七日目のはるか

藤谷 郁

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3.ナントカ先生、現る

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 春花は全国チェーンのラーメン店でアルバイトをしている。
 駅直結のショッピングセンター内フードコートに店舗があり、好立地のため客足が良い。一日中混雑しているが、セルフサービス式なので店長とアルバイト二人のクルーで何とか回っている。
 カウンターで注文を受けたり、ラーメンを調理したり、器を食洗機にかけるなど、仕事は様々だった。

「神田春花さん」

  しょうゆラーメンのデザートセットを取りに来た客が、カウンターにトレーを並べる春花に話しかけてきた。こんなところでフルネームを呼ばれて、ちょっとびっくりする。
 春花は仕事の手を止め、その客を眺めた。スーツを着たサラリーマン風の男性だ。すらりと背が高く、黒髪をきれいに撫でつけている。年齢は30代後半といったところか。
 見覚えのある顔だと思った。

「やあ、夕子君の言ったとおりの人だね」
「夕子?」
 春花はハッとした。この人は、夕子が所属する研究室の教授だ。名前は……
「はじめまして。わたくし、◯◯工科大学応用生物学部教授の、真崎陽平ようへいと申します。私については、小倉おぐら夕子君を介してご存じだと思いますが」
「はっ、はい。はじめまして」
 やはりそうだった。
 真崎は例のいたずらっ子のような目をきらめかせ、ニコニコ笑っている。写真よりずっと若く見える。

「お仕事は何時までですか」
「えっ?」
 アルバイトのことだろうか。春花は戸惑いながらも、素直に答えていた。
「ええと……あと15分で終わります」
「よかった。じゃ、後ほど私のテーブルまで来て下さい。あなたにお話があります」
「は……はあ」
 返事を聞くと、彼はさっさと行ってしまった。窓際のテーブルにつくと、こちらに向かって片手を上げる。春花は反射的に会釈をしたが、客が次々にやってくるので、慌てて仕事に戻った。


「神田さん、お疲れ様です。あらためて、どうぞよろしく」
 仕事を終えた春花が真崎のテーブルに行くと、彼は立ち上がって右手を差し出す。春花も釣られるように右手を出し、握手を交わした。
「おお、しっかりした手をしている!」
 真崎は感嘆した。その大げさなリアクションを見て、春花はピンとくる。
 この人は間違いなく、夕子が尊敬する真崎先生だ。彼がここに来た目的は、もしかして彼女と同じなのでは?

 マッドサイエンティストという恐怖ワードが頭の中を駆け巡る。真崎が名残惜しげに手を離すと、春花は何となく身を引き気味にした。
「神田さんは、電車でお帰りですか?」
「ええ」
「では、駅まで歩きがてら、お話をしましょう」
「はあ」
 春花は間の抜けた返事をする。話があるというので、てっきり腰を据えるものと思い込んでいたのだ。
(長話にならないみたい。良かった)
 とりあえず胸を撫で下ろし、駅へと歩き出した彼についていった。


 ショッピングセンターから駅のコンコースへ出たところで、春花はちらりと腕時計を見た。時刻は午後9時を回っている。通路には帰宅途中のサラリーマンが散見された。
「それで、ご用件は何でしょうか」
 歩きがてら話すと言いながら、いっこうに口を切らない真崎に、春花はズバッと聞いてみた。改札はもう目の前である。
「ああ、そうね、そうでした」
 二人はコンコースの円柱の陰に立ち、向かい合った。

「夕子君から、あなたのことを聞かされています。それはもう毎日毎日。彼女が熱心に語る神田春花という女性は、一体どんな人なのか……好奇心を抑えきれず、会いに来てしまいました」
「夕子から、私のことを聞いて?」
 彼女が何を語ったのかは想像がつく。どうせ、春花は実験体として理想的だとか、体力バカだとか、そんなところだろう。

 それにしても……と、呆れた目で真崎を見上げる。

 だからといって、わざわざ会いに来るこの先生もおかしな人だ。一流大学の教授でありながら、その顔は好奇心に溢れた子どものようである。

「今日のことも、夕子君から報告を受けました。薬の臨床試験を断ったそうですね」
 やっぱりそうくるか――
 呆れると同時に、少しばかり怒れてきた。この人は学生を教え導く立場にいながら、大学という場所を何だと思っているのか。
「先生。あの子をからかうのも大概になさってください」
「ほう……わかりますか?」
 真崎は楽しそうに笑い、春花の顔を覗き込んでくる。急な接近にも春花は怯まず、抗議を続けた。

「理系大学というのは、本来、実験や研究で忙しいのではないですか。夕子がちゃんと卒業できるのか私は心配です」
 親友の将来を憂い、真面目に言った。
「大丈夫です。誰でも卒業させます」
「……え」
 何だかとんでもない返事だった気がする。
 冗談なのか本気なのか判断がつかない。これ以上話しても不毛な会話に終わりそうだと、春花は覚った。

「……それで、先生は夕子から私のことを聞いて、わざわざ会いにみえた。ということは、これでご用は済んだわけですね」
 結局、お話というのは何だったのか? よくわからないが、わからなくても構わない。春花は電車の時間を気にして腕時計を見た。
「ええ、大変満足しました。あなたという人は、近頃珍しい種に属する方ですねえ」
 褒められているのではないな……と、春花は曖昧に笑う。珍しいというのは当たっているかもしれない。

「ところで神田さん。あなたが今持っている薬ですが」
「え?」
 春花はドキッとする。
 例の封筒をリュックのポケットから抜き取ったのを夕子が気付き、この人に話したのだ。まさか取り返しに来たのだろうか。もしかしたらそれが本当の目的?
 動揺する春花だが、真崎は……
「それはただのビタミン剤です。疲れたときに飲むとスッキリしますよ。では」
 ついでのように言うと、くるりと背を向けて歩き出した。
「はいっ? あの、先生……?」

 振り向きもせず、彼は改札に消えてしまった。
 あっけない別れにしばし呆然とする。春花は無意識にバッグから白い封筒を取り出すと、表書きをじっと見つめた。

【一週間だけ男になる薬】

 なぜだか笑いがこみ上げてきて、春花はクククと肩を震わせる。
「まったく、夕子ったら。あんな人が先生では、まともな勉強なんてできるわけないよ」
 封筒を逆さに振ると、転がり出てきた2錠のビタミン剤を口に放り込む。
 何の味もしない、どうということもない錠剤だ。
「あー、バカバカしい」
 春花は肩透かしを食らった気分で、帰路についた。
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