スイートホームは実験室!?

藤谷 郁

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1巻

1-1

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 幼い頃、春花はるかは夢見ていた。
 大きくなったら、可愛いお嫁さんになることを。優しくて、頼りになる男の人と結婚して、ずっとずっと幸せに暮らすことを。
 それは、女の子なら誰もが思い描くであろう、薔薇ばら色の未来。
 でも、誰でも叶えることができるかというと、それは微妙なところだ。
 もうすぐ二十七歳になろうとする今、春花はすっかり受け入れている。
 自分が可愛いお嫁さんにはなれそうにないこと。
 そして、神様は不公平なのだという現実を――


「もう、本当に失礼しちゃう。僕より背の高い方はちょっと……ですって。それなら最初に言いなさいよねえ。前もって釣書つりがきを渡して、お見合いをセッティングしてるんだから」

 三月下旬の日曜日。母親の親友である三杉みすぎ聡子さとこが、早朝から八尋やひろ家を訪れている。
 先週、春花は彼女の世話で見合いをした。その結果を春花達に伝えるため、彼女は目黒めぐろの自宅から日暮里にっぽりまで、車を飛ばして来たのだ。

「ねえ、春花ちゃん。あんな人は忘れて、次行きましょう、次!」

 彼女は恰幅かっぷくのいい身体を揺すり、本気で怒っている。築三十年の二階建て家屋が倒壊しそうな勢いだ。

「う、うん。そうだね、聡子さん」

 春花はとりあえず頷くが、どんな顔をすればいいのか分からない。五回目のお見合い失敗は、さすがに情けなかった。

「今度こそ、絶対にいい人探してくるからね。勤め先でもいろんな人に声かけてあるから」
「勤め先って、大学の事務所の方に?」

 母の静花しずかがコーヒーとトーストを居間に運んで来た。朝陽が差し込む部屋に、いい香りがただよう。

「そうそう、明都大めいとだいの総務課ね。でも、事務の人ばかりじゃないのよ。この間なんて、研究室に資料を配るついでに、教授達にも頼んじゃった」

 聡子は好物のシナモントーストをぺろりと平らげるとほがらかに笑った。さっきまでぷんぷんしていたのに、彼女は切り替えが早い。春花はほっとしつつも、今の発言には少し戸惑った。母も慌てたようにカップを置く。

「きょ、教授達って、そんな方々にまで。いくら何でもご迷惑でしょうに」
「大丈夫。いくら私でも、無理やり紹介してなんて言えないもの。それとなく世間話みたいな感じでね、気を遣わせないように頼んどいたわ」

 聡子は強引な性格をしてはいるが、気配りの人でもある。春花は母と目を合わせ、胸を撫で下ろした。

「早く決まるといいわよねえ、春花ちゃんの結婚。そうしたら静花も安心して、再婚に踏み切れるじゃない。武志たけしさんも、天国でそう願ってるはずよ」
「う、うん。でも、そんなに焦らなくても」

 母は困ったように笑うと、ふすまを開け放した隣の和室に目を向けた。奥に仏壇が置かれ、右側の鴨居かもいに遺影が飾られている。遺影の父は若く、凛々りりしい顔立ちをしている。
 大らかで優しい人だったと、母や聡子が教えてくれた。子煩悩こぼんのうな父は春花の面倒をよくみて、可愛がっていたと言う。

「武志さんが突然亡くなってから、あんたは女手一つで春花ちゃんを育ててきた。私はその苦労を見てきたからね、遠慮なく次のステージに進んでほしい。ねえ、春花ちゃんもそう思うわよね」
「はい、それはもちろん」

 父武志は、春花が小学校に入学する直前、交通事故にい亡くなった。それからの母は、生活のために、朝から晩まで必死に働く日々。
 その母が昨年末、仕事先で知り合った男性にプロポーズされた。
 しかし、春花を残して一人幸せになるのをためらい、再婚に踏み切れずにいるのだ。
 春花としては、そんなことはまったく気にしていない。何一つ不自由なく育てられ、大学まで出してもらったのだ。苦労をかけた母には、遠慮せず再婚してほしいし、幸せになってもらいたいと思っている。それに、春花はもう大人なのだ。母が新しく家庭をもつことにも、自分が一人暮らしすることにも、何の問題もない。
 とはいえ、一番いいのは自分も結婚して家庭を持つことだろう。そうすれば母も安心するはず。だから、聡子のすすめのもと、見合いをしているのだが……

「お母さんの親友として、最後の仕上げに協力させてもらうわよ。お見合い頑張ろうね、春花ちゃん!」

 子育ての最後の仕上げが結婚なんて、今時レトロな考え方だと思う。けど、母が安心するならそれでいいと、春花は思っている。ただそれが、春花にとってかなりハードルの高い課題であるだけで。

(私をヨメにしたい男性なんて、いるのだろうか)

 男の人は、可愛らしい女性が好きなのだ。砂糖菓子のように甘くて、ふんわりとして、守ってあげたくなるようなタイプが。
 五回の見合い失敗で……いや、もっと前から春花はそのことを思い知っている。こんな容姿に生まれついたのだから、可愛いお嫁さんになるなんて絶対に無理。

(お父さんも背が高くて、骨太だったとか)

 モカブラウンに染めた春花の髪はショートレイヤーで、女らしい色気はない。

(身長は一七五とちょっとだから、確かに高いよね。ていうより問題は、この肩幅の広さか。それとも二の腕のたくましさ……)

 春花という名前も、似合わなすぎてツライ。春に咲く花のように、愛らしい女性になりますようにと、父が付けてくれたのだけど。
 自分そっくりの遺影をちらりと見やり、春花は神様の不公平を恨んだ。


 聡子が帰った後、春花はスポーツクラブに出かけた。
 クラブは浜松町はままつちょうの会社近くにあり、いつもは退社後に利用している。今日は同期社員の落合おちあい理子りこに誘われたので、珍しく休日に泳ぐことになった。開発部に所属する彼女が、新製品を試着して評価してほしいというのだ。

(せっかくのお休みなのに、理子も仕事熱心だなあ)

 春花が勤める株式会社レパードスポーツは、主にスポーツウエアの製品開発・販売を事業としている。入社してすぐ、春花は希望どおり営業部に配属された。契約するスポーツショップを中心に担当して、五年目になる。
 ちなみに、男所帯の営業二課において春花は唯一の女性社員だ。ちょっと体育会系のノリの男性陣に囲まれながら、営業用のパンツスタイルで社用車を乗り回している。
 休日の空は、よく晴れて陽射しも暖かい。電車の中でも、行楽に出かける家族連れやカップルを何組も見かけた。

「ホントにいい天気。デート日和びよりって言うのかな」

 春花は歩きながら、ビルのガラス窓に映る自分を、何となく眺めた。紺色のトレーニングウエアを着て、肩にはスポーツバッグをかけている。デートとはほど遠い格好だ。
 ガラス窓から目を逸らし、歩道を速足で進んだ。
 どうしても、もやもやしてしまう。
 五回連続で見合い相手に断られた。その心の傷は、春花が思うよりずっと深かったようだ。


 日曜日のスポーツクラブは、受付係の女性が平日と違っている。会員証を出すと、彼女は春花の顔をじっと見つめてきて、ぽっと頬を染めた。

「はい、八尋春花さんですね……って。え、女性?」

 彼女は会員証の名前と春花の顔を交互に確認し、目をまたたかせている。

「ごっ、ご利用ありがとうございますっ。頑張ってください!」
「……どうも」

 ひっくり返った声を出され、春花まで赤面しそうだった。会員証をバッグに仕舞うと、スニーカーを大股で進めた。

(プールで理子が待ってる。早く行こう)
「ねえねえ。あの人、めちゃくちゃかっこよくない?」
「やーん、ホントだ。SEVENAREAのカイトそっくりー」

 急ぎ足でロビーを抜ける春花を、若い女性が注目してきた。
 彼女達が口にしたアイドルグループを、春花も知っている。リーダーのカイトに似ていると、会社の女性社員によく言われるし、自分でもちょっとそう思う。

(うう……スカートを穿いて来ればよかった)

 休日のスポーツクラブは、受付係のみならず、利用する会員も平日とは異なっている。
 更衣室に入ってすぐにトレーニングウエアを脱ぎ、春花は自分が女であることをアピールした。男性に間違えられて、大騒ぎになっては困る。

「あれま。アンタ女だったのかい。いやー、男前だねえ」

 水着に着替え終わると、年配の女性が近付いてきてズバリと言った。心から驚いた様子に、春花は苦笑するしかない。

「おーい、八尋。こっちだよ」

 プールに行くと、ストレッチ用スペースで理子が待っていた。スクール水着のような紺のワンピースが、彼女の目印である。

「ごめん、待った?」
「全然」

 トコトコ近付いて来た理子は、小柄な身体を背伸びさせて春花を見上げ、ニッと笑う。

「実験体になりそうな、ガタイのいい男子を物色してたのよ。いろんな妄想がふくらんで、時が経つのも忘れるわ。ふふふ」
「そ、そう」

 よく分からないが、とても楽しそうだ。一体どんな妄想なのか……春花は深く追及せず、泳ぐ前のストレッチを始めた。
 理子とは部署は違うが、新入社員研修で同じグループになり、仲良くなった。
 有名な理工系大学出身の彼女は理知的で、他の女性社員とは雰囲気が違っている。愛想がなくて、口のき方もぶっきらぼう。最初はとっつきにくい印象だったけれど、話せば面白い人だった。
 でも、どこか変人っぽいのは、いわゆるリケジョだからだろうか。

「何か言った?」
「ううん、何でも」

 いやいや偏見はよくない。春花は反省し、慌てて首を振った。

「ふーん。ところで、新素材の着心地はどう?」

 理子が春花の全身を見回す。

「うん、すごくいい感じ。最初はきつく締まるけど、動くたびにしっくりと馴染なじんでくる」
「ふふん、そうでしょう。『野性のフォルム』というのが製品コンセプトだからね」

 競泳用のハーフスパッツの水着は、学生時代水泳選手だった春花の身体にぴたりとフィットしている。この春、レパードのスイムウエアブランドが売り出したニューモデルだ。
 開発部に所属する理子は、その研究チームの一員である。

「ブルーグレイに白のライン。流線型のデザインは、バンドウイルカをモチーフにしてるんだ」
「へえ、なるほど」

 春花はあらためて、着心地のいい水着を見下ろした。このデザインなら海の生き物のように、すいすい泳げそうな気がする。一般のスポーツクラブで着ていても違和感のない色使いも、好印象だ。

「それじゃ早速、試してみるね」
「八尋選手の自己ベスト、更新できるかもよ」
「ええ? まっさかあ」

 春花はキャップとゴーグルを装着すると、プールサイドに向かった。
 二十五メートルプールは、泳力えいりょくごとにコースが分かれている。初級、中級者向けは平日より混んでいるが、上級者コースで泳ぐのは数人だった。

「ん?」

 上級者コースで一人、目立つ人がいた。ストロークが美しい、キックもなめらかなクロールだ。水しぶきをほとんど立てずに進んでいく。

「わあ、きれいなフォーム」

 春花は呟くと、その人が被る銀色のキャップを目で追いながら、上級者コースへ移動した。
 コースは右側通行の左回りで泳ぐルールになっている。上級者で立ち止まる人はおらず、水族館の魚のようにぐるぐる旋回している。
 プールに入ると、銀色のキャップが向こうの壁でターンするのが見えた。春花はそのタイミングでスタートする。

(あれっ、何か調子いい。水着の効果かな)

 ひとかきで一気に伸びる推進力を感じる。現役時代のような手応えだ。
 途中で、銀色のキャップとすれ違う。一瞬だったけれど、フォームが美しいばかりではなく、力強い泳ぎであるのが分かった。

(気持ちよさそう。いいなあ、あの泳ぎ)

 釣られるように、春花はピッチを上げる。何度もターンするうちに、胸のもやもやはいつしか消えていた。水の中にいると、春花は自由になる。広い海原うなばらをイメージして、伸び伸びするのだ。
 中学・高校と水泳部に所属したのは、この解放感にせられたから。肩幅が広くなったけれど、それでも泳ぐことが大好きだ。
 コンプレックスもトラウマも、みんな忘れるくらい――
 かなりの距離を泳いで、春花はストップした。まだまだいけそうだったけれど、コースが混んできたのだ。肩で息をしながら、泳ぐ人のじゃまにならないよう端に寄り、プールから上がった。

「ああ、楽しかった。この水着、最高!」

 スイムウエアの進化に感動し、思わず声を上げる。製品評価を理子に報告するため、プールサイドを急いで歩き出した。と、その時。

「ぐっ……いたたた!」

 右足のふくらはぎに激痛が走った。これは、きんけいれん――いわゆるこむらがえりの症状である。あまりの痛さに動けなくなり、その場に立ちすくんだ。

(うわあ、どうしよ。ちゃんとストレッチしたのに、頑張りすぎたかな)

 こんなところに突っ立っていては、じゃまになる。何とか移動しようとするが、痛すぎて動けない。

「君、無理をしてはだめだ」

 低い声が頭の上で響いた。プールのスタッフかと思い、焦って顔を上げる。
 銀色のキャップを着けたその人が、ゴーグル越しに春花を見つめていた。上級者コースで、きれいなフォームで泳いでいた人だと、すぐに分かった。

「すっ、すみません。今、どきます。ちょっと足がつってしまって……」
「そのようだな。ほら、私に掴まりなさい」

 彼の口調はとても落ち着いている。戸惑う春花の腕を支えると、彼は一緒にゆっくり歩きプールサイドの端まで連れて行ってくれた。しっかりした支えのおかげで、春花の身体に負担がかからない。それどころかふわりと浮いて、羽根がえたような気さえする。

(わっ)

 彼は自分より背が高く、体格もいい。その力強さに、春花はかつてない感動を覚えた。それに、こんなふうに女性として扱われるのは久しぶりで、緊張してしまう。

「あっ、ありがとうございます……ウッ」

 自力で立とうとするが、ふくらはぎがピンと突っ張り、涙が出そうなほど痛い。足の指先が不自然な格好で固まっている。

「ここに座って、脚を前に出す。ゆっくりとでいい」
「えっ?」

 彼は床を指差している。
 こむらがえりを治してくれると言うのか。春花はとんでもないと手を振った。

「いいんです、そんな。ご迷惑をおかけしては」
「早く処置したほうがいい。放っておくと、痛みが長引くぞ」

 それは、確かにそうだ。水泳選手だった春花も、応急処置の大切さはよく知っている。

「お願いします」
「うむ」

 彼に支えてもらいながら腰を下ろし、右膝を伸ばした。

「よし。私に任せて、リラックスしなさい」

 彼は真向かいにしゃがむと、春花の足首を軽く持ち、固まっている指先を片方の手で包む。そして、きちんと膝が伸びているのを確かめてから、ぐっと押してきた。

「……んっ」
「収縮した筋肉を伸ばす。ゆっくりと、慎重に」

 ふくらはぎの痛みが徐々に治まっていく。彼の低い声は耳に心地よく、安心感を与えてくれる。
 春花がホッとした顔になると、彼は手を離した。

「どうだ、少しは楽になったか?」
「はい、かなり楽になりました」

 元気よく返事をすると、彼はちょっと笑った。ゴーグルをしたままなので目の表情は見えないが、優しい笑みに感じる。

(あ、よく見るとこの人、度付きゴーグルをしてる)

 ということは、普段は眼鏡かコンタクトを着けているのだろう。鼻筋が通った顔立ちは知性的で、眼鏡が似合いそうな気がする。
 春花はそんなことを考え、彼が男性であることを急に意識した。
 年齢は三十歳くらいだろうか。親切で大人で、落ち着いている。穏やかな雰囲気といい、好きなタイプかもしれない。

「立てるか? 気を付けて」
「す、すみません」

 立ち上がる時も、彼はさり気なく支えてくれる。春花を守る自然な仕草に、かすかにときめいてしまった。

「ところで君。さっき、上級者コースで泳いでいたね」
「えっ、はい」

 向かい合うと、彼はじっと見つめてきた。ゴーグルの表面には、春花しか映っていない。

「あ、あの……?」
「素晴らしい泳ぎだった。その水着も、よく似合っている」
「え……」

 ストレートすぎる言葉に、反応が遅れた。今のは、めてくれたのだ。

(私の泳ぎを? それに、水着が似合うだなんて)
「や、そんなことはない……かと」

 春花は恥ずかしくてもじもじするが、彼は真剣そのものである。それならば、こちらも真面目に応えなければ失礼だ。

「ありがとうございます。嬉しいです」
「うむ」

 彼は深く頷くと、一歩前に踏み出した。急激に距離が縮まり、春花はドキッとする。

(え、なに。どうして、こんな近くに)

 とある予感が胸をよぎった。
 今のめ言葉には、もっと深い意味がある? 信じられないけれど、この接近はそうとしか思えない。つまり、彼は男性として私のことを……
 ゴーグル越しに感じる熱い視線に射貫かれ、春花は動けなくなる。

「君はまるで……」

 ため息のような声で、一体何を言うのか。早鐘を打つ胸を必死で押さえ、期待を封じ込めようとした。私を口説くどくだなんて、そんなこと絶対にあり得ない。

「かいじゅうのようだ」
「……へ」


 怪獣――?


 春花はこれまで、平均以上の背丈や体格、中性的な容姿について、男子にからかわれてきた。ノッポだとか、東京タワーだとか、オトコオンナだとか。
 だけど、それもせいぜい中学時代まで。彼のような大人の男性がそんなことを口走るなんて信じられない。

「あ、あの、今のって……どういう意……」
「君のような女性がこの世にいたとは。まさに奇跡だ」
「はあ?」

 さらに呆然とする。この人は面と向かって、春花のことを愚弄ぐろうしている。しかも真剣に、冗談のかけらもなく、本気で。

(要するに、泳ぐ姿が怪獣だったってこと?)

 そういえば、グレイの水着は怪獣色と言えなくもない。なるほど、そういうわけだったのか。
 春花は拳を握りしめ、衝撃に耐える。だが彼は、不穏な空気にまるで気付いていないようだ。

「実に興味深い。ぜひ、名前を聞かせてくれないか」
(冗談じゃない!)

 こんな人にときめきを感じてしまったバカな自分が、心底いやになる。

「私、これで失礼いたします。どうも、ありがとうございました」

 こむら返りを処置してくれたお礼はする。でも、名前を教えるなんてごめんだ。春花は質問を無視して立ち去ろうとした。

「どしたの、八尋。何かあった?」
「ひっ」

 たこの頭がにゅっと出た――と思ってよく見たら、赤いシリコンキャップを被った理子だった。

「び、びっくりした。いつからそこにいたの?」
「ついさっきから。この人、誰?」

 理子は彼を目で示し、ぶっきらぼうにいた。見知らぬ男に対し、どこか警戒する目つきである。

「あ、この人は……」
「君は、『やひろ』というのか」

 彼は前のめりになって、春花に確認した。理子に呼ばれた名前を聞いたらしい。

「そうです。でも、忘れてください」

 くるりと背を向けると、理子の手を引っ張り、出口へまっすぐに進む。「八尋さん!」と彼が呼ぶけれど、絶対に振り向くものか。
 怪獣だなんて――
 怪獣だなんて!
 失礼にもほどがある。

「どうしたのさ。八尋が怒るなんて、めっずらしー」
「……」

 理子の指摘に、春花は言葉を詰まらせる。なぜこんなにも腹が立つのか、分かっているのだ。
 五回の見合い失敗という大怪我。
 傷付いた心にトドメを刺すような、痛烈な出来事だった。


 翌日の月曜日。
 昨日のダメージが後を引き、朝起きるのも億劫おっくうだったけれど、仕事を休むわけにいかない。それに、忙しくしていたほうが気がまぎれる。春花はいつものように出勤し、仕事をこなした。

「おい、八尋。さっきお前のファンが来てたぞ」
「ファン?」

 夕方過ぎに外回りから帰ると、先輩社員が面白そうに声をかけてきた。デスクの上を見ると、カラフルなラッピングバッグが置いてある。

(あ、もしかして)

 添えられたカードに、HappyBirthdayの文字。今日は春花の誕生日である。

「何課の子か知らんが、二人の女子。『私達、八尋センパイの大ファンなんですう』だってさ」

 カードを開くと、可愛らしい丸文字が並んでいる。中身は手作りクッキーのようだ。

「あれ、名前が書いてないですね」
「こっそり見てるのが好きだからって、名乗りもしなかったぜ。お礼もいらないそうだ」
「そ、そうなんですか。どうもすみません」

 春花は複雑な笑みを浮かべつつ、プレゼントをバッグに仕舞った。

(そっか。私、二十七歳になったんだ)
「お前が入社するまで、俺が人気ナンバーワンだったのになあ」

 パソコンで業務報告書を作成する春花に絡んできたのは、六つ年上の神林かんばやしだ。彼は優秀な営業マンであることに加え、背が高くてイケメンで、モテ要素満載の人である。

「なんで俺には、プレゼントくれないんだろ」
「先輩は結婚してるからでしょう」

 分かってるくせに、毎度同じことをいてくる。悪い人ではないけれど、ちょっとめんどくさい。

「あんな素敵な奥さんがいるのに、贅沢ぜいたくですよ」
「ははは、なに言ってんだよ。素敵だなんてそんな、照れるじゃないか」

 神林が年貢ねんぐを納めたのは去年の秋。彼が奥さんに夢中になり、れ抜いて一緒になったとのこと。幸せ絶頂の新婚さんは、ことあるごとにノロケてくる。
 そして、お決まりのアドバイス。

「八尋。女っていうのはな、求められてナンボだよ。男に愛されて、大事にされて、守られる。それが究極の幸福ってもんだ」
「……はあ」

 神林は意外に古風なのだ。今の時代にそぐわない考え方だが、その熱弁には説得力がある。

「お前を気に入って、どうしても結婚したいってやつが現れたら迷わずヨメにいけ。そうすれば、俺の奥さんのように満たされた生活が送れる」
「自分で言ってりゃ、世話ないよ。八尋、適当に聞いとけよ」

 近くにいた上司がちゃちゃを入れ、周囲で笑いが起きる。神林はさすがに恥ずかしくなったのか、大人しく自分の仕事に戻った。

(まあ、そんな人が現れたら……の話だよね)

 報告書を作成し、明日の準備を整えてからオフィスを出た。それほど遅い時間ではないが、既に日が暮れている。
 駅へ向かって歩きながら、春花は小さなため息をついた。バッグの中で、見知らぬファンからのプレゼントが、がさごそと音を立てている。

(……二十七歳、か)

 苦い思い出が胸をよぎる。あれから十二年も経つのだ。
 中学二年の秋、春花は同級生の男子に告白された。彼はサッカー部に所属するスポーツ少年で、女子に人気があった。どうして自分を好きになったのかと不思議に思いながらも、明るく積極的な彼にかれ、付き合うようになる。
 春花にとって初めての彼氏であり、初めての恋だった。
 当時、春花は背がさほど高くなく、平均的な体格をしていた。彼のほうが目線は上で、ごく普通の、バランスの取れたカップルだった。

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