七日目のはるか

藤谷 郁

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4.衝撃と混乱の朝

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 朝がきた。
 春花は窓を開けて、5月の清々しい空を見上げる。
 気候のせいだろうか。
 何というか、身体じゅうにエネルギーがあふれて、とても活発な気分だ。
「昨日のビタミン剤のおかげかな」

 寝床に戻ると、腕をぐるぐると回してから掛布団を持ち上げる。どうしたことか、いやに軽く感じられた。
「パワーアップしてる?」
 首を傾げつつ、ベランダに掛布団を干した。敷布団も運んだが、やはり軽々と扱うことができる。ヘンだなと思いながら、着替えようとしてパジャマのボタンに手をかけた。
「んっ?」

 パジャマが縮んでいる――
 初めはそう思った。だが、そうではないとすぐに気が付く。
「……な、何だこれ」
 恐る恐る、弾け飛びそうになっているボタンを外してみた。
 パジャマの下に着たTシャツは、横に布が張っている。というより、そこにあるはずの二つの丘が消えていた。

 ごくりと息を呑み、両手で胸を撫でてみる。
 掴もうとしても、掴めない。そこにはふわふわの脂肪ではなく筋肉があり、しかもしっかりと分厚い。逞しく、頼もしく、力漲る身体――
「まさか、そんな……嘘でしょ!?」




 頭の中は天地がひっくり返ったような大騒ぎになっている。
 檻に閉じ込められた猛獣のように、春花は部屋の中を行ったり来たりした。
 古いアパートなので床がみしみしと音を立てる。その軋みがいつもより大きく響くことに、恐怖を覚えた。
 夕子と真崎の顔が頭に浮かんだのは、男性化した自分に気付いてから30分も経過した頃だった。かつて経験のない状況に陥り、春花は激しく動転している。

 バッグからスマートフォンを取り出すと、震える手で夕子に電話をかけた。呼び出し音が数回鳴った後、夕子が応答した。
『おはよう、朝早くめずらしいね。どうかしたの?』
「すっとぼけるな!」
 大声を上げた春花自身が驚いた。恐ろしく低い声である。
『も……もしもし?』
 夕子は男の声に仰天している。
「私だよ私、春花だってば」
 春花は野太い声で主張した。ニューハーフ、おかま、オネエ系、などの言葉が頭の中を駆け巡っていく。

「えっ、嘘……本当に春花なの?」
 夕子は春花の主張を信じた。そして、すべてを理解したらしい。
「凄い。博士の薬が効いたのね。やったー!!」
 無責任極まる反応に、春花は久しぶりに激怒した。拳を振り上げ、傍らのテーブルに叩きつける。
「夕子! この馬鹿っ。一体どうしてくれるんだ。あんたの先生に連絡して、どうにかするように言いなさい。でないと二人とも、ただじゃおかないよ!」
 合板のテーブルがビシッと音を立てて、ひび割れた。片手で、ちょっと強く叩いただけなのに。
 その凄まじい破壊力は、春花自身を驚愕させた。



「あー、もう。参ったなあ」
 電話を切ったあと、春花は急に空腹を覚えた。こんな状況でも腹が減るのかと自分に呆れるが、とにかくじたばたしても仕方ない。
 とりあえず顔でも洗おうと思い、洗面所に立った。

 春花はそーっと鏡を覗き、男性化した自分の顔とまともに向き合う。実家にいる高校生の弟にそっくりだと思った。
 指先で顎を撫でると、ザラザラしている。ヒゲが生えているようだ。
「ふ~む……完全に男だな」
 低い声で呟いてみる。まったく、信じられない事態になったものだ。
 ムダ毛処理用の剃刀で髭を剃り、いつものように顔を洗って、髪を梳かす。ショートカットなので、男になっても髪型に違和感が無い。むしろ似合っている。

 今度は全身をチェックしてみようと思い、玄関先に立て掛けてある姿見の前に立った。
 身長はどうやら5、6cm伸びている。また、肩も腰もがっしりとして、女性の春花とは筋肉の質も量も違う。
「ふ~む」
 もう一度唸った。

(この身体で空手技を使ったら、どうなるかな……)

 そんなことを考える自分に驚き、身震いした。
 非常事態だというのに、いくらなんでも単純すぎる。

 しかしアレコレ考えても仕方ない。キッチンでハムエッグを作ってパンを焼き、コーヒーを淹れて朝食を始める。
 食欲があるという事実に呆れるやら可笑しいやらで、独り笑いが漏れた。

 朝食を食べ終えて食器を洗っていると、呼び鈴が鳴った。
「夕子だ」
 玄関に小走りし、手を拭きながらドアの魚眼レンズを覗いた。外に立っているのは……
「えっ、真崎教授!?」
 夕子ではなかった。
 しかし彼も、春花が非常事態に陥った原因の一人である。いや、主犯と言ってもいい。

 春花は凄い勢いでドアを開けると、掴みかからんばかりに真崎に詰め寄り、口をパクパクさせた。言いたいことがありすぎて、うまく言葉が出てこない。
「おはようございます、神田さん。いやあ、見事に男性化しましたねえ。驚きました」
 真崎は両手にぶら下げた紙袋を春花に押し付けると、明るく笑った。
「せっ、先生。あのですね……!」
 押し付けられた紙袋を抱えて抗議しようとすると、
「入ってもよろしいですか」
 真崎は首を伸ばし、部屋の奥に目をやった。

「へ? 入るって……中にですか?」
「構いませんよね、男同士ですし」
 そのあまりにも落ち着いた態度と軽い口調に、春花は脱力した。慌てふためく自分が馬鹿みたいだ。
 もしかしたら、大したことではないのかも――そんなふうにすら思えてくる。
  
 ため息をつくと、真崎を通すために体を壁に寄せた。
「どうも」
 真崎は遠慮なく部屋に上がった。気のせいか、少し嬉しそうに見える。
 春花は何となく、彼と二人きりになるのがためらわれた。なので、一応ドアは閉めたけれど、鍵はかけないでおいた。

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