61 / 236
幸せの部屋
1
しおりを挟む
智哉さんのマンションに移ることになった私は、彼が迎えにくるまでの間に急いで荷造りした。
とりあえず、二、三日ぶんの着替えと『お泊まりセット』を旅行バッグに詰める。本格的な引越し準備は、明日以降だ。
「お泊まりセットなんて、何年振りだろ」
大学時代、付き合っていた彼氏のアパートに、たびたび泊まった。サークルの飲み会の帰りとか、遅くまでデートした夜とか。わりと気楽に上がり込んだ気がする。
でも今の私は、気楽どころか緊張の極みだ。あの頃と比べ物にならないくらいドキドキしている。
初めての感覚だった。
「そっか。今回の場合は泊まる……ていうんじゃなくて、一緒に暮らすんだものね」
智哉さんの口振りからすると、ルームシェアというより同棲。つまり私は、彼とともに一つ屋根の下で生活するのだ。まるで、結婚した男女みたいに。
ますます胸が高鳴る。智哉さんと出会って以来、何となく意識してきた結婚の二文字が、急に現実味を帯びてきたような。そういえば、実家の母が『良い人ができたら紹介してね。縁市の人でもいいわよ』なんて言ってたっけ。
部屋の戸締りを確かめながら、あれこれ考えた。
「そういえば、智哉さんの実家ってどこだろう。もしかして本当に地元の人なのかな」
今度、聞いてみなくては。生活をともにする彼のことをもっと知りたい。
それに、このアパートを出ることをいずれ親に報告する。その際、智哉さんのマンションに引越す経緯を根掘り葉掘り訊かれるだろう。彼のことを何も知らないでは、心配性の母が納得すまい。
準備万端整った頃、インターホンが鳴った。時間どおり、智哉さんが迎えにきてくれたのだ。
部屋のライトを消して、玄関に急ぐ。
ドアを開けると、彼は私の顔と姿を見回し、ほっとしたように笑う。
「行こうか」
智哉さんは私の旅行バッグを当然のように持ち、片方の腕をそっと肩に回した。なんというさり気なさ。スマートなリードに、胸が再びときめき始める。鍵をかける手が震えてしまう。
「……智哉さん?」
歩き出そうとして、彼は立ち止まった。506号室のドアをじっと見ている。
ほんの数秒だけれど、とても冷たく、怖い顔になるのがわかった。
「これからは僕が傍にいて、君を守る」
「……」
私を見つめる眼差しはとても優しい。ロマンティックで幸せな未来が、目の前に広がっていた。
智哉さんはタクシーで迎えにきていた。お酒を飲んでいるからかな……と思ったが、彼は車を持っていないという。
「通勤は徒歩だし、車に乗る必要がほとんどないからね。ここ最近運転したのは、店の車くらいだ」
少し意外な気がした。智哉さんなら、最新型の洒落た車に乗っているのでは――と、勝手に想像していた。
でも確かに、街中に住めば車は不要だろう。
タクシーが本町のメインストリート沿いに立つマンションに着いたのは、四十分後。雨降りのためかスピードは控えめだった。
車を降りて建物を見上げた私は、メゾン城田とは大違いの立派な外観に圧倒された。
「僕の部屋番号は1401だよ」
マンションは地上14階建てなので、最上階である。
「間取りは3LDK。天井が高いから、部屋が広く感じられるのが気に入ってる。冬は暖房代が、多少かさむけどね」
「なるほど」
智哉さんは私の荷物を持ち、玄関へと歩き出す。もちろん出入口はオートロックだ。
中に入ると、通りの音が遮断された。静かな空間に、二人の靴音がきれいに響き渡る。
(ロビーの床も壁もぴかぴか……新築のマンションかしら)
水樹智哉。三十二歳、独身。職業は老舗の靴販売店『ドゥマン』の店長。
紳士で、優しくて、立派なマンションに一人暮らしをする彼と偶然出会い、同棲することになった。この出来過ぎの展開は、ベタな恋愛小説のよう。しかも私は、大学時代の彼氏と別れて以来、恋愛から遠ざかっていた枯れ女である。
「なんだか、夢みたい」
「夢?」
エレベーターホールに響くつぶやきに、智哉さんはクスッと笑う。
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、その……私が夢見てた、理想どおりの展開だから、理解が追い付かないというか」
「理想どおり? 僕にも理想どおりだよ」
「ええっ?」
それは、私と一緒に暮らすことが、だろうか。
刺激的な発言に驚き、彼を見上げる。
「僕の望んだとおり、展開してる。君と出会って、恋をして、一緒に暮らすのは理想であると同時に、当たり前のことなんだ。なにも怖がることはない」
「智哉さん……」
愛情にあふれた眼差しに包まれる。
私は智哉さんの恋人。彼の想いに応えることが幸せ。もっと素直に、感じるままに、甘えればいい。
「好きだよ、ハル」
彼がくれたのは、優しくも熱い口付け。
爽やかな男性の香りが、枯れ女の恋心を、しっとりと潤した。
とりあえず、二、三日ぶんの着替えと『お泊まりセット』を旅行バッグに詰める。本格的な引越し準備は、明日以降だ。
「お泊まりセットなんて、何年振りだろ」
大学時代、付き合っていた彼氏のアパートに、たびたび泊まった。サークルの飲み会の帰りとか、遅くまでデートした夜とか。わりと気楽に上がり込んだ気がする。
でも今の私は、気楽どころか緊張の極みだ。あの頃と比べ物にならないくらいドキドキしている。
初めての感覚だった。
「そっか。今回の場合は泊まる……ていうんじゃなくて、一緒に暮らすんだものね」
智哉さんの口振りからすると、ルームシェアというより同棲。つまり私は、彼とともに一つ屋根の下で生活するのだ。まるで、結婚した男女みたいに。
ますます胸が高鳴る。智哉さんと出会って以来、何となく意識してきた結婚の二文字が、急に現実味を帯びてきたような。そういえば、実家の母が『良い人ができたら紹介してね。縁市の人でもいいわよ』なんて言ってたっけ。
部屋の戸締りを確かめながら、あれこれ考えた。
「そういえば、智哉さんの実家ってどこだろう。もしかして本当に地元の人なのかな」
今度、聞いてみなくては。生活をともにする彼のことをもっと知りたい。
それに、このアパートを出ることをいずれ親に報告する。その際、智哉さんのマンションに引越す経緯を根掘り葉掘り訊かれるだろう。彼のことを何も知らないでは、心配性の母が納得すまい。
準備万端整った頃、インターホンが鳴った。時間どおり、智哉さんが迎えにきてくれたのだ。
部屋のライトを消して、玄関に急ぐ。
ドアを開けると、彼は私の顔と姿を見回し、ほっとしたように笑う。
「行こうか」
智哉さんは私の旅行バッグを当然のように持ち、片方の腕をそっと肩に回した。なんというさり気なさ。スマートなリードに、胸が再びときめき始める。鍵をかける手が震えてしまう。
「……智哉さん?」
歩き出そうとして、彼は立ち止まった。506号室のドアをじっと見ている。
ほんの数秒だけれど、とても冷たく、怖い顔になるのがわかった。
「これからは僕が傍にいて、君を守る」
「……」
私を見つめる眼差しはとても優しい。ロマンティックで幸せな未来が、目の前に広がっていた。
智哉さんはタクシーで迎えにきていた。お酒を飲んでいるからかな……と思ったが、彼は車を持っていないという。
「通勤は徒歩だし、車に乗る必要がほとんどないからね。ここ最近運転したのは、店の車くらいだ」
少し意外な気がした。智哉さんなら、最新型の洒落た車に乗っているのでは――と、勝手に想像していた。
でも確かに、街中に住めば車は不要だろう。
タクシーが本町のメインストリート沿いに立つマンションに着いたのは、四十分後。雨降りのためかスピードは控えめだった。
車を降りて建物を見上げた私は、メゾン城田とは大違いの立派な外観に圧倒された。
「僕の部屋番号は1401だよ」
マンションは地上14階建てなので、最上階である。
「間取りは3LDK。天井が高いから、部屋が広く感じられるのが気に入ってる。冬は暖房代が、多少かさむけどね」
「なるほど」
智哉さんは私の荷物を持ち、玄関へと歩き出す。もちろん出入口はオートロックだ。
中に入ると、通りの音が遮断された。静かな空間に、二人の靴音がきれいに響き渡る。
(ロビーの床も壁もぴかぴか……新築のマンションかしら)
水樹智哉。三十二歳、独身。職業は老舗の靴販売店『ドゥマン』の店長。
紳士で、優しくて、立派なマンションに一人暮らしをする彼と偶然出会い、同棲することになった。この出来過ぎの展開は、ベタな恋愛小説のよう。しかも私は、大学時代の彼氏と別れて以来、恋愛から遠ざかっていた枯れ女である。
「なんだか、夢みたい」
「夢?」
エレベーターホールに響くつぶやきに、智哉さんはクスッと笑う。
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、その……私が夢見てた、理想どおりの展開だから、理解が追い付かないというか」
「理想どおり? 僕にも理想どおりだよ」
「ええっ?」
それは、私と一緒に暮らすことが、だろうか。
刺激的な発言に驚き、彼を見上げる。
「僕の望んだとおり、展開してる。君と出会って、恋をして、一緒に暮らすのは理想であると同時に、当たり前のことなんだ。なにも怖がることはない」
「智哉さん……」
愛情にあふれた眼差しに包まれる。
私は智哉さんの恋人。彼の想いに応えることが幸せ。もっと素直に、感じるままに、甘えればいい。
「好きだよ、ハル」
彼がくれたのは、優しくも熱い口付け。
爽やかな男性の香りが、枯れ女の恋心を、しっとりと潤した。
0
あなたにおすすめの小説
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
椿の国の後宮のはなし
犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。
若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。
有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。
しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。
幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……?
あまり暗くなり過ぎない後宮物語。
雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。
※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
私の優しいお父さん
有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。
少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。
昔、私に何があったんだろう。
お母さんは、どうしちゃったんだろう。
お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。
いつか、思い出す日が来るのかな。
思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
離縁の雨が降りやめば
碧月あめり
キャラ文芸
龍の眷属である竜堂家に生まれた葵は、三つのときに美雲神社の一つ目の龍神様の契約花嫁になった。
これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしで、花嫁が十六になるときに龍神との離縁が約束されている。
花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。それは龍神が花嫁を現世に戻すために降らせる離縁の雨だと言われていて、雨は三日三晩降り続いたのちに止む。
雨がやめば、離縁された花嫁は次の龍神の花嫁を産むために美雲神社を去らなければいけない。
だが、葵には龍神との離縁後も美雲神社に留まりたい理由があった。
幼い頃から兄のように慕ってきた御蔭という人の存在があるからだ。
白銀の髪に隻眼の御蔭は美しく、どこか不思議な雰囲気を纏っているが美雲神社の人間からは《見えない存在》として扱われている。
御蔭とともにいることを願っている葵だが、彼のほうは葵に無頓着のようだった。
葵が十六の誕生日を迎えた日。不思議な雨が降り始める。習わし通りであれば三日降り続いたあとやむ雨が、なぜか十日以上も降りやまず……。
27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?
藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。
結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの?
もう、みんな、うるさい!
私は私。好きに生きさせてよね。
この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。
彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。
私の人生に彩りをくれる、その人。
その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。
⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。
⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる