恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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私は部屋に戻ると、今最も優先すべき作業に取りかかった。

アパートを出る準備だ。

賃貸契約書には、退去の連絡は管理会社にするよう記載されている。今日連絡すると、解約日は来月末。一か月分の家賃が無駄になるが、急に決めたことなので仕方がない。

早速、管理会社に電話を入れた。短すぎる契約期間だが、事情が事情なので先方も察してくれたのか、手続きはスムーズに行われた。


「大家さんは、どうしよう」


連絡なしというのは不義理である。後日、あらためて挨拶に伺おうと思った。


「さてと。まだ時間があるし、できるだけ荷造りしちゃおう。洋服とか、自分で持ち運べるものはバッグに詰めてと……あっ、でも、帰りにスーパーで買い物するから、大量に持つのは無理だよね」


夕飯は私が作るつもりなので、その買い物だ。

何から何まで智哉さんのお世話になるのは心苦しい。せめて家事をやらせてもらおうと決めている。


「料理を作って彼の帰りを待つ……か。ふふっ、ホントに新婚さんみたい」


うきうきしながら作業していると、仕事用のスマートフォンが鳴った。通知プレビューに、山賀やまが小百合さゆりと表示されている。


「あれっ? 山賀さんって、今日はバイトお休みだよね。どうしたんだろ」


チーフではなく、私にかけてくるのは珍しい。ひょっとして個人的な用事かなと思いつつ応答した。


「はい、一条です」

『あっ、こんにちは。山賀です。突然お電話してすみません』


彼女は控え目な声で挨拶した。私は書棚から本を取り出し、床に並べながら、電話に耳を傾ける。


『お忙しいところ、すみません。今、大丈夫ですか』

「うん。今日は早退したから、もう自宅なのよ」

『えっ、そうなんですね』


まだ店にいると思ったようだ。窓を見ると、景色が夕暮れ色に染まっている。


『実は、その……一条さんにご相談というか、お話ししたいことがありまして』

「えっ?」


チーフの土屋さんではなく、私に相談――ということは、その土屋さんについてだ。

ライトノベルのスタッフとして、彼女のことが心配なのだろう。ましてや山賀さんは、土屋さんと仲の良い友達でもある。

お揃いのランチバッグが頭に浮かんだ。


『それで、できれば電話じゃなくて、直接会って相談したいのですが』

「いいけど……山賀さん、今どこにいるの?」

『駅前のコンビニです』


山賀さんも城田町の住民であり、緑大学前駅の利用客だ。


「近くにいるんだ。じゃあ、うちに来ない?」

『えっ、いいんですか?』

「もちろん。そのほうが落ち着いて話せるでしょ」

『は、はい。ありがとうございます』



地元民の山賀さんはメゾン城田の場所を知っていた。徒歩五分なので、コンロでお湯を沸かす間に彼女が到着する。


「すみません、おじゃまします」

「どうぞどうぞ。ごめんね、少し散らかってるけど」


山賀さんは椅子にちょこんと座り、遠慮がちに部屋を見回す。そして、書棚から出された本に目を留めると、緊張の面持ちになった。


「あの、もしかして、お引越しされるのですか?」

「……うん」


城田町は小さな町だ。昨日の自殺騒ぎを、たぶん彼女も知っている。


「昨日、隣の住人がベランダから落ちて、死んでしまったの」

「ええっ、お隣の人だったんですか?」


山賀さんは506号室側の壁を見やり、ぶるっと震えた。


「ちょっと気味が悪くてね、引っ越すことにした」

「それは、そうですよね。隣の人が死んだというのは、さすがに……誰だって引越したくなります」


本当は別の理由もあるのだが。話がややこしくなるので、ストーカーの件は伏せておくことにする。


「なんか、びっくりです。こんな田舎町で、恐ろしいできごとが続くなんて」

「ああ……」


半年ほど前に、この近くのすみれ荘というアパートで、殺人事件が起きている。隣人トラブルが原因だと、前に山賀さんが教えてくれた。

殺人事件もだが、今回の自殺騒ぎも恐ろしいできごとである。


「一条さん、なんだか大変ですね。この前、引越してきたばかりなのに」

「そうね。我ながら運が悪いわ」


でも、私はこのアパートを出る。東松刑事の言うとおり、早く引越して、嫌なことはすっぱり忘れたらいいのだ。

隣人の転落死、そしてストーカー行為にショックを受けたけれど、落ち込んだりしない。智哉さんは私のことを神経質で怖がりだと言うが、実は案外、図太いみたいだ。


「コーヒーをどうぞ」

「すみません」


私も椅子に座って向き合う。山賀さんはコーヒーを半分飲んでから、思い切ったように口を開いた。


「一条さんに話というのは、つっちー……土屋さんのことです」


やはり、そうだと思った。私は真摯な気持ちで彼女に頷く。


「昨日、土屋さんから電話があって、仕事を放り出して帰ってしまったと聞きました。店長とけんかしたそうですね」

「う、うん」


けんかというより、一方的に噛み付いたらしいが。店長と土屋さんの意識の違いを、上手く言葉にできない。


「こんなこと、一条さんに話すのは土屋さんに対する裏切りだけど、もう私、我慢の限界です」

「えっ?」


心臓がドキッとした。

まさかと思いながら、彼女の顔を見守る。


「土屋さんと古池店長は不倫関係です。もう、二年も前から」
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