星月夜の恋人

藤谷 郁

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1巻

1-3

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「うん、今の感想は面白い。当時の俺に聞かせてやりたいよ」
「そうですか、当時の……」

 復唱しかけて首を傾げる。

「当時の俺、ですか?」

 倉本は意味ありげに笑い、海景画の右下隅を指差した。そこには制作者のイニシャルがしるされている。
 S・K――

「誰だと思う?」

 顔を寄せてくる彼に動揺する未央だが、それは明快なヒントだった。

「シュンイチ・クラモト……って、まさか本当に?」

 この人が、この絵を描いた本人!
 未央は激しく驚きつつ、何度も絵と倉本を見比べた。どうしても両者が結びつかない。

「俺が絵を描くのが、そんなにおかしい?」
「いえっ、そうじゃありません。でも、イメージが少し違う気がして」

 視覚で捉えた『冷たい』イメージは、クールな彼にぴったりだ。
 でも、その裏に未央が捉えた『情熱』は彼に重ならない。
 首を傾げる未央に、倉本はさもありなんといった顔でその疑問に答えた。

「これを描いたのは十七歳の俺。あの頃は不合理のかたまりだったな」
「十七歳?」

 倉本の告白にショックを受ける。大人びた画風から、成人作家だと思い込んでいた。こんな作品を十代の少年が描くなんて。

(でも、どうして倉本さんの作品がここに? そもそもオーナーとはどんな関係なの? 豊田さんには下の名前で呼ばれていたけど)

 訊きたいけれど、そこまで踏み込んでいいものかどうか迷う。彼が何を考え、未央に声を掛けたのかも謎だった。あんな出会いをして、お礼の申し出も断られ、『今後君と関わるつもりはない』と意思表示されたはずなのに。

「ところで、君は雨宿りでここに入ったようだけど、小降りになってきたよ」
「え?」

 急に話題を変えられ戸惑いつつ窓を見ると、空が明るくなっている。

「じきに止みそうだ」
「え、ええ」

 確かにそのとおり。それにしてもなぜ、急にそんなことを言うのか。
 未央は倉本をうかがった。
 窓に向けられた横顔は、もう帰っていいよと未央を突き放している。絵の感想を聞きたかっただけ。もう君に用はない、と。
 先回りして考えるのは、期待して傷付くのを恐れる自己防衛だった。
 でも、きっとそうなのだと、未央は納得する。偶然の再会に舞い上がったのは未央だけであり、その証拠に彼の態度は冷静そのもの。嬉しそうな気配などじんも見当たらない。

(そうだ、『帰れ』と言われたら逆らわずに『はい』と返事をしよう。この人は私を何とも思っていない。この再会は神様のいたずらだ)

 雨風に乱れた髪やメイク、濡れたワンピースがみじめだった。今までこんな姿をさらしていたのだ。彼との再会を夢見て気合を入れてお洒落しゃれした。身の程知らずな妄想に駆り立てられて。

「雨が止むまで、お茶でも飲もうか」
「はい……」

 泣きそうになりながら、ゆっくりと彼を見返す。
 倉本は画廊の奥にある〝Cafe de Galerieカフェ・ド・ギャレリ 〟と書かれたドアを指差している。

(今のは聞き間違い? お茶を飲むって、私とこの人が……)

 信じられず、未央は確認した。

「い、いいんですか?」
「もちろん、君がよければね」

 無意識に手の甲をつねり、夢ではないことを確かめる。たぬきの置物に誘われたのではない。狸が化かしたのでもない。

「それじゃ、行こうか」

 彼となぜお茶を飲むことになったのか、まだ信じられないまま、未央はついて行った。


 カフェは展示室の半分ほどの面積だが、天井が高いためか狭くは感じない。控えめにクラシック音楽が流れ、ゆったりとくつろげる空間になっている。客は初老の男性が一人と、大学生風の男女がひと組だ。
 未央は窓際の席に倉本と向かい合って座ると、店内を見回した。
 カウンター席の他、窓際に四人掛けのテーブルが三席並んでいる。中央に置かれたパレットを模した楕円形のテーブルは、椅子を詰めれば七、八人ほどが利用できる大きさだ。

(あのテーブルで私達学生は教授を囲み、芸術について語り合った。ここでお茶を飲む時の教授はいつも機嫌がよくて、学生の質問に何でも答えてくれたっけ)

 カフェオレの甘い香りが漂ってくるようだった。未央も他の学生達も、教授の真似をしてよくオーダーしたものだ。
 未央は倉本に渡されたメニューをしばらく見つめていたが、カフェオレではなくブレンドを頼んだ。
 同じくブレンドを注文した倉本に視線を戻す。足を組み、悠々ゆうゆうとした態度でこちらを見ている。いや、観察しているといってもいい、遠慮のない視線だった。化粧の崩れた顔を直したいと切実に願う未央だが、時既に遅し。せめて姿勢だけでもとまっすぐに伸ばし、膝の上に指を揃える。
 きちんと倉本と向かい合って思い出したのは、国枝アート工房での一件だった。

「倉本さん、先日はご迷惑をおかけしてすみませんでした」

 あらためてびる未央に対して彼はほとんど表情を変えず、首を横に振った。

「この前も言ったけど、あれは俺にも好都合だった。国枝先生は俺のような若造わかぞうをまともに相手にしない。しかしああいった現場を押さえれば弱みになるだろ」

 未央の推測どおりだが、倉本の言い方はいかにもクールだった。まるで、メリットがなければ助けなかったと言わんばかりの淡々とした口調。

「上司の名前を出す前に、どんなきっかけでもいい、〝主導権〟を握りたかったんだ」
「そう、だったんですか」

 店員がコーヒーを運んできた。
 未央はクリームと砂糖を入れたが、倉本はストレートのまま口に含む。
 沈黙が二人の温度差を際立たせるが、未央にはなすすべもない。未央の恋愛感情を、おそらく彼は承知している。だからこそ『君を助けたわけじゃない』と念を押すのだ。

「ところで、さっき豊田さんと話してたこと。ここに来たのは久しぶりだとか」

 倉本はカップを置くと、唐突に訊いてきた。テーブルに身を乗り出した彼の顔が近付き、未央はどきっとする。

「はい。すっかりご無沙汰してしまって。大学を出てから初めてです」
「炭窯教授の教え子ということは油絵専攻だね。絵はやめたのか?」

 いきなり痛いところを突いてきた。もちろん倉本にそんなつもりはなく、世間話ていどの質問だろう。それでも未央は動揺した。

「え、ええ。描く場所もありませんし」
「場所?」
「はい。私の住むアパートは狭くて換気も悪いので油絵具や溶剤の匂いがこもるんです。部屋に匂いが染み付いても困るし、油絵は無理なんです」

 この理由は嘘ではない。未央はためらわずに答えたが、倉本は納得しなかった。彼は絵画制作に関する知識を持っている。

「微香性の絵具もあるだろう。画材屋さんなら専門のはずだ」
「そっ、そうですけど、私の場合油絵を描く画材の、あの独特の匂いが好きなので。匂いがしなければ絵具ではないというか……」

 ちょっと苦しいがこれも本当のこと。それでも彼はなぜかしつように問い詰めてくる。

「絵画教室とかレンタルのアトリエとか、場所ならいくらでもある。理由はそんなことじゃないな」

 断定されてしまった。そもそも相手は大企業のエリート営業マンで、未央とは観察眼のレベルが違う。本当のことを言っていないことは、お見通しなのだ。
 倉本は椅子の背にもたれかかり、未央が口を開くのを待っている。その無理に聞き出そうとはしない姿勢に、未央はかえって焦燥感を募らせた。
 彼と初対面の日、どしゃぶりの雨の中ポーチに取り残されたみじめさがよみがえってきた。

「それは……」
「それは?」

 口ごもる未央を射るように見つめ、答えをうながす。

「炭窯教授に言われたからです」
「なんて?」

 こんなこと、美大の仲間はもちろん親にすら話したことがない。ささやかな矜持きょうじを保つため、自分の中に閉じ込めていた。それなのに唇が開いていく。問われるまま、誘われるままに。

「卒業制作展に出品した私の油彩画を見て、『君の絵はつまらないね』……と」

 ――言った。言ってしまった。
 絵画制作に懸命に取り組んだ四年間。その集大成となる最後の作品だった。
 落とされたのは、誰よりも尊敬する人からの爆弾。思い出すたびに苦しんできた、夢を粉々に破壊した残酷なひと言。
 それなのに、トラウマになっていたそれを目の前の彼に言えてしまったことに、未央自身が驚いている。

「なぜですかと尋ねると『自分で気付かなければ意味がない』と突き放されました。私の作品が他の学生より特におとっているとは思えず、どうしても納得できなかった。でも、私にとって教授は絶対の存在で、認めざるを得ませんでした」
「……そうか」

 倉本は冷静だった。同情も軽蔑けいべつも、はげましもなぐさめもなく、ただ事実を受け止めている。意外にもその反応は未央にはありがたかった。
 だから続けて話した。これまで抱えてきたものを出してしまっても、この人なら大丈夫。まるで、鏡に話すような気持ちだった。

「企業に就職しても画家になる夢は持ち続けようと決めてたんです。でも、教授の言葉を引きずって油絵を描けなくなってしまいました」

 夢をあきらめたのを教授のせいにしている。君は弱いと指摘されても仕方がないが、倉本は何も言わない。
 雨雲が流れ去り、太陽の光が窓から射しこむ。倉本はテーブルから身体を引くと、未央をもう一度観察してきた。さっきよりも興味深そうな顔つきで見回している。

「あの、私……ごめんなさい。余計なことまで喋って」

 教授のひと言に人生を左右されるなんて、彼からしたらとんだ甘ちゃんだろう。さすがに呆れたのかもしれない。おそらく彼は誰にも影響されず、すべて自分で決める人だ。

「それでも、君は今日ここに来た。偶然の雨宿りとはいえ、炭窯教授に縁の深いこの画廊に飛び込んで来たよね。君はほとんど克服してる……って言うより、克服したいと望んでるんじゃないのか」

 倉本の思わぬ言葉に、未央はうつむきかけた顔を上げる。
 ゆううつな自分を打破したいなら変わらなくては。過去にとらわれていては夢も持てない。それは倉本に出会ったことにより、胸に湧いてきた希望だった。
 ときめきとは別の興奮が未央を支配する。震える手で飲みかけのコーヒーを持ち上げた。

「そうかもしれません。言われてみれば」
「君の中で変化があったんだろう。それもごく最近」

 未央は黙ってコーヒーを飲んだ。当の本人に言われては返事のしようもない。熱くなる頬をカップで隠しながら、どうして自分はこうなんだろうと嫌になってしまう。
 倉本は未央が彼に向ける想いに勘付いているだろう。今の言い方には、からかいのニュアンスがあった。
 何を考えているのかよく分からないが、初めて会った日のような不愉快オーラは発していない。それが未央には唯一ゆいいつの救いである。

「君は素直で真面目だな。それに面白いよ」
「……は、はあ」

 面白いとはどういう意味だろう。未央は曖昧あいまいに頷きつつ、そういえばと思い出す。
 倉本の絵について感想を述べた未央に『今の感想は面白い。当時の俺に聞かせてやりたい』と彼は言った。とても楽しげな様子だった。

(いい意味に解釈すべきかしら。うん、そうよね)

 未央がコーヒーを飲み干すと同時に、倉本が窓に顔を向けた。目を細めるのはまぶしいからか、微笑んでいるからなのか判然としない。

「俺の自宅に使っていないアトリエがある。良かったらそこで絵を描かないか」

 彼は横顔のまま、ひとり言のように呟いた。
 ――ミステリアスな申し出だった。
 倉本は、よく分からず戸惑っている未央に向き直った。

「亡くなった祖父が画家でね、アトリエ付きの一軒屋に住んでいた。祖母も亡くなり住人がいなくなったその家に、今は俺が一人暮らしというわけ。親父はいずれ処分するつもりらしいが、それまで住まわせてくれと頼んだんだ。もったいないだろ?」
「それは、はい。そうですね」

 未央にはどんな建物か想像できないが、まだ住める家なら確かにもったいない。

「俺はもう絵を描かないし、アトリエは手入れもせずほったらかしだ。ちょうどいいから君に貸してあげるよ」

 倉本の祖父が画家だったと知って驚いた。が、それよりも驚かされたのは、彼の申し出そのものだった。

(私が倉本さんのお宅におじゃまして絵を描く。一人暮らしの彼の家に上がり込んで?)

 そんなことをサラッと言ってのける彼の真意が謎だった。表情からは何も読み取れない。口調もいたってクールで、他のことを話すのと変わらないように聞こえる。
 未央はほのかな期待を抑え込みながら、彼に質問した。

「でも、倉本さん。私はあなたと出会って二度目で、なんていうかその……なぜそこまで」
「見たいからだ」

 質問を予測したかのような早口で、彼は答えた。

「君の絵を見てみたい。教授につまらないと評され絵をやめてしまった、そんな君が今描く絵がどんなものか興味があるんだ」
「私の絵?」
「そう、過去ではなく現在の君が描く、油絵だよ」

 なぜ倉本が自分に興味を持つのか分からないが、明らかになったこともある。それは――

「アトリエを提供する理由はそういうこと。母屋おもやとは別棟になってるし、心配しなくてもいい」

 ほのかな期待はあっさり消し飛ばされた。
 心配するなと言うのは、期待するなと言うこと。彼は未央の質問の意図を察し、やんわりと退しりぞけたのだ。

「どうする? 無理にとは言わないが」

 あらためての誘い水に、未央はいじけた。相手の〝弱み〟を利用してことを運ぶのは、彼の仕事のやり方と同じだ。仕事も恋も、この人には駆け引きなのだ。
 なんだか悔しくて、素直に返事ができない。

「倉本さんは良いんですか? たとえ別棟でも、その……女の人を家に入れるなんて」
「何が?」
「怒られませんか、彼女とか」

 言ってからすぐに未央は後悔する。今のは恋人の有無を確かめる質問だ。
 耳を押さえたい衝動に駆られた。いるに決まっている。でも、はっきりと知りたくない。爪の先ほどの希望もこれでついえてしまう。

「その心配もないよ。いないから」
「……」

 いない――と、聞こえた。彼女はいないと。

「そうなんですか?」

 信じられなくて確認する未央に、倉本は「ああ」と頷いた。

(喜ぶのは無意味かもしれない。でも……)

 たとえ期待できなくとも、傍にいられる。希望は残されたのだ。
 ミステリアスな申し出に、未央は応えていた。


 どこをどう歩いてアパートに帰り着いたのか記憶がない。
 こんなこと、あるはずがない。たった一日出かけただけで、こんなにもめまぐるしい展開になるなんて。
 朝出かけた時と変わらない部屋。
 だけど、姿見に映るのは今日一日を過ごした自分。化粧はほとんど落ちてしまい、髪型も崩れている。新調したワンピースも、古着のようにくたびれてしまった。
 未央は、とりあえずシャワーを浴びることにする。
 雨と汗に濡れた身体を洗い流し、部屋着に着替えるとようやくリラックスできた。冷たい緑茶をグラスに注いでごくごくと飲む。熱を持ち混乱していた頭もクリアになった。
 未央はバッグからスマホを取り出すとベッドに腰掛けた。倉本俊一の電話番号とメアドが登録されているのを確かめ、ぎゅっと胸に押し当てる。
 一週間前は名刺ももらえなかったのに、今日は個人的な連絡先を交換してしまった。

「倉本さん……」

 彼の横顔をまぶたに浮かべても、真意は見えない。
 未央はふらふらと窓辺に寄って、カーテンを開いた。いつの間にか日が暮れていて、民家の窓々に明かりが灯っている。
 見上げた夜空には雲ひとつない。

(そういえば、今夜は七夕だわ)

 これなら、織女星おりひめ牽牛星ひこぼしは再会を果たせただろう。七夕の夜空が晴れるなんて珍しいと感激しながら、未央は街明かりに隠された二つの星を思った。

「よーし、私だって彼と再会を果たしたんだから」

 未央は気合を入れてスマホを構えると、メールを打った。これから先どうなるのかなんて予想もつかない。だけど、逃げないで前に進んでいこう。
 ――倉本俊一様。今日は大変お世話になりました。ありがとうございます。約束どおり七月十五日におうかがいします。よろしくお願い申し上げます。
 数分後、メールの着信音に未央は全身で跳ね上がる。
 ――了解。こちらこそよろしく。
 素っ気ないところが倉本らしい。未央は微笑むと、天国の門か地獄の門か分からぬままに扉を開き、始めの一歩を踏み出していた。


 未央をさいなんでいたゆううつは、梅雨つゆ明けとともにどこかへ消えてしまった。心は嘘のように晴れ上がり、夏空が広がっている。

(今日はこの格好でいいのよね)

 未央はバスに揺られながら、Tシャツにスウェットパンツという動きやすい服装を見下ろす。
 昨夜倉本から『初日はアトリエの掃除をする』とメールがあった。
 もう少しきれいめの洋服を選びたかったのだが、不必要に洒落しゃれめかして出かけたりしたら、やる気を疑われてしまうだろう。

(今日、というよりこれからも……か。絵を描きに行くんだから)

 倉本はアトリエを貸すと言った際、賃料は無用だときっちり伝えてきた。

『その代わりアトリエに来た時に空気の入れ替えや掃除をしてくれればいい。家は使わないといたむからね。メンテナンス料と相殺しよう』

 未央はそれでも払わせて欲しいと申し出たのだが、彼は頑として聞き入れなかった。
 あまりの好条件にたじろぐ未央だが、そこまでしてもらってはいい加減なことはできない。倉本の『君の絵が見たい』という望みの真意は謎だが、親切心には精一杯応えたい。

(そう、私は絵を描くために彼の家に行くんだから)

 どうしても浮き立ってしまう心を抑えるように、未央は自分に言い聞かせる。『絵』の制作のみが、今の二人をつな唯一ゆいいつきずななのだ。
 もうすぐ倉本家最寄りのバス停に到着する。彼の家は渋谷駅からバスで十五分ほどの住宅地にある。メールにはバス停まで迎えに来ると添えられていた。
 本当に来てくれるだろうか。もしかしたら、あれは冗談だったというオチではないか。ここまできて未央は不安にとらわれる。
 膝に乗せたバッグの持ち手をぎゅっと握り、恐る恐る窓をのぞいてみた。

「あ……」

 バスを待つ人々から数歩離れたところに、倉本が立っていた。
 水色のシャツに朝陽がまぶしく反射している。暑くても丈の短いパンツは穿かないらしい。かえってさわやかな印象だ。未央の緊張は高まり、ぎこちない動きでバスを降りた。

「いらっしゃい、中森さん」

 堅苦しく挨拶あいさつする未央に倉本は微笑む。まるで、親しい友人でも迎えるようなリラックスした態度である。

「電車とバスで四十五分くらい? 朝早く大変だったね」
「いえ、職場が新宿ですし、いつもと変わらない感じでした」
「なるほど。ウチはここからすぐだよ」

 未央は倉本の横に並び、静かな住宅街を歩く。ゆるやかな坂道を上ると、公園の緑が見えてきた。その向かい側の角地に倉本家はあった。
 敷地は生垣いけがきに囲まれ、門の横にガレージがある。そのシャッターの内側に納まるのは銀色の車で、エンブレムはライオンの形をしていた。

「どうぞ」
「あ、はい。おじゃまいたします」

 倉本は先に立ち門扉もんぴを開けてくれた。
 短いアプローチを抜けると、芝生しばふの庭に出た。きんもくせいやまぶきといった樹木が数本植えられている。
 植木の向こうに大小の建物が並んでいた。ひらの和風住宅が母屋おもやで、寄り添うように建つのがアトリエのようだ。二つの棟を短い渡り廊下がつないでいる。
 アトリエは洋風の造りだが、建物の色調を合わせてあるためか、かわら屋根に漆喰の母屋と隣合っても違和感がない。

「中森さん、こっちだ」

 倉本はアトリエにまっすぐ進んで行く。未央はまず母屋に入るものと思っていたため、倉本の言葉に一瞬戸惑ったが、小走りで彼について行った。
 アトリエの建物は木造で築二十五年だという。古いけれど、近くで見上げると意外に大きくて風格がある。庭先にはガーデンテーブルが雨ざらしで置かれ、落ち葉が散らばっていた。
 倉本がドアを開けるとほこりが舞い立ち、こもっていた空気とともに流れ出てきた。

「入って。靴のままで良いよ」

 未央は頷いて、そっと足を踏み入れた。十センチほどの段差を上がれば、そこはもうアトリエである。部屋は一間で、天井は中二階の高さで吹き抜けになっている。一人で使うには十分過ぎる広さだ。
 倉本は複数の縦長窓を開けていく。公園の緑が借景となり、吹き抜ける風も気持ちいい。

「片付いてはいるが、ちりほこりがすごいんだ」

 壁際にはキャンバスの木枠やイーゼルが立て掛けられ、棚にはデッサン用の石膏せっこう像が整然と並んでいる。大小のテーブルや椅子、カウチ、作業台など便利な備品も揃い、画材さえ用意すればすぐにでも制作を始められそうだった。

「掃除をすれば大丈夫です。素敵なアトリエですね」
「気に入った?」
「はい、とても」

 埃と絵具と古い建物の匂い。アトリエ独特の空気は学生寮を思い出させる。少し前までの未央なら胸が苦しくなったかもしれない。だけど今は、懐かしさに興奮している。ここでなら、のびのびと絵を描けそうだった。

「それは良かった。それじゃ、早速始めようか」

 倉本はいつの間にか掃除道具を手にしている。

「え?」
「え、じゃないだろ。自分のアトリエは自分できれいに整えるもんだ」

 彼はの長いはたきを持ち、未央にはほうきとモップを手渡した。

「あっ、そうですよね。はいっ」

『自分のアトリエ』と倉本はサラリと口にしたが、未央には感激のひと言だった。
 そして、自分で掃除しろと言いながら塵払ちりはらいを始めた彼に心から感謝する。賃料も取らず、その上掃除まで手伝ってくれるのだ。
 未央は用意してきたエプロンを身に着け、自分の居場所となるアトリエをみがいていった。
 作業は二時間ほどで完了した。

「中森さんは意外に馬力があるね。おっとりしてる割によく動くな」
「え、ええ、まあ」

 未央は掃除に夢中になるあまり、途中から倉本の存在を忘れていた。頭に手をやると、被っていたはずのスカーフが取れて、髪がすごいことになっている。

(そういえば私、窓の高いところを拭こうとして変な格好をしたような。うう……見られたよね)

 赤くなる未央だが、倉本はくっくと笑っていた。彼には乱れた髪や化粧の崩れた顔ばかり見られて、落ち込んでしまう。これからいくらお洒落しゃれをしても無駄な気がしてきた。
 倉本はひとしきり笑うと、アトリエの隅から丸椅子を二脚持ってきて一方を未央にすすめた。

「きれいになったところで運転開始だ」

 窓をすべて閉めるとエアコンに掛かっていたカバーを外し、スイッチを入れた。

「エアコンだけは業者に頼んでクリーニングしておいたんだ」

 年代もののようだが、しばらくすると冷風が吹き出てくる。
 倉本の提案どおり午前中の涼しいうちに作業したのだが、やはり暑い。汗を掻いた未央は、生き返る心地になった。

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