星月夜の恋人

藤谷 郁

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1巻

1-2

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 ビルを出ると、再び雨が降っていた。傘を開く前に夜空を仰ぐ。
 ぶ厚い雨雲の上には、無数の星が輝いているはず。今、ここからは見えないけれど……
 未央はきらめく星々を想像し、あの人の姿を重ねる。
 スーツの肩先に光る雨粒すらも、彼の優美さを演出する宝石だった。未央は吸い込まれるように見惚みとれ、胸の高鳴りを覚えていた。
 彼にひと目惚れをしたのだと自覚する未央だが、傘を広げると小さく息を吐く。見えない星ではなく現実を見るべきだ。
 歩道を行く人の流れに混ざると、未央は意識的に頭を切り替え、もうひとつのことを考え始める。それは、倉本に対するのとはまた別の胸の高鳴りで、大切な想いだった。
 散々な目に遭ったものの、国枝の本格的なアトリエに未央は刺激を受けていた。美大生時代、絵画の制作に明け暮れていた日々を思い出す。画家になることを夢見た、あの頃……

(そうだ、久しぶりに美術館巡りをしよう。遠くに出かけてスケッチするのもいい)

 長い間忘れていた感情が、雨のように降り注いだ一日だった。


 首都圏のベッドタウンと呼ばれる千葉県北西部の町に、未央の実家はある。生まれ育った町を離れ家を出たのは、大学進学のとき。未央は上京し、大学近くの寮に入ったのだ。
 木造二階建ての古い学生寮は、画学生向けの造りになっていた。個人の部屋のほかに広いアトリエがあり、学生が集まり思い思いに絵画を制作している。
 天井が高くスペースも広かったので、大型キャンバスを持ち込んでも大丈夫。換気がいいので、オイルの匂いもこもらなかった。

(課題に追われてよく徹夜したなあ。制作は大変だったけど、楽しかった)

 日曜日の朝、未央は出かける準備をしながら懐かしく思い出す。卒業して七年にもなるのだ。
 大学卒業後は寮を出て、東に十駅ほど離れた三鷹みたかに引っ越した。寮の近所に住み続ける仲間もいたが、未央は手ごろな家賃の1DKのアパートを探した。
 通勤に便利だからという理由もあるが、本音は、大学の近くには住みたくなかったのだ。

(かといって、遠く離れることもせず。中途半端よね)

 会社帰りにデパートで衝動買いしたワンピースに着替える。白地に小花を散らした可愛らしい柄だけど、Ⅴ字襟が大人っぽい。未央の年齢相応のデザインで、着痩せする体型にもほどよくフィットしている。
 コーディネートに満足すると、次はメイクを始めた。相変わらずの曇り空なので、ミントグリーンのアイシャドウを選んで目もとにほどこす。涼しげな色合いに、さわやかな気分になった。マスカラも口紅も、いつもより時間をかけて丁寧に仕上げていく。
 ひと粒パールのネックレスを飾ると、ゆるくカールした髪をふわりとらして準備完了。
 鏡の前に立つと、久しぶりにお洒落しゃれした自分が少し照れくさい。大学時代に付き合った彼と、初めてデートしたときの姿が重なる。その彼との関係は、卒業とともに自然消滅したが。

(エッチもしたけど、恋人というより友達だったのね、多分)

 胸が苦しいほどときめき、その人に会いたくてたまらないのが恋のはずだから。きっと……

「さ、行こうっと」

 今日肩にかけるのは、ごつくて重たいボストンではなく、小ぶりなチェーンバッグだ。
 去年の今頃、有名ブランド店で買ったのだが、彼氏ができてから使おうなどとあてのない予定を決めて取っておいた。でも、考えてみれば予定は未定だし、型も古くなってしまうので、使わなければもったいない。それと同じことが、未央の生活パターンにも当てはまる。
 平日は職場とアパートの往復のみ。その上休日まで部屋に閉じこもっていては、出会いなんてあるはずもない。それこそ、どんどん古くなっていくばかりだ。ゆううつな自分を打破したいなら、変わらなくては。
 そして、過去にとらわれていては夢も持てない。
 未央はいても立ってもいられない気持ちでこの一週間を過ごした。あんなふうにときめいたのは初めてだった。忘れようとしても忘れられない。
 生活を、自分を変えたなら、あの人にまた会えるような気がする。
 初めてのデートに出かけるみたいにわくわくしながら、アパートのドアを開いた。


 未央はまず上野に向かった。
 国立西洋美術館は学生時代に何度も訪れていたが、今日は久しぶりのため、新鮮な気持ちで作品を鑑賞することができた。
 十九歳の未央に衝撃を与えた西洋絵画は、当時と変わらず深い美しさをたたえている。
 しかし、未央も少しは大人になり、落ち着いたためだろうか。あの頃は絵具の肌合いや質感といったマチエールにばかり気を取られていたが、今は適度な距離で鑑賞できる。
 美大を卒業してから遠のいていた美術館巡りは、思いがけない自分の成長を教えてくれた。

(でも、少し寂しいかな)

 未央は、今でも時々絵を描いている。鉛筆画や水彩画を、スケッチブックに気の向くまま。だけど、いつも描きかけで終わってしまい、学生時代のようなこだわりも高揚感もない。それは感性がとぼしくなった証拠だ。
 最近になって、油絵だったらまた違うのだろうかと考えるようになった。
 しかし、油絵を制作するには未央のアパートは換気が悪く、環境的に不向きだった。部屋に油絵具や溶剤の匂いが染み付いても困る。
 かといって、街の絵画教室に通うとか屋外で制作するとか、そこまでする気力も湧いてこない。


 ――君の絵はつまらないね。


 気力を取り上げてしまうのは、ひとつの記憶。
 描きたいのに描けない中途半端な夢。過去にとらわれていては夢も持てないと分かっているけれど、未央の心にはまだ傷が残っている。

「……移動しよう」

 建物を出ると、今にも雨が降り出しそうなどんてんのもと、彫刻ちょうこくが点在する前庭へと歩き出した。
 それほど広くない庭の右手からゆっくりとひと回りする。ロダンのブロンズ彫刻〝地獄の門〟に差し掛かった時、雨が降り始めた。周囲にいた客は慌てて、建物の下へと走っていった。

(朝は晴れでも、やっぱり雨、か)

 未央は念のために用意してきた傘を差す。新緑の木々を打つ雨音がにぎやかになり、先日のことが思い出された。できるものならもう一度彼に会いたい。会ったところで相手にされないだろうけれど。それに、そもそも彼には恋人が――もしかしたら奥さんが、いるかもしれない。第一彼はもう未央のことなど覚えていないだろう。それでも、一瞬でもいい。彼の瞳に映り込んでみたい。

(倉本さん……か)

 顔と苗字、勤め先、そしてクールな態度。それ以外何も知らない人なのに、思い出すだけでどきどきする。懸命に忘れようとしても、切なくなるばかりだった。
 彼に会うために、国枝アート工房の周辺で待ち伏せでもしてみようか。なんなら彼の勤め先まで行ってみようか……馬鹿げた考えを浮かべては即座に打ち消す。そんなの、異性に最も嫌われる行為だ。
 理想的なのは、偶然再会すること。未央は幾通りものパターンを考え、その後の展開を都合よく妄想したりする。

「またお会いしましたね」
(そう、たとえばこんな感じに声をかけられて……え?)

 雨音に交じり、男性の声が聞こえた気がする。

(後ろから声がしたけど……今のは私に?)

 さっきまで、未央の他に誰もいなかったはず。未央の心臓は早鐘はやがねを打ち始める。倉本にそっくりの、静かで落ち着いた声。まさか……
 彼のことばかり考えているから、神様が引き合わせてくれたのだろうか。いや、そんな夢みたいな話、あるわけがない。妄想するくせに、未央の思考はこんなところで現実的だった。
 だが――

「せっかくのご縁ですし、よろしければ、美術館のカフェでお茶でも飲みませんか」

 間違いなく、現実。そしてこれは、倉本の声。

(やっぱりそうなの? でも、どうしてこんなに好意的に話しかけるの? じゃなくって、ああ、本当に倉本さんなの?)

 震える手で傘のをぎゅっと握りしめた。
 勇気を出して、未央はそうっと振り返る。そこにいるのは……

「うっ」

 あまりのギャップに未央は絶句した。まるまるとした顔と体型。シャツのボタンが千切れそうなほど腹がせり出している。倉本とは似ても似つかぬ、それどころか国枝を連想させるたぬき風中年男だった。

(彼そっくりの魅惑的な声の持ち主が、こんな狸おじさんだなんて、ひどすぎる!)

 見も知らぬ相手に失礼なことを考える未央だが、それは落胆の反動による混乱だ。期待しすぎてばくばくしていた心臓が収まらない。

「ね、いかがですか」
「……すみませんが、人違いです。私はあなたを存じません」

 男の手がさっと伸びて、未央の手首を掴んだ。見かけによらぬ素早さは、正に国枝ばり。

「ひっ」
「まあまあ、いいじゃないですか。おごりますから、ちょっとだけ付き合ってくださいよ」

 強く引っ張られ、怖さのあまり未央は思いきりその手を振り払った。弾みで傘の柄が男に当たり、「ぎゃんっ」と悲鳴が上がる。

「ごめんなさいっ。失礼します」

 美術館の庭を飛び出すと、公園の並木を振り向かずに走った。

(あれは知り合いをよそおって近付くナンパだ。そんな相手にまともに受け答えするなんて間抜けすぎる。倉本さんに再会するなんて、身の程知らずな願望を持ったからだ!)

 ――この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ。
 地獄の門の銘文が追いかけてくる。泣きそうになりながら未央は逃げた。間抜けでもいいから、希望だけは持ちたかったのだ。


 未央は急いでアパートに帰ろうと電車に飛び乗った。しかし、さっきの男につけられていたらと不安になり、降車駅を変えることにした。三鷹を通り過ぎ、途中で乗り換え、もっと先の駅で降りるのだ。
 外を見ると、あんなに降っていた雨がもう止んでいた。せっかくお洒落しゃれしたのに、髪もメイクも雨風で崩れてしまった。未央は車窓から目を逸らすと、みじめな気持ちでうつむいた。
 ここは学生時代によく利用した駅。寮からさほど離れていない懐かしい場所に、未央は降り立った。そっと後ろをうかがうが、男につけられている様子はない。ホッとして時計を確かめると、正午を回っている。

(これからどうしよう)

 未央はしばらく迷っていたが、駅前の風景を眺めるうちに、気がつけばふらりと歩き出していた。学生時代の思い出が次々によみがえり、何十年ぶりかで故郷に戻ったかのように胸がいっぱいになる。

「変わってない。あの頃のままだわ」

 電車に傘を忘れてきたと気付いたのは、再び雨が降り出してから。
 商店やビルが建ち並ぶ通りで雨宿りするひさしを探すが、適当な場所が見つからない。少しためらったが、本降りの雨に追い立てられて、未央はとある建物に駆け込んだ。
 ――とよだ画廊――
 レンガ風の外壁に木枠の窓。昭和レトロな三階建てビルは、あの頃と変わらぬたたずまいを見せている。
 モスグリーンのドアを開けると、独特の静けさが未央を包んだ。
 ここは学生時代、たびたび訪れた画廊だった。地元の作家を中心とした個展が定期的に開催されており、教授が勉強のためにと学生達を連れてくるのだ。
 画廊に併設されたカフェでお茶をするのも慣例で、教授はいつもカフェオレを注文していた。『パリの香りがする』と、楽しそうに笑っていた。

(つい入ってしまったけど、どうしよう)

 展示会は開かれていないようで、通常営業のフロアは客も数えるほど。すぐにオーナーが未央を見つけ、近寄って来た。

「いらっしゃいませ。外は大変な雨ですね、よろしければタオルをお使い下さい」
「あっ、いいんです。私は」
「さあ、ご遠慮なく。風邪を引いてしまいますよ」
「すみません……」

 激しい雨に打たれ、髪も服も濡れている。未央は差し出されたタオルを使わせてもらった。
 人のい笑顔で応対するオーナーの豊田とよだとは、七年ぶりの再会だ。
 細面に丸眼鏡、四季を通じてタートルネックにジャケットという定番スタイルは変わらない。しかし頭髪には白いものが目立ち、七年前に比べてずっと年を取って見える。

「あれ……もしや」

 豊田は未央が誰なのか気づいたようだ。未央は服装の乱れを直してから挨拶あいさつをした。

「こんにちは、ご無沙汰しております、中森と申します。ひら美術大学に在籍中は、大変お世話になりました」
「ああ、やっぱり。炭窯すみがま教授の教え子でいらした……」

 未央が頷くと、豊田はぽんと手を打った。

「そうそう、中森さんだ。ええと、七年ぶりでしょうか。いやあ、見違えましたよ」

 豊田は未央が戸惑うほど喜んでくれた。近況をたずねられ、画材会社の営業をしていると話したのだが、意外なことに豊田はそのことを教授から聞いて知っていた。

「中森さんのことは印象に残っています。教授がずいぶん可愛がっておられた」
「……いえ、そんな」

 急に居心地が悪くなるが、すぐに出て行くことはできない。窓の外は土砂降りの雨で、雷鳴まで聞こえているが、未央は傘を持っていないのだ。

「教授はお元気ですよ。今でも学生さんと一緒に、たびたび訪れて下さいます」
「そうですか……お変わりないのですね」

 少し安心する。未央にとっては複雑な思いを抱いている人物ではあるが、元気なのは何よりだ。

「ごゆっくりどうぞ。よろしければカフェでおくつろぎ下さいね。メニューは相変わらずですが」

 いたずらっぽく片目をつむる豊田に頭を下げる。雨宿りのためにたまたま立ち寄っただけなのに、温かく接してくれる。学生時代と変わらぬ親切がありがたかった。
 未央は展示室を見学することにした。

(私は絵が好きだった。特に、炭窯教授の油彩画に傾倒していたな)

 板張りの床をゆっくりと進む。展示されているのは画廊が取扱う作品の一部だが、多様なイメージの油彩画が揃っている。すべてファインアートと呼ばれる絵画だ。ファインアートとは、実用的な目的を持たない純粋美術である。例えば広告は〝情報を伝える〟という実用目的を持つが、ファインアートにはそういったものはない。そのためいずれの作品からも芸術性を追求した奥深さが感じられる。
 有名画家による作品は、ほとんどのキャプションに売約済みの印がついていた。

(相変わらず素敵な作品ばかり……ん?)

 ふと、足を止める。
 階段脇の目立たない場所。他の作品と離れた壁に、一枚の海景画が展示されている。
 と言っても、六号キャンバスの側面にはテープが貼られただけで、額装もされずキャプションも見当たらない。売り物ではないようで、妙な展示方法だった。
 だが、未央は強い力に引かれるようにその絵に近付いていた。

(これは夜の海。光ひとつない景色はすべてがあおい)

 手前には角ばったおかが走り、海を直線で切り取っている。ぽつんと置かれた濃色のうしょくは、沖の島影。画面の大半を夜空が占めている。
 端正な構図に、ナイフのみで描かれたかのようにシャープな肌合い。
 寒色の景色に、未央は目をらした。
 なぜか熱を感じる。
 星も月もない夜のなかに、今にも噴き出さんばかりの熱情がこもっている。
 展示室に飾られたどの絵画とも異なる、異端児的な存在感。
 サインを探すと、右下隅に『S・K』と黒い絵具でしるされていた。タイトルも制作者も不明な絵に、ますます引き寄せられて動けない。ミステリアスな魅力だった。

「また、お会いしましたね」

 背後から突然声がした。長いこと絵に見惚みとれていた未央は、雷に打たれたように飛び上がった。

『マタ、オアイシマシタネ』
(嘘……)

 背筋がぞっとして、足が硬直する。未央は振り向くこともできない。
 西洋美術館の前庭。地獄の門で聞いたのと同じ声、同じ台詞せりふ。間違いない、あの中年男である。
 駅にはいなかったはずなのに、まさか、こんなところまでつけられていたなんて。
 信じたくない未央に、男の声がさらに近付く。

「君とはご縁があるのかな」

 ご縁――ご縁ですって?
 同じ手口でしつこくナンパしてくる、そのあまりの図々ずうずうしさに未央は怒りを覚えた。驚きよりも恐怖よりも、強く湧き上がる感情に身体が震える。

(国枝三郎といい、どうして立て続けにこんな目に遭わなきゃならないの。しかも全然タイプじゃないたぬきみたいなおじさんばかり。会いたい人には会えないのに)

 震える手でバッグのチェーンを握り締める。

『ああいった男には、もっとぜんと対応することだ』

 本当に会いたいと願っている彼の、厳しい口調が未央をうながす。はっきり断ってやれと忠告していた。バッグを武器にして構えると、未央は振り向きざまに言い放った。

「いい加減にして下さい。あなたのような方は好みではありません。お断りしますっ」

 勢いのわりに気弱な声だが、静かな画廊には大きく響く。豊田も居合わせた客も驚いたらしく、未央に注目が集まった。
 だが、一番驚いたのは当の本人だった。

「倉本……さん」
「好みではない、か。まあ無理もないね、出会いがあれだったし」

 突然のことすぎて、頭が追いつかない。この状況で本人が登場するなど想像もできなかった。神様のいたずらにもほどがある。

「す、すみませ……あ、でもどうして。さっき地獄の門で、って、そうじゃなくて。狸が……」

 しどろもどろで喋るほど混乱してくる。

「狸?」
「あっ、違うんです。ちょっと、今日はいろいろとありまして」
「国枝先生が化けたとでも?」
「えっ? いいえ、まさかそんな」

 未央が焦ると、倉本はクスクスと笑った。なぜかとても機嫌がいいようだ。
 この間とは別人のように柔らかな物腰だけど、どこからどう見ても絶対に倉本である。
 混乱しながらも未央は確信できた。出会ってからこれまで片時も忘れることができなかった、夢にまで見た双眸そうぼうに未央が映り込んでいる。

「中森さん、どうかされましたか。彼が何か失礼なことでも?」

 豊田が近寄って来て、心配そうに未央と倉本を見比べる。それこそナンパでもされたと思われたのだろう。

「いいえ、違うんです。私が勘違いをしてしまって……お騒がせしてすみませんでした」

 未央は豊田と他の客達に頭を下げた。絵を鑑賞するせいひつな雰囲気を壊してしまったのだ。

「俊一くん、彼女は炭窯教授の教え子です。失礼のないように頼みますよ」
「ええ、『教授がずいぶん可愛がっておられた』中森さんですよね」

 未央は豊田と顔を見合わせる。倉本は、二人が話すのを聞いていたのだ。ということは、さっきからここにいたということ。まったく気がつかなかった。

(そういえば今日はスーツじゃない。そのせいで?)

 ネイビーのカットソーにジレを合わせ、黒のストレートパンツ。ラフだけど崩れすぎないスタイルだ。きちんとしたスーツ姿も素敵だが、休日モードもセンスが良い。

(下の名前はしゅんいちっていうのね)

 豊田は倉本を『しゅんいちくん』と呼んだ。二人の親しげな様子から、普段からの付き合いなのだと未央は推測する。

「ところで中森さん、俊一くんとはお知り合いなんですか?」
「え、あの」

 豊田の質問に未央は口ごもる。
 仕事先で出会ったのだが、仕事の関係者ではない。知り合いと言うより迷惑をかけてしまった相手である。倉本の態度は柔らかだが、未央は嫌われているはずだった。

「先日、倉本さんにはいろいろとお世話になりまして」

 どう言えばいいのか分からず無難に答えておいた。

「ほう、俊一くんが女性にお世話を。それはそれは……」

 倉本は未央の肩に手を置くと絵のほうへ向かせた。不意に触れられ、未央の心臓が跳ね上がる。

「豊田さん、お客様がお呼びですよ」
「あ、はい。ただいま参ります。俊一くん、くれぐれも失礼のないようにね」
「大丈夫です。商売頑張ってください」

 にこりと笑う倉本に豊田は肩をすくめ、未央に会釈えしゃくをしてから接客に戻っていった。
 倉本は未央の肩から手を離さない。男の人の頼もしい温もりが直に伝わり、未央の全身がってくる。

(本当に再会できたんだ。しかも、彼から声をかけてくれた)

 夢心地にふわふわと浮遊しそうになるが、肩には手のひらの重みと体温。触れられているという実感があった。

「さて、中森さん。君はこの絵に見入っていたけど、その理由を聞かせてくれないか」
「え……?」

 思わぬ質問だった。絵というのはもちろん、目の前にあるあおの海景画である。ようやく肩を解放した倉本に、未央は顔を向けた。

「いや、額装されずキャプションもない地味な絵を、たいていの客は素通りする。君はどうして立ち止まったのかなと興味が湧いてね」
「そ、それは」
「うん、どう感じた? 何が君の足を止めさせた?」

 まっすぐに見つめてくる眼力に未央はされる。なぜそんなことを訊くのか分からない。それに、あまりにも熱心な様子にどきどきしてしまう。
 未央は絵に意識を集中してときめきを誤魔化ごまかすと、感じたままを答えた。

「この作品は、端正な構図で描き込みにも一切の無駄がありません。とてもきれいなんですが、青系でまとめられた色調は冷たい印象を与えています」

 倉本が深く頷くのが目の端に映る。ここまでの感想は彼にとって予想の範囲内のようだ。だがここから先はどうだろう。未央が視覚ではなく感覚で捉えた印象だから、もしかしたら見当違いかもしれない。

「それだけ?」

 未央が黙ると、倉本が横からのぞき込んできた。まだ何かあるんじゃないかと、長いこと絵に見入っていた理由を追及したがっている。

「いえ、それなのに、とても不思議なんですが」
「……不思議?」
「はい。ひんやりとした夜の世界なのに、今にも溢れ出さんばかりの光や熱が感じられる。熱……そうです、それは人間の情熱だと感じます。あおい景色の奥深くに、怖いほどのエネルギーが渦巻うずまいている。そう感じます。強く!」

 言葉を紡ぐうちに、ついつい声も高くなる。一枚の絵を謎解きした興奮で未央はたかぶっていた。

「あっ、すみません」

 再び展示室を騒がせてしまい周囲にびる未央を、倉本はじっと見つめている。今の言葉に嘘はないか、本気で言っているのか。そんな、真意を探るような眼差しだった。

「驚いたな。まさか君のような人がそういう捉え方をするとはね」

 穏やかな反応に未央は安心するが、『君のような人』という表現は気になる。
 倉本は、そんな未央の心情を察したのか言葉を足した。

「いや、悪い意味じゃない。君はすごく、その……素直な見方をしそうだから」

 素直――
『単純』とか『馬鹿正直』とか、そういった表現をオブラートに包んだのだろう。それでも、あの日以来自信を失くしていた未央には、嬉しい肯定の言葉だった。

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