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春菜の願い
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「沙智子さんは禁欲生活から解き放たれ、文字通り享楽的な生活を始めました。ちなみに、当時の様子については、僕の母が正確な情報を得ています。その辺りはまた、あとでお話ししますが……」
若月さんは喉が渇いたのか、一旦言葉を切り、コップの水を飲んだ。
「沙智子さんはあの美貌ですから、たちまち店の人気者になりました。彼女目当てで通う客たちと同伴したり、自宅に連れ帰ることもあった。店のルールに反しましたが、気にする人ではありません。特に酒が入ると、メチャクチャだったようです」
乱れた生活が目に浮かぶ。小さな子どもにとってつらすぎる環境だ。
「最も迷惑を被ったのはもちろん、智哉くんです。いろんな男が家に出入りするものだから、近所の噂になり、彼は学校でからかわれるようになりました。しかし沙智子さんは子どものことなどほったらかし。そもそも自分の健康管理もできないのだから。アルコールと不規則な生活がメンタルに影響し、たびたびクリニックに通っていたようです」
まさに享楽的な人だ。私の中で、さらに不安が広がっていく。
感情を抑えるために膝の上で手を組み、ぎゅっと握った。
「男を転がし、好きなように生きる沙智子さんでしたが、智哉くんが9歳になる頃、一人の客と深い関係になります。ネット起業家を名乗る、垢抜けた美男でした。面食いの沙智子さんは一目で気に入り、結婚をほのめかされたとたん、あっけなく陥落したそうです。そろそろ再婚して、田舎を出たかったんでしょうね。しかし、その北城という男は、借金を踏み倒して都会から逃げてきた、質の悪い人間だった。彼女は金蔓として捕まったわけです」
お母さんがそんな男と付き合ったら、智哉さんは……
さらなる環境の悪化。そして、虐待の二文字が頭をよぎる。その男は、新聞の見出しでよく見る、『母親の交際相手』ではないか。
私の不安を察知したのか、若月さんも暗い表情になる。
「その辺りについて、智哉くんは詳しく語りません。話したくないというより、記憶がはっきりしないようなんです。ただ、北城が家に来るたび、外で夜を明かしたとは言っていました」
「外?」
母親は、男が泊まりに来ると、子どもを家からしめ出したという。
「一晩中、外にいたってことですか?」
「そうです。庭にウサギ小屋があって、そこで寝ていたとか」
「ウサギ小屋!?」
予想もしない話にギョッとする。
「祖母が飼っていたウサギを、智哉くんが世話してたんです。わりと大きな小屋で、冬は暖房を入れてるし、あんがい快適だったと本人は笑ってましたが、あれは強がりですね。母親に家を追い出され、動物と同じ扱いをされたんだから。身も心もぼろぼろですよ。本当に、どうしてそんな仕打ちができるんだか」
これまで冷静に話していた若月さんが、声に怒りを滲ませた。私も、握りしめた両手がブルブルと震える。
「それって、虐待ですよね。智哉さんがそんな状態なのに、学校の先生とか近所の人とか、誰も助けてくれなかったんですか」
「余計なことを喋るなと、母親に口止めされたのでしょう。あと、沙智子さんは親戚やご近所と折り合いが悪く、彼女の家庭に誰も関わろうとしなかった。智哉くんは周りの大人たちに、見て見ぬふりをされていたんです」
「ひどい……」
私は智哉さんの母親……沙智子という女に憤りを覚えた。真っ暗なウサギ小屋で、ひとりぼっちで震える子どもを想像し、涙が滲む。
「それで、母親はどうしたんですか。再婚して、その、北城という男が智哉さんの継父に……?」
「ああ、いえ」
若月さんが首を横に振る。
「継父にはなりませんでした。沙智子さんと北城は、結婚する前に事故で死んだので……」
「えっ?」
事故死? すぐに理解できない私に、若月さんが説明する。
「山道の下りカーブを曲がりきれず、崖下に真っ逆さま。車ごと大炎上して、二人とも死にました。ちょうど、今頃の季節です」
若月さんは喉が渇いたのか、一旦言葉を切り、コップの水を飲んだ。
「沙智子さんはあの美貌ですから、たちまち店の人気者になりました。彼女目当てで通う客たちと同伴したり、自宅に連れ帰ることもあった。店のルールに反しましたが、気にする人ではありません。特に酒が入ると、メチャクチャだったようです」
乱れた生活が目に浮かぶ。小さな子どもにとってつらすぎる環境だ。
「最も迷惑を被ったのはもちろん、智哉くんです。いろんな男が家に出入りするものだから、近所の噂になり、彼は学校でからかわれるようになりました。しかし沙智子さんは子どものことなどほったらかし。そもそも自分の健康管理もできないのだから。アルコールと不規則な生活がメンタルに影響し、たびたびクリニックに通っていたようです」
まさに享楽的な人だ。私の中で、さらに不安が広がっていく。
感情を抑えるために膝の上で手を組み、ぎゅっと握った。
「男を転がし、好きなように生きる沙智子さんでしたが、智哉くんが9歳になる頃、一人の客と深い関係になります。ネット起業家を名乗る、垢抜けた美男でした。面食いの沙智子さんは一目で気に入り、結婚をほのめかされたとたん、あっけなく陥落したそうです。そろそろ再婚して、田舎を出たかったんでしょうね。しかし、その北城という男は、借金を踏み倒して都会から逃げてきた、質の悪い人間だった。彼女は金蔓として捕まったわけです」
お母さんがそんな男と付き合ったら、智哉さんは……
さらなる環境の悪化。そして、虐待の二文字が頭をよぎる。その男は、新聞の見出しでよく見る、『母親の交際相手』ではないか。
私の不安を察知したのか、若月さんも暗い表情になる。
「その辺りについて、智哉くんは詳しく語りません。話したくないというより、記憶がはっきりしないようなんです。ただ、北城が家に来るたび、外で夜を明かしたとは言っていました」
「外?」
母親は、男が泊まりに来ると、子どもを家からしめ出したという。
「一晩中、外にいたってことですか?」
「そうです。庭にウサギ小屋があって、そこで寝ていたとか」
「ウサギ小屋!?」
予想もしない話にギョッとする。
「祖母が飼っていたウサギを、智哉くんが世話してたんです。わりと大きな小屋で、冬は暖房を入れてるし、あんがい快適だったと本人は笑ってましたが、あれは強がりですね。母親に家を追い出され、動物と同じ扱いをされたんだから。身も心もぼろぼろですよ。本当に、どうしてそんな仕打ちができるんだか」
これまで冷静に話していた若月さんが、声に怒りを滲ませた。私も、握りしめた両手がブルブルと震える。
「それって、虐待ですよね。智哉さんがそんな状態なのに、学校の先生とか近所の人とか、誰も助けてくれなかったんですか」
「余計なことを喋るなと、母親に口止めされたのでしょう。あと、沙智子さんは親戚やご近所と折り合いが悪く、彼女の家庭に誰も関わろうとしなかった。智哉くんは周りの大人たちに、見て見ぬふりをされていたんです」
「ひどい……」
私は智哉さんの母親……沙智子という女に憤りを覚えた。真っ暗なウサギ小屋で、ひとりぼっちで震える子どもを想像し、涙が滲む。
「それで、母親はどうしたんですか。再婚して、その、北城という男が智哉さんの継父に……?」
「ああ、いえ」
若月さんが首を横に振る。
「継父にはなりませんでした。沙智子さんと北城は、結婚する前に事故で死んだので……」
「えっ?」
事故死? すぐに理解できない私に、若月さんが説明する。
「山道の下りカーブを曲がりきれず、崖下に真っ逆さま。車ごと大炎上して、二人とも死にました。ちょうど、今頃の季節です」
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