七日目のはるか

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
13 / 24

13.恋人の写真

しおりを挟む
 春花が男性化して5日目の朝。
 雨が降っている。
 真崎は大学に出かけてしまい、掃除と洗濯もひととおり終わった。
 春花はエプロンを脱ぎながら、何だか専業主婦になったみたいだと、独り照れ笑いした。

 キッチンでコーヒーを淹れると、ひと息ついた。落ち着いたところで、春花は自分が主婦ではなく学生だったことを思い出す。
「大学に行けないとなると、かえって勉強したくなるなあ」
 春花はM女子大学国文学科に籍を置く学生だ。ゼミでは主に「日本文学」の研究をしている。最近は文学の歴史的背景に興味を持ち、文学事象といった分野にも踏み込んで研究を進めていた。
 ゼミを休み、研究に手を付けることもできない状況の今、レポートのまとめにとりかかろうと思った。

「ここで勉強しようか。それとも……」
 リビングをぐるりと見回す。壁際のスチールラックには夥しい数の本が収められているが、春花の研究に必要な資料は見当たらない。
「大学の図書館なら、資料が豊富なんだけど」
 M女子大学の図書館は学外の人であっても利用可能だ。だから男の姿でも構わないのだが、やはり知り合いだらけの場所は避けたい。
 仕方ないので、県立図書館で勉強することにした。

 そうと決めたら準備である。
 勉強道具が必要ならラックに置いてあるやつを適当に使いなさいと、真崎が言ってくれたのを思い出す。
 ありがたくお借りするためラックを見ると、そこには新品のノートやレポート用紙が置いてある――というより、ぎゅうぎゅうに押し込まれていた。

 真崎は立派な研究者らしいが、整理整頓は苦手のようだ。埃をかぶったノートの束を引っ張り出すと、間に挟まっていた筆記用具がぽろぽろとこぼれる。
「あーあ、もう……ん?」
 ペンや消しゴムに混じって、カードのような紙が一枚床に落ちた。何気なく拾った春花は、思わず手の動きを止める。
 それは色褪せた写真だった。

 庭園のような場所で、若い男女が寄り添い合っている。
 よく見ると、男のほうは若い頃の真崎だった。今より少し痩せていて、髪が長く、はにかんだ笑顔には少年っぽい甘さが残る。
 女は知性的な魅力を感じさせる美しい人で、真崎はその人の肩を抱いていた。

(これは……先生が学生の頃の?)

 今の春花と同じくらいの年齢だ。隣にいる女性はおそらく、学生時代に付き合っていた恋人だろう。
 そのあまりにも幸福な情景に、春花はしばし吸い込まれた。
 季節は春。きれいな花の咲く公園で、デートを楽しむ二人。美男美女のお似合いのカップルである。

「ふ、ふーん。先生はリア充だったってことか」
 春花はつぶやくと、写真をペンや消しゴムと一緒にノートの間に挟み、もとどおりラックに詰め込んだ。
 どういうわけか、胸がドキドキしている。

 ――あの方、一度も結婚してないって話だよ

 真崎の女性関係について、夕子が語ったことを思い出す。
 ならば、写真の女性とは別れたのだろうか。あれほど幸せそうな二人が結婚に至らず、別れた理由とは一体?
「あー、やめやめ!」
 ソファにどっかと座り、強く頭を振った。人の過去を詮索するなんてくだらない。自分には、まったく関係のない話なのに。

「そっ、それにしても、先生もいいかげんな人だよね。大切な写真なら、もっときっちり仕舞っておけばいいのに」
 何だかムカムカしてきた。真崎に無神経なことをされたような、差を付けられたような、妙な感覚に陥っている。
 しかし、彼が過去に誰と付き合おうが、やはりまったく春花に関係ないのだ。
 わけが分からなかった。

「ホルモンの乱れかな? ……ったく」
 こんな気持ち、女だった頃は感じたことがない。男性化したことが原因だと結論付けると、ソファに寝そべった。
 春花はレポートのことも、図書館のことも忘れている。
 静かな雨音が聞こえる部屋の中、真崎の匂いのする毛布にくるまってぼうっとしていた。



 スマートフォンが鳴り響く音で、春花は眼を覚ました。
「嘘……寝ちゃったんだ」
 窓を見ると、いつの間にか雨が止んで、空が明るくなっている。
 春花はスマートフォンを手に取り、発信者の名を確かめて眉をぴくりと動かす。
 真崎からだ。
「もしもし」
『春花さん、今どこにいますか』
 彼はいきなり早口で質問した。人の話し声が背後から聞こえる。研究室からかけているのだろうか。

「あのう……マンションにいますが」
 惰眠を貪っていた後ろめたさから、声が小さくなる。
『そうですか。では、今から迎えに行きますから、30分後にマンションの外に出ていてもらえますか』
「えっ、どこかに行くのですか?」
『あなたに会わせたい人がいるのです。では、頼みましたよ』
 真崎はそれだけ言うと、通話を切ってしまった。ずいぶんと忙しい電話である。

(会わせたい人って、誰だろ?)
 ともかく顔を洗い、身支度を整えた。
 戸締りをして玄関を出たところで、眠る前に考えていたことを思い出す。
 真崎が恋人らしき女性と並び、肩を抱いていたあの写真。
「とても敵わないな……」
 口をついて出た言葉に、春花自身が驚く。なぜそんなことをつぶやいたのか、自分でも意味不明である。

「敵わないって、誰によ? ばかばかしい」
 その時、ある可能性が胸に浮かんだ。
 しかしまさか、そんなことはあり得ない。
 春花はドアの前で棒立ちになり、たらたらと汗を流す。
(いやいやいや、絶対に違うでしょ)
 わずかな時間をともに過ごしただけで、そんな感情を持つなんておかしい。いくら何でも、単純すぎる。

 これもきっと、ホルモンの乱れによるものだ!

 だけど、昨夜もそうだった。
 真崎という男性に対して抱く、この不思議な感情の正体は……

 形になりそうな答えを無理やり振り切り、マンション前へ急いだ。


しおりを挟む