかでありながらも厳しい口調に、国枝の興奮度が急降下していく。『総力』『重要な』という言い方がプレッシャーになったようだ。

「正式に引き受けていただけると、ありがたいのですが」
「ちょ、待ってくれよ。そんなの、話を聞いてみないことには」

 国枝はたじたじだが、倉本は構わず続けた。

「国枝先生への依頼は部長のほんじょうの意向でもあります。制作チームも精鋭を揃えようと、本庄自ら動いていますよ」
「え、あの本庄さん……が?」
「はい。大プッシュです」
「く、倉本くん、そういうことは最初に言ってくれなきゃー」

 なぜか国枝はみるみるうちにご機嫌になった。
 倉本は再びにこりと笑う。それはおそらく勝利の笑みだが、未央はわけが分からずの外である。

「それじゃ、早速打ち合わせに入ろうかね。そうか、本庄さんがボクをねえ」
「ええ、頑張りましょう。一分一秒も無駄にできません」

 二人は未央を置いてけぼりにして立ち去ろうとした。国枝の魔の手から解放されたはいいが、このまま空気扱いではかなわない。

「あ、あのっ、国枝先生」

 国枝は足を止め、「えっ?」という顔で振り向いた。倉本も立ち止まったが、彼は振り向かない。というより、さっきからずっと未央を眼中に入れていない。
 国枝の白々しいとぼけ方に、未央はぐっとこぶしを握り締める。あんなことをしておいて、何ごともなかったように振舞うなんて。
 しかし、どう言えばいいのか分からず口ごもっていると、国枝はぽんと手を打った。

「あー、ごめんねキミ。なんだっけ。そうそう、納品に来たんだよね」

 国枝に促されて事務所に戻ると、彼は伝票に素早くサインして受領書を渡してきた。未央の指に触れた手のひらは、嘘のように乾いている。

「じゃ、またね」
(またね……って、それで済ませるつもりなの?)

 国枝に対する尊敬の念は消え去り、怒りがこみ上げてくる。イメージが湧いたとかスケッチしたいとか、ぜんぶ嘘だったのだ。芸術への純粋な思いを利用された。
 未央にとって、とてつもなく大きな屈辱だった。
 恨めしげな目で追っていると、倉本がいきなり未央の前に立ちはだかり視界をさえぎった。

(えっ!?)
「先生、少しお待ち下さい。車に荷物を取りに行ってきます」

 彼は国枝に声をかけてから未央に近寄り、そして背中を押すようにしてドアの外に連れ出す。
 有無を言わさぬ勢いに、未央は逆らう間もなかった。


 外に出ると、大粒の雨が地面を叩いていた。
 未央は倉本とポーチで向かい合う。雨の音に包まれていると、段々落ち着いてきた。そしてようやく気がついたのだ。彼が国枝から助けてくれたことを。

「大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 縮こまりながらも感謝と謝罪をし、名刺を出してあらためて挨拶あいさつをした。彼は黙って受け取り、名刺と未央を見比べている。
 いや、彼には迷惑をかけるどころか貴重な時間を奪ってしまっている。今、この時も。

「吉野画材と言うと、老舗しにせのメーカーさんだ。それにしては、上手くない対応だったね」
「……申しわけありません」

 未央は再び頭を下げる。率直なマイナス評価に打ちのめされるが、まったくもってそのとおりなのだから仕方ない。

「国枝先生は優れたアーティストだけど、多彩な癖の持ち主でね、女癖の悪さはそのひとつ。車の中から君を見かけて、危なっかしいなとは思ったが」

 入口ドアの前で身だしなみを整えていた未央を、倉本は観察していたらしい。入社八年目、営業経験を積んだつもりが、危なっかしいなどと言われて未央はへこむ。

「なぜアトリエについて行った?」
「それは……」

 未央は言葉を詰まらせるが、正直に答えるべきだと思った。分かってもらえないかもしれないが。

「誠実な仕事をするためです」

 案の定、倉本は呆れ顔になる。

「君は〝誠実な仕事〟のためなら身を差し出すのか」
「そんなつもりはないです。ただ、芸術の助けになるのならって」

 倉本の指摘はきついけれど、的を射ている。情けなくて声が震えた。

「これからは気をつけるんだね。不用意な営業は会社の利益を損ねる」

 そのとおりだと、未央は痛感していた。逆切れされて取引停止にでもなったらどうする。国枝三郎の発言は現代アートの世界で強い力を持つ。そんな彼に吉野の製品を悪く言われたら?
 未央はそっと顔を上げ、あらためて倉本を見た。そんなピンチからもこの人は救ってくれたのだ。
 凛々りりしい眉の下にある黒い瞳は、美しく澄んでいる。

「何?」
「は、いえ……」

 つい、吸い込まれるように見つめてしまった。知らず頬が熱くなり、胸が高鳴ってくる。
 彼に助けてもらって、このまま済ませてもいいのだろうか。いや、そんなわけにはいかない。社会人としてだけではなく……。未央は、理性と感情がごちゃまぜになった気持ちで彼に申し出た。

「本当にすみませんでした。その、もしもご迷惑でなかったらお礼をさせていただきたいのですが」
「それには及ばないよ」

 倉本は眉をひそめ、なぜか冷たい視線になって未央を見下ろす。

「言っておくが、君を助けたわけじゃない。あの状況を自分の仕事に利用しただけ。それよりも、ああいった男にはもっとぜんと対応することだ」

 厳しい口調で言うと、倉本はドアを開けて事務所に入ってしまった。
 激しい雨音に、胸の高鳴りも掻き消される。ポーチに取り残された未央は呆然として、しばらく動けなかった。
 あれは、『今後君と関わるつもりはない』という意思表示だ。
 倉本と名刺交換して後日あらためてお礼をしたいと未央は考えていたのだが、名刺はもらえなかった。つまり身をかわされた。いや、拒絶されたのだ。

「そうか。そうよね」

 上等なスーツ。現代アート界のゆうである国枝三郎に対する堂々たる態度。トラブルにも落ち着いて処置できる能力。彼は、大手広告代理店アド・ブライツの敏腕びんわん営業マンなのだ。
 吉野画材は老舗しにせメーカーとはいえ、企業としての規模は彼らの足元にも及ばない。未央は営業所勤務のヒラ社員。しかも、彼の目の前で失態を演じている。まともに相手をされるわけがない。
 夕暮れの電車に揺られながら、雨ににじむ街をぼんやりと眺めた。今日は一日、気がつけば倉本という男性のことばかり考えている。
 助けてくれたこと、冷たくされたこと。そして何よりも、美しく印象的な黒い瞳。
 電車にブレーキがかかり、身体が傾いた。ボストンバッグは行きに比べれば軽いけれど、形がごついのでバランスを取りにくい。ふらついて肩をぶつけた隣の乗客に、未央はぺこぺこと謝った。

『君を助けたわけじゃない』

 そうかもしれない。あの時、倉本は国枝の行為を止めてくれた。未央を助けた格好だけれど、やはりあれは状況を利用しただけなのだ。女性に乱暴しようとした現場を押さえられた国枝は、彼に対して弱腰だった。
 営業マンとしてのレベルが違う。
 未央がお礼をしたいと申し出たのは、彼と関わりたいという下心もあったからだ。それを見抜かれ拒絶された。何よりも、あんな目に遭った直後にそんなヨコシマなことを考えるなんて営業部員として情けない。そして恥ずかしい。

(そうだ、私は仕事でミスをしたんだ)

 ずーんと気分が重くなる。結局のところ、国枝のセクハラを見抜くことができなかった未央の失態だ。敏腕営業マンへのお礼より、自分の未熟さをまずは反省しなければ。
 営業所に着く頃には雨は上がっていたが、未央の心はどんよりしていた。
 関根課長には、国枝アート工房での出来事をあらかじめ報告しておいた。彼は未央からの電話に、「あちゃー」となげいたけれど、失態を責めはしなかった。
 それどころか、疲れて帰社した未央にコーヒーをれてねぎらってくれた。これには未央も驚いた。課長手ずからの一杯にゆううつな気分もやわらぐが、ここまでしてくれるのには理由があるはずだ。

「ところで、どうして国枝先生の癖を前もって教えてくれなかったんですか?」

 そこはきっちり究明しておきたかった。コーヒーでうやむやにされてはいけない。

「そ、それはだね」

 ぼそぼそと課長の口から出たのは、国枝三郎は『三十を過ぎた女には興味がない』という衝撃の事実だった。

「いやあ、国枝先生の数あるこだわりのひとつでね。だから、中森くんはその、そろそろ大丈夫かなと。でも国枝先生には若く見えたんだねえ。良かったね、なんて言ったら不謹慎だけども。はは……」

 さすがに気まずいのか、冗談も笑いもぎこちない。
 国枝は女性を年齢で振り分ける人だった。だから『まだ二十代だよね』と未央に確認したのだ。
 不愉快な話だが、そこのところはきちんと教えておいてほしかった。

(それに、私はまだ二十九歳なんですけど!)

 複雑な心境だが、アラサーには違いない。未央は文句と一緒に罪滅ぼしのコーヒーを飲み干した。

「ところで、その広告マンはいいのかね、お礼をしなくても」
「はい。かえって迷惑な様子でしたから」

 自分で言っておきながら、未央はその言葉に傷付いていた。落ち込んだ気分を散らすように首を横に振る。

(そんなことより、仕事を頑張らなくちゃ。私はまだまだ半人前。ゆううつだなんて言ってられない)

 業務報告書を作成し、明日の準備を整えてから退社した。

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