恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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「店としては助かるけど。勉強も就活も忙しくなるのに、本当にいいの?」

『大丈夫ですよ。むしろ、今バイトをやめたら損だって、考え直したんです』

「損?」


首を傾げる私に、山賀さんは理由を述べた。


『私は書店の仕事が好きです。それに、慣れた職場を離れるのはもったいないですよね。就活はお金がかかるって言うし、効率よく稼ぐために、身に付けたスキルを生かそうと思って。というか、そもそも問題があるのは店長と土屋さんなのに、どうして私がやめなくちゃならないんですか?』

「う、うん」


その辺りも納得して、やめる決意をしたのでは?――疑問に思うけれど、本人が考え直したと言うなら、頷くほかない。


『不倫は個人の問題ですが、店長の場合は前の相手を退職に追い込んでいるので、かなり厳しい処分が下りますよ。その原因となった土屋さんも、店にいられません。あの二人がいなくなりさえすれば、私は楽しくバイトを続けられるんです』

「……なるほど」


理屈は筋が通っている。だけど、昨日と比べて180度の転換である。

どこか、山賀さんらしくないと感じた。


「何かあったの? 誰かに相談したとか」

『……や、そんな。私が相談したのは一条さんだけですよ』


一瞬、妙な間があった。

私の他に相談するとしたら、親か、友達か、彼氏か。

よく分からないけれど、追及するのは野暮かもしれない。最終的に結論を出したのは、彼女なのだ。


『とにかく、そんなわけです。あの二人と顔を合わせたくないけど、近々いなくなると思えば我慢できますし。一条さんも、あと少しの辛抱ですよ』

「ええ」


智哉さんにも、そう言って励まされた。山賀さんと私は同じ立場であり、気持ちの共有ができる同志だ。


「正直、あなたがバイトを続けてくれるのは嬉しい。ライトノベルは今日もいろいろあって、大変だったのよ」

『そうなんですか?』


ドアの向こうで、音がした。智哉さんがバスルームを出て、リビングに歩いていく。

私は早口で、今日のできごとを山賀さんに話した。


『土屋さんが体調不良で早退?』

「うん。明日も休まれたら、人手が足りなくなるわ」


山賀さんはしばらく無言でいたが、


『それって、妊娠……だったりして』

「え?」


何の話か、ぴんとこなかった。


『だって、トイレで吐いてたんですよね。つわりで、気持ち悪くなったのかも』

「にっ……妊娠って、まさか店長の?」

『それ以外、考えられません』


頭痛がしてきた。

上司と不倫して、妊娠。身近でそんなことが起きるとは思いも寄らず。


『大変なことになりますね』

「ええ。店長の家庭が崩壊するわ」


店長は自業自得だが、奥さんが気の毒すぎる。愛妻家のふりをした夫に長い間騙され、その上、子どもまで作られるなんて。


「本当に許せない。あの男、女の敵よ!」

『どうしようもありませんね!』


山賀さんと一緒に店長を罵った。

通話を切ると、私はパジャマを乱暴に掴み、頭から湯気を立ててバスルームに向かった。




洗面所で髪を乾かしてからリビングに行くと、智哉さんがソファに座り、ノートパソコンで作業していた。


「お仕事ですか?」

「ん、ああ……」


私に気付いた智哉さんは、ノートパソコンを閉じて脇に置いた。


「メールを確認してたんだ。僕が定時帰りの日は、遅番の社員が引継ぎ事項を報告するようになってるから」

「そうなんだ。智哉さんは責任者だものね」


彼の隣に座り、ふっと息をつく。同じ店長でも、ずいぶんな違いだ。


「私の上司が智哉さんならいいのに」

「ええ?」


智哉さんは面白そうに笑う。


「どうしたんだ、急に。そういえばさっき、誰かと電話してたな」

「……うん」


廊下に声が漏れていたらしい。

よく気の付く人だと感心しながら、頼もしい肩にもたれた。


「山賀さんが電話をくれたの。心境の変化があって、アルバイトを続けることにしたって」

「そうなのか。良かったじゃないか」


嬉しそうに言う。土屋さんのせいで彼女がやめるのを、彼も残念がっていたのだ。


「それは良いんだけど……」


土屋さんの妊娠疑惑について話すと、智哉さんは眉を曇らせた。


「もしそうなら、より複雑な状況だな。でも、今のところは君と山賀さんの推測だろ?」

「うん、まあ……」

「これまで土屋さんに、妊娠の兆候が見られたことは?」

「うーん、特にないわ。だからこそ、驚いたんだけど」


智哉さんは腕組みをして、考える顔になった。


「今朝会った時の彼女は、顔色が良かった。急につわりの症状が出るのも不自然だし、本人が言うように単なる腹痛かもしれない。だけど、もし妊娠となると……同情するよ」

「同情? 土屋さんにですか」


意外に思って訊くと、彼は首を横に振る。


「お腹の子に同情する。あんな連中が親だなんて、いい迷惑だ」


吐き捨てるように言い、あとは押し黙った。唇を結ぶ横顔は、怒っているように見える。


「智哉さん?」

「……ごめん」


なぜか謝ると、ノートパソコンを膝にのせた。


「僕はもう少し、仕事をする。ハルは先に休んでくれ」

「ん、分かった」


素直に返事をして、リビングを出た。智哉さんの態度が、いつになく頑なに感じられて、何も言えなかった。

まるで、怒るのを我慢しているような――


「智哉さんは優しい人だから、お腹の子をかわいそうに思うのよ。無責任な店長や土屋さんに対して怒ってるんだわ」


私も怒っている。

でも、もし本当に妊娠しているとしても、赤ちゃんに罪はない。土屋さんの身体を労わってあげなければ。

複雑な思いを抱いて、ひとり眠りについた。
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